死期
ミッチェル卿学園は小中高一貫のキリスト系巨大ミッションスクールと、僕の通うミッチェル卿学園付属大学の二つから出来ている。
生徒数、敷地面積などがあまりにも巨大すぎたため、設立当初は他の学校との均衡が取れないだとか、街に偏った宗教観念ができるのでは……なんて言われていたみたいだけど、今となってはそんな声もなりを潜めている。
確か、最初に小中高一貫の学園が設立されて、それから最近になって大学が作られたらしい。だから小中高に比べて生徒数も少なく歴史の浅い大学は学園の隅っこにあり、非常に肩身が狭かった。
ま、そのおかげで宗教色は薄いから、僕のような信仰心の無い人間でも入れるのだろうけど。
嵐が明けて好天に恵まれた次の日の午後、僕はいろりちゃんから教えてもらった住所を頼りに、学園の中心部に来ていた。
サークルに入っていない僕は、冬休みの間学園に来ることなんて無いと思っていただけに、なんか妙な気分である。
学園の中心部まで足を伸ばした事が無かったので初めて見る学園の中が興味深く、辺りはとても新鮮な世界に見える。
中高生たちはまだ冬休みではないらしく、各校舎の窓からは授業を受ける生徒の姿が目に写った。
◇
――東学区高等部一号校舎のメルローズ礼拝堂・礼拝準備室……ここの建物の中だな。
表に出ている案内図で部屋を確認した僕は建物の中へと入る。一号舎というだけあって学園設立初期に作られた建物らしく、廊下は暗いし壁のひび割れも多く見受けられた。
所謂、お化けが出そうな類の建物である。
キリスト教系列学園の、しかも歴史のある由緒正しい建物をお化けが出そうという喩えもどうかとも思うけど、出そうなものは仕方がない。
暫く歩くと、準備室と書かれた部屋の前にたどり着く。
部屋のドアには『ろりぽっぷ(ポエム部)』の文字。(ポエム部)は鉛筆で書き加えられている。何というやっつけ感なんだ。
時計を見ると、ようやく十六時を少し回ったところ。学園内を迷うかもしれないと思って早く家を出たため、約束の時間までちょっと時間があった。
いろりちゃんたちはまだ授業中だろうな。でも、かと言って授業中の校舎内をうろうろとするわけにもいかんだろうし……部屋の前で暫く待ってみようか。
暇を潰そうと携帯を取り出した僕の耳に、ドアの向こうから聞き覚えのある一定のテンポを保った曲が聞こえてきた。
お経――。そう、お経だ。
虚無僧が僕の部屋で流していたのと同じリズムのお経!
――僕は息を飲んだ。
みんなはまだ授業中のハズ。じゃあこのお経は一体なんだ?
授業中の静まり返った校内。しかも建物の雰囲気と相まってめちゃくちゃ怖い。
しかし、僕は思い出していた。約一週間前の事を。
そうだ、あの時だって
結局お経の正体はラジカセだったじゃないか!
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせ、震える指をドアの引き手に添える。
くそっ! 滅茶苦茶入りにくい!
僕は深呼吸をしてから、ろりぽっぷと書かれた扉を思い切って開けた。
――ガタン!
部室の奥には少女が座っていた。
今日は虚無僧の格好はしていなかったものの、この外国の人形のような容姿は僕の部屋にいた念仏少女だ。間違いない。
少女は制服とは違う黒いワンピースを着ており、机に向かって懸命に何かを書いている。
どうやら僕の事に気は気づいていないらしく、下を向いたままだ。
……傍から見れば、英語で文字を綴る人形のような美少女。すごく絵になっている……それなのに、BGMがお経である。
しばらく立って様子を見ていたのだが、僕のことに気がつく様子も無いので思い切って声をかけてみることにした。
「ごめんください」
「……」
「ごめんくださーい!」
「……」
机の目の前にまで来ているというのにピクリとも反応することもなく、机に向かう少女。
お経のBGMが邪魔して聞こえないのだろうか?
顔を覗き込もうとして少女の机の前で軽くしゃがみ込んだ。すると僕の目の前には少女の下半身からスラっと伸びた白い脚が……。
いやいやいや! 違う! 何処を見ているんだ僕は!
慌てて顔を上げると、橙色の瞳と目が合った。
「あ……こ、こんにちは」
びくっとなって少女は驚いて立ち上がり、その拍子で机ごと前へと倒れそうになる。
――ガタッ!
「危ない!」
ガシャンと音を立てて落ちる黒インク、ペン立て、分厚いノート。
…………なんとか間に合った。
僕は机と少女は辛うじて支えたものの、机の上に置かれていた筆記用具類が地面に落下し、書きかけのノートの上にインクがぶちまけられてしまっている。
最初こそ驚いた顔をしていた少女だったが、すぐに感情のない無表情に戻っていた。
「……」
しかも、無言である。
「あ……、ごめん、驚かせてしまって」
「……」
「驚かすつもりじゃ、なかったんだけどさ」
「……」
「ええっと、僕の事覚えてるか?」
「……」
「前に一度、会ってるハズなんだけど」
地面にしゃがみ込んで、落ちた物を拾おうとする少女。怒っているのだろうか……何も喋らないのが超怖いんですけど。
「僕も手伝うよ」
筆記用具に手を伸ばしたところ、
「いい。自分でやるわ」 少女は下を向いたまま、呟くように言った。
「他人に見られては、困るもの」
やっと喋ってくれたけど、なんとも抑揚の無い、感情が込められていない言葉だ。
「え、ああ……そっか、でも、それなら大丈夫……」
僕は落ちているものを素早く拾いあげて机の上に戻した。
「僕、英語読めないからさ」
「……」
「いや、僕英語、読めないから……」
「……」
情けない言い訳を2度言った。それなのにガン無視である。我ながら滑稽すぎて泣けてくる。
僕の部屋に虚無僧姿で来た時は殆ど話も出来なかったから分からなかったけど、もしかしてこの子ものすごくキツい性格なんじゃないだろうか。
会ってものの1分の間に、僕は無視されるほど嫌われてしまったらしい。
……受け入れがたい状況だった。
落とした物を拾い終わった後も、地べたにはペタンと座ったままの少女。もちろん何も言わないし動かないままだ。
何か話しをしようと思っても、僕が何を言った所で無視されてしまうものだから、為す術が無かった。
――だけど、それでも僕はこの少女の事が好きかもしれない。
そう言っておいてなんだけど『好きだ』という自分の想いを確認するのは気持ち悪い。
別段これまで女子に対して斜に構えて来たわけではないけど、クラスの女子たちの話す下世話な会話を聞いていると僕にはとても付き合いきれないなぁと感じてしまい、常に距離をとって過ごしてきた。
じゃあ大して話もしていない目の前の少女が本当に好きか? と言われれば……いや、何か違う。好きというところまでは来ていないかもしれない。でも気になるのは事実だ。ましてや、夢の中にまであの少女の匂いを思い出すのだから末期症状だ。限りなく好きに近い感情だと言っていいだろう。
それがどうだ、会って一分のうちに訳も分からず嫌われるというこの状況、悲しすぎるだろ!?
せめて話を聞いてもらいたいが、どうしようか。
この微妙な空気をどうにかするためには、とりあえず謝るしかない。怒りの原因は驚かしてしまった事だろうか……。それとも、勝手に拾った事か? でもそんな事くらいで普通怒るとは思えないぞ。
驚かせたのは悪かったけど、返事をしない向こうも悪いし、ノートを拾ったことだって、英語が読めないとちゃんと断ったはずだ。
――ま、まさか!?
僕は気づいてしまった。さっき、うっかり机の下を覗き込んでしまった事を。
これだ! 間違いない……座っている女の子が、部屋に入ってきた男に、いきなり机の下から覗かれたら怒るに決まっている。
偶然とはいえ、悪いのは僕だ。謝ろう、謝るしか無い! 紳士らしく。
……しかし、なんと言って謝ればいいのか。うっかり覗いてごめん、か? いや、先程の様子だと、多少謝ったところで、とても許してもらえる気がしない。それどころか、火に油を注ぐ結果になりかねないぞ……。
ここはひとつ、重大な過ちを犯したという事、それを心からお詫びしたいという事を真摯な気持ちで伝えなければ
少女の方向にカラダごと向けると、僕はバイト先のコンビニで見た店長必須スキル『不祥事が発生した場合のお客様への対応方法(店長Ver)』を光の速さで頭の中に展開した……
――店長バージョンか……使いこなせるだろうか、僕のような一介のバイトに――
だが迷っている余地など無かった。僕は少女の目の前で土下座し、深刻かつ神妙な面持ちで謝罪の言葉を言い放つ。
「わざとじゃないとは言え、キミの下半身を覗き見てしまった事は謝る! すまない、このとおりだ!」
こ、この言葉で大丈夫だったのだろうか……店長スキルはさすがに制御が難しいな。
「……抱っこ」
――僕の中で、時が止まった。
その時『だっこ』という音を正しく理解するまでにも、軽く十秒以上の時間を要していたであろう。
ダッコ? DACO? 唾壺?
なんだろう、相手を蔑む新しい表現なのだろうか?
僕は頭の中で知りうる限りの語彙を総動員し、『だっこ』にまつわる単語を件名に探そうとするが見つからない。
少女はというと、両腕を上にあげてバンザイのポーズ。
……この『だっこ』は、まさかだとは思うが、アレ、なのか?
ハグ!? つまり、許してくれたという事なのか!?
ジェスチャーを交えて恐る恐る尋ねてみる。
「つまり、これって……あの……許す、という事?」
すると少女は少し間を置いてから、
「ノートが汚れてしまったわ。上の棚にある予備のノートを取りたいの」
「抱っこ、してくれないかしら」
やっぱり、あの抱っこか――!?
自分でも顔が赤くなるのが分かった。
落ち着け、落ち着くんだ僕! 彼女は新しいノートが取りたいだけだ、何も深い意味なんて無い。緊張することなんて何もないはずだ。
とは言うものの緊張していた僕は、その事を悟られないように気をつけながら颯爽と少女に近づき、両脇のあたりを両手で支え持ち上げる。
軽い! 見た目も小さいがそれ以上だ……本当に十六歳なのだろうか!?
思った以上に軽かった少女に驚きつつ、僕はそのまま肩車のような格好で少女を肩に載せて、予備のノートがあるという棚に移動する。
「ここで止まって」
――出会って5分の出来事だった。
最初に出会った時にも思ったことだけど、なんて常識が通じないんだ!
会って5分で知らない男に抱っこしてもらうなんて幼稚園生かよ。
……無防備にも程がある。
なんとか紳士モードを保ち肩車を続ける僕。平静を装うも、正直なところ心臓の鼓動はやばい。少女に聞こえたりしてないだろうかと心配もするものだから余計にである。
暫くして「降ろしていいわ」と少女が言った。
少女は僕から降りると、棚から取った新しいノートを机の上に置いてから棚の引き出しを開け、何かを探し始める。
「ところで、今日は何のご相談かしら?」
「えっと、じつ……」
「まずはこれに名前を書いて頂戴」
答える隙も無く目の前に差し出された一枚の書類。そこには大きく『宣誓書』の文字。
『主よ、私、 ㊞ は、
残りの人生をろりぽっぷへ捧げ、
仲間を信じ、助け合い、
お互いを尊敬し、
共に歩んでいくことを誓います。』
これは……㊞の前に名前をかけという事なのか。
何の宣誓書だこれは……ヘタに名前を書いたら、取り返しがつかなくなりそうだぞ。
「なぁ、これ書かないと駄目なの?」
「……」
また無視ですか、そうですか。
泣きたかった。僕は今すぐ自分のベッドで泣きたかった。
そして、我慢し難い熱いものが込み上げて来そうになったその時、部室のドアが勢い良く開いた。
「アミノ、おはよっ」
「あ! コウタさん!」
いろりちゃんと、千歳ちゃんだ。なんか……色々と助かった……。
「お、おはようございます!」
「おはよういろりちゃん、約束通り来たよ」
夕方なのに『おはよう』というのは、バイト先のコンビニだけだと思っていたけど……割りと市民権を獲得しているものなんだな。
「さっそくアミノに会いに来たんだ。コウタ君ってやらしいね」
「ば……今ちょっとそういう冗談はやめてくれよな……」
「どうかしたの?」
「なんか、怒らせちゃったみたいでさ」
「え? アミノちゃんを?」いろりちゃんが聞いてくる。
「ああ……さっきから、無視されていて話聞いてもらえないんだ」
「アミノちゃんが怒っているところなんて私、ほとんど見たこと無い、です……」
「前に押し倒された事怒ってるんじゃないのー?」
「いや、それはまだちょっと、色々あって話してなくて……」
「コウタさん、アミノちゃんに何をしたの、ですか?」
「何って言うか……まぁ、さっき驚かせてしまったというか……」
間違っても、下半身を覗き見たなんて言えない。絶対。
「アーミーノー」
千歳ちゃんが呼びかけるも、反応が無い。
僕はその時点で、なんとなく嫌な予感はしていた……。
いろりちゃんが少女の後ろに駆け寄って耳に手をかけた時、僕の予感は的中した。
「アミノちゃん。おはようございます」
「いろり、来ていたのね」
「アミノちゃん、これ……」
いろりちゃんは手のひらにあった物を、アミノという少女に渡した。
「……道理で静かだと思った……」
「耳栓をしたままだったなんて」
――突っ込みどころがありすぎて、僕は言葉を失った。
いや、ありすぎるどころか突っ込みどころしか無い!?
耳栓しながらお経を流していたのかとか、僕がいるにもかかわらず何も聞こえないのは気にしなかったのかとか……。
「この読経、ちょっと音量大きくないかしら」と言ってスイッチを切る少女。
ほら見ろぉぉぉ! 自分で耳栓しといてBGMなんか流すからだ!
だが僕は、あえて声に出して突っ込んだりはしない。いろりちゃんか千歳ちゃんが突っ込んでくれる――そう期待して。
変に突っ込んで少女と微妙な関係になるのを恐れたわけじゃないと言えば嘘になるが、一つどうしても気になることがあってその事を確認したかったのだ。
一週間前に念仏少女の襲撃を受けてから気づいた事だが……千歳ちゃんやいろりちゃんたちとの出会いは、何もかも、僕の中では常識はずれな出来事ばかりだった。
でも、思ったんだ……もしかして彼女たちの常識が世間とズレているのではなく、僕自身の常識が世間とズレているのではないかと。
これまで僕は高校を卒業して周りと同じように大学に入って普通にバイトもしているけど、大した友だち付き合いとか、親しい人間関係を築いてきたわけじゃない。
つまり、僕は人間関係の本質を知らない。
だから、もしかしてこうした突っ込みどころ満載の日常が世間一般にとって、特別なことではないのではないか……。いやむしろ、ここで突っ込むのは世間知らずの滑稽野郎なんじゃないかと思ったんだ。
息を飲んで、僕は千歳ちゃんといろりちゃんの様子を伺った。
「そういえば今日、家庭科実習でパンを焼いたんだー!」千歳ちゃんが言った。
何ぃ!? 耳栓の事に、突っ込まないだと!
「わぁ! 千歳ちゃん上手ぅ」
「みんなで食べよ!」
「お湯を沸かしているから、もう少し待って頂戴」
……みんな突っ込まないどころか、何事もなかったように違う会話に繋がってしまって耳栓の事はさも無かった事のようになっている。やはり、僕の常識がズレているのだ。
「コウタ君も一緒にパン食べるー? 美味しくないけど」
先に美味しくないって断言されちゃうとさぁ……僕も食べるーって言い辛いじゃないか千歳ちゃん。
みんなは、部屋の一角にあるやや大きめの台に椅子を並べて座った。
この台……どう見ても式典用の祭壇だよな……でもこの事も突っ込む者が誰もいない。つまりここも突っ込んではいけないところか。
世間と自分自身とのあまりの常識の乖離に、僕は額に汗が滲むのを感じた。
そこへ「どうぞ」と椅子を持って来てくれるいろりちゃん。
「有難う、いろりちゃん」
「えへへ」
緊張の連続だった僕の心を、いろりちゃんの笑顔が少しだけ癒してくれた。
「貴女たち、お知り合いなの?」
僕たちのやり取りを見て、アミノという少女が聞いてくる。
「じゃーん! 見て見て! シフォンパン!」
「千歳ちゃん、お料理上手だよね」
「ふふーん。これくらい簡単にできるから、今度いろりにも教えてあげる!」
「嬉しい……けど、私にできるかな。あはは」
「えーっと、そう……です。つい、昨日知り合ったばかりだけど」
じっとこちらを見つめる少女に、つい僕が答えてしまった。だって二人ともパンに夢中で話聞いてないんだもの……。
「そう」
少女は淹れた紅茶を台の上に並べ終えると、僕の隣に座った。
「私はクリスティン・アミノ・メルローズよ」
「アミノさんか。僕は鈴木コウタ。宜しく」
「鈴木さん、でいいかしら?」
「ああ……えっと、コウタでいいよ」
「……そう、コウタ。こちらこそ宜しく」
日本人離れしているなぁと思ったら、やっぱり外国の子だったんだな。
目の前には千歳ちゃんが焼いたというパンとアミノさんが入れてくれた紅茶……なんか、いつの間にかティータイムになってしまったけど、僕って今日何しに来たんだっけ……?
三人は談笑しながら優雅に? お茶を楽しんでいる。僕だけ蚊帳の外だけど……この空気一体どうすればいいのか。
……楽しそうだな……三人とも可愛いし……そういえば、部員は他にもいるのだろうか。
「ろりぽっぷって、他にも部員いるのか?」
真正面に座っている千歳ちゃんに向かって何気に話しかけると、「期待しすぎ」というお返事……。
どうしてわかっ……いや、決して他にも美少女たちがいるのではないかと期待したわけじゃないんだ。本当だ! 何なら神に誓ってもいい。
むしろ独りでいることを愛する僕は、あまり大人数だと今までのように僕はついて行けなくなって、自分から距離を置いてしまう――だから、三人だけということを聞いて安心した。
暫くお茶会は続いて……紅茶を一杯飲み干したくらいの時、僕は思い切って昨日聞きそびれてしまった事……ろりぽっぷが何の団体なのかを単刀直入に聞いてみた。
「ポエム部……いえ、同好会かしら」アミノさんが言った。
「ポエム同好会……?」
「詩を作ったり、詠み合ったりする同好会よ。表向きは」
いろりちゃんの言っていた、ろりぽっぷでも詩が必要というのはこの事だったのか。
って、表向きってなんだ!?
「表向きという事は、裏もあるのか?」
僕の質問にアミノさんは、千歳ちゃんといろりちゃんの顔を見て「言っていいの?」という顔をしている。
「あ、あの、コウタさんは……」いろりちゃんが喋った。
「今日は詩を教えてくれる約束で詩の先生、なので……」
「コウタ君はもう、無関係とは言えないね……ダイダイがダイスキだしー」
「うおぉい! 千歳ちゃん!」
駄目だ! 千歳ちゃんのペースに乗せられると……また何も聞けなくなってしまう!
「……そう、コウタは橙が好きなの」
「えーっと、いや、それは……」その橙が好きという意味じゃないんだけどな……。
「私も好きよ」
私も好きよ――。ほんのわずかに、アミノさんの目元が笑ったように見えた僕は、その破壊力に為す術もなく撃沈。裏のろりぽっぷが何をしている団体なのかとか、全部吹っ飛んでしまった。
笑ったように見えたのは多分、僕の妄想力の賜物だと思うけど……それにしても美少女というのは、ホント生まれながらの勝ち組だよなぁ……。
「橙の花から取れる香り――ネロリ、というのだけど、ネロリが好きでいつもお守り代わりに身に付けていたわ」
僕を悩ます水菓子のような匂いは……もしかして今言ったネロリだったのだろうか。
「そういえば、アミノちゃん……最近は付けてない……ですよね」
「ネロリの練り香水が入った小瓶をどこかで落としたらしいの」
「そ、そうなんだぁ」
「いつどこで無くしたか、思い出せなくて」
いろりちゃんと千歳ちゃんが一斉に僕の方を向く。嫌な予感しかしない。
「あー! コウタ君のお家に落ちているんじゃない!?」
「アミノ押し倒したの、コウタ君だもんね?」
僕が止める間もなく、千歳ちゃんが言ってくれた。誤解を招く表現たっぷりで!
「んま、待て! 押し倒したって……」
「そうね」
ええ――――!? なんて薄いリアクション!
いつもの抑揚のない、感情の無いセリフを言うアミノさんに、僕は驚きを隠せなかった。
「それじゃ、部屋で見つけたら返して頂戴……大切なお守りなの」
罵倒されるか無視されるかを覚悟していた僕が、呆気無いアミノさんのリアクションにどう返していいのか分からず黙っていると、
「貴方が犯人だという事は、さっき会った時から分かっていたわ」
「そうなの? なんで!」
「なんでって、顔を覚えてるから」
「ア、アミノちゃん! 記憶あるの!?」
「ええ、顔や体を触られていたところからは」
――カチャンッ!
いろりちゃんの持っていたティースプーンが指をすり抜け、台の上を転がった。
そして千歳ちゃんの視線が痛いほどに僕へと突き刺さる。
なんという修羅場だ。幸せのティータイムから一転、地獄のショータイムが始まったぞ。
しかもこれじゃあ僕が無抵抗な女の子に悪戯しようとしてたみたいな言い方になっている……せめて、ここだけは否定せねば。
「違うんだ! その表現はすごく語弊がある!」
千歳ちゃんは半分引きつった顔で僕を眺め、いろりちゃんはというと……お地蔵さんのように固まってしまっていた。
「あの時は、あまりにも非現実的すぎてお人形」
「「「お人形!?」」」
――しまった! これは、死亡フラグだ――!!
大きい男の子が遊ぶお人形と間違えました、なんて言ってみろ! それこそこの誤解は一生解けやしない!
いや、それどころか……僕は日陰者として一生を暗い洞窟の中で終える事になってしまうだろう。
この状況は非常にマズイ……誤解を解くとかそういうレベルじゃない。とにかく話題を逸らさないと。
慌てた僕は、咄嗟にコンビニ店員必須スキル『遅刻の言い訳大辞典』を光の早さで頭の中に展開した。
「ああそう、そういえばさ、僕の部屋でもお経流してたけど、さっき部屋で流れていたのも同じお経なの?」
「……そうね。同じテープよ」
ナイス僕! うまく話を逸らせたぞ。
「僕はてっきり、ここでお葬式でもやっているのかと思ってしまってさ」
「……お経=お葬式という偏見は、恥ずかしいから捨てたほうがいいわね」
……ぐ。
「ラジカセも、壊れてしまったけど同好会では部費がでないから新しいのが買えないの」
……ぐぐぐ。
もはやぐぅの音もでない僕に、追い打ちをかけるアミノさん。
「コウタ」
「な、なに?」
「貴方さっき、私の下半身について何か言っていたけど、押し倒した時の話かしら?」
――さようなら、僕の短かった人生。
終わった。何もかもが終わった。今ここであの話を持って来られたら……どんなに言い訳したところで詰んでいる。それに、この状況じゃとても話を聞いて貰えそうにない。
いろりちゃんは「といれにいってくゅえ」言い残してふらふらと部屋から出て行き、千歳ちゃんは「変態!」と言い残していろりちゃんを追って出て行ってしまった。
二人きりになって、またも耳栓しちゃったんじゃないかと思うほど静かなアミノさん。
何を考えているのだろう。怒っているのか、哀しんでいるのか、表情からは分からない。
シフォンパンを見つめるその目元には、相変わらず感情が込められていなかった。
今更取り繕っても仕方がないし……言い訳しようともがいて泥沼に嵌るよりは、正直に謝った方がいいよな……。
僕は深呼吸して決意を固めると、改めてアミノさんに身体を向けた。
「下半身の話、だけど――」
「一週間前のことじゃなくて、さっきアミノさんが耳栓していたからさ……」
「下から顔を覗き込もうとして、間違って、脚の所を見たというか」
「……そうなの」
「で、でも決してその……ぱんつ、とかは辛うじて見えて無いから!」
「ほんと、済まなかった」
「……どうして、謝るの?」
アミノさんはシフォンパンを千切り千切り食べながら聞いてくる。
「だって普通、スカート覗かれたら嫌だろ!?」
「それに、一週間前にアミノさんの体を触った……て言うのも事実だし……」
「どうして?」
「あの時は、呼吸しているのを確認したくて」
「だからどうして……そんな事を謝るの?」
おかしい、どうも話が咬み合わないぞ?
分からない――という感じに首を傾げるアミノさん。
もしかして、彼女は異性に対する羞恥心が無いというか、感情が一部欠落しているんじゃなかろうか。思い返してみれば心当たりがある。抑揚の無い言葉に感情のない表情。会って一分で抱っこしてだなんて、普通の精神の持ち主ならそんな事は言わない。
つまり、彼女にとってスカートを覗かれたり、体を触られたりした事は、大した問題じゃないのかもしれない。
ただ、何があったのか――。それを確認しただけのような気がする。
「アミノさん、怒っていないの?」
恐る恐る聞いた。
「怒る理由が無いもの」
そうだ、きっと間違いない、彼女は一部の感情を持ち合わせていない!
いや、それどころか――。
僕はこの先の言葉を、考えようとしてやめた。
彼女の変わった性格? のお陰で、僕の人生は首の皮一枚繋がったけど。なんだろう、このやり切れない気持ち。
ドアの方を見ても、まだいろりちゃんたちはまだ戻って来る様子は無かった。
僕はアミノさんが淹れてくれた紅茶を一口飲んでから、さっきの話で引っ掛かる所があるのを思い出し、聞いて見ることにした。
「あのさ」
「何?」
「さっき、耳栓していたのに、どうして下半身のところだけは聞こえていたんだ?」
アミノさんはポケットから先ほどの耳栓を取り出し、僕の前へ差し出した。
「これは、真実の耳栓よ」
「真実の耳栓?」
「そう。この耳栓を付けると、真実の言葉だけが聞こえるようになるの」
付けてみる? と聞いて来るアミノさん。だが僕は慌てて断った。……だってそれ、さっきアミノさんが付けていたやつだし。
その容姿で、異性に対する羞恥心が無いというのは危なすぎるだろう!
僕はアミノさんの普段の生活を想像してしまい、こめかみに一筋の汗が流れるのを感じた。
そしてアミノさんを見ると、いつの間にか真実の耳栓を付けている。またあの沈黙が始まるのか……嫌だな。
「何か、喋ってごらんなさい」
アミノさんは目を閉じ、顔の前で両手の指を交差させて祈るような格好になると、僕に言った。
「え……何かって」
いきなり言われて困った僕は、なんとなく思いついた事を喋ってみる。
「えーっと、今日は寒いなー」
「……聞こえないわ」
むぅ。
「冬休みはバイトばかりで退屈だなー」
「……聞こえない」
ぐぬぬ。
「何か、かけがえのない大切なものとか、大好きなものとか言ってごらんなさい」
大切なもの、大好きなものか……
「アミノさんの淹れてくれた紅茶、美味かった!」
「少し伝わった。何かこう暖かい気持ちが」
「ほ、本当なのかその耳栓」
「……今、また聞こえなくなった」
いや待て……なんだか調子が良すぎる気もするぞ。
それなら、これはどうだろうか。
僕は、さっきからずっと心にあったモヤモヤを、即興で詩に変えて詠み上げた。
『親愛なる神様へ』
お願いします、聞いてください。
一つだけ話を、聞いてください。
僕の話では、ありません。
僕の大切な女の子の、話を聞いてください。
その子の笑った声を、僕は聞いたことがありません。
その子の怒った声を、僕は聞いたことがありません。
神様、あなたには聞こえますか?
どうかその子に心を、お返しください。
それが叶わぬ事ならば、やっぱり僕の願いを聞いてください。
僕の心を四つに割って、ニつをその子にあげてください。
喜びと楽しみをあげてください。
そして、僕の事は心配しないでください。
心宿ったその子を見れば
残った怒りと哀しみだけでも
きっと喜び、楽しい気持ちになるでしょうから。
「き、聞こえたか?」
「ええ。コウタの……温かい気持ちが伝わって来た」
――やべぇ、マジかよ。
もしかしてこの詩、誰に宛てたものなのかも伝わったのだろうか。
胸の鼓動が早まる僕をよそ目に、いつもの抑揚のない言葉でアミノさんは続ける。
「私はこの準備室の隣にある礼拝堂の司祭として、日本に来たの」
「司祭?」
考えてみればアミノさんの名前と礼拝堂の名前が同じだ。司祭ってよくは知らないけど、なんか偉い人じゃなかったっけ。
「機関からは、日本の宗教思想は世界にも類を見ない独自の文化を形成していると聞いていたから期待していたのだけど……でも礼拝に来る人々の願いはどれもこれも自己中心的なもので、多くは耳を傾けるほど価値あるものではなかった」
普通の人のお願いなんて、きっとお金持ちになりたいとか、好きな人と両想いになれますようにとかだよな、きっと。
「愚者愚物ほど、ブツブツと愚痴をこぼすものよ。神は何もしてくれないって。だから私は、真実の耳栓をして聞かなくてもいい声は聞かないようにしているの」
「だから……さっき、下半身の話が聞こえたというのはつまりそういう事よ」
僕の心からの声が伝わったから……という事なのかな。
「でも、そんな話……ほとんど初対面の僕なんかにしていいものなのか?」
「迷惑だったかしら」
「いや、迷惑なんて事はないけど」
「そうね、普段ならこんな話は他人にしないのだけど……コウタの想い、神様へ届いたからかもしれないわね」
見間違いかもしれない。でも……あのアミノさんが一瞬、笑ったような気がした。
まるで、なんだかアミノさん自身が神様のように思えてきたぞ。
「コウタも、たまには日曜日の礼拝に来るといい。毎週日曜日は一般の人も入れるから」
僕は神を信じていないから、礼拝というのはちょっと微妙だけど、アミノさんに会えるなら、いいかもしれない――。
邪な気持ちとかそういうのじゃなくて、純粋にそう思った。
「――もっとも、この礼拝堂も今月で無くなるかもしれないのだけど」
「え?」
その時、ドアが開く音がした。いろりちゃんと千歳ちゃんだ。
「千歳ちゃん、いろりちゃん……おかえり!」
「た、ただいまぁ……」
いろりちゃん、なんだか鼻が赤い。鼻炎か?
「ちょっと、コウタ君!」
千歳ちゃんが小声で僕に耳打ちする。
「後でちゃんと、いろりに謝んなさいよ?」
「へ!? なんで?」
「なんでって……ばかっ!」
いろりちゃんには何もしていないハズなんだが、どうして怒られたんだ僕!?
すると今度は、いろりちゃんから紙片のメモが回ってくる。
『もう、アミノちゃんに変なことしちゃダメだよ』
いろりちゃんを見ると、必死に笑顔を作ろうとしている。鼻が赤いのが可愛くて、僕は思わず笑いそうになってしまった。
「二人とも、さっきの話は忘れて頂戴」
アミノさんが喋った。
「私とコウタの話が、咬み合っていなかっただけのことよ」
「ふーん……アミノがそう言うならいいけど」
怖い目つきの千歳ちゃんが僕を見てぶっきらぼうに言い放つ。
「あ、あのっ!」
「いろり? どうかした?」
「せっかくコウタさん、来てもらいましたし……詩、みんなで習いませんか」
「そういえばもう部活動の時間ね」
「詩かー。あたしに出来るかな~」
「コウタさん、よろしいですか?」
「あ、ああ。もちろんだよ」
そっか、僕は今日、詩を教えに来ていたんだっけ。
時刻は十六時半を回っていた。太陽は地平線近くまで傾いて、窓から入った夕日が部室の中に掛けられた虚無僧のコスプレ衣装を朱く照らしている。
キリスト教の礼拝堂準備室に虚無僧の衣装があるというのは、なんともミスマッチ甚だしい光景だ。……そのうえさっきはお経が流れていたわけだから、更に強烈だった。
――キリストとブッダの、夢のコラボ。いや、無い無い。
アミノさんは司祭って言っていたけど、いいのだろうかこんな事していて。傍からには完全に悪ふざけにしか見えないぞ。
ちらりとアミノさんの方を見ると、綺麗な色をしたヘーゼルアイは、相変わらず眠たそうにしている。傍からこうして見ている限り、普通の小……女子高生なんだよなぁ。
つい、アミノさんを見つめていると、目が合ってしまった。
アミノさんはティーポットから自分のカップへお茶を注ごうとしたけど、もう中身は全部飲んでしまっていたらしく残りの雫がぽとぽと落ちるだけ。
「もう紅茶が切れてしまっているのだけど、お湯だけでも飲みたい人はいるかしら」
……当然誰も、お湯だけ飲みたい人は居るわけもなく……。
「コウタ君は変態だからお湯飲むよね」
「いや、僕はいらないかな」
千歳ちゃん、僕に何の恨みがあるんだ。というかその言い方だと、遠まわしにアミノさんもバカにしているという事に気付こうな。
「それで、コウタさん。詩はまず、どうやって作るのでしょうか?」
「うーん、そうだなぁ……心に思い浮かべた言葉を並べていくだけなんだけど」
「エエー! それだけ!? それじゃあ分からないよー?」
「じゃあまず、わかりやすくテーマを決めようか」
「テーマ、ですか?」
「そうだな。4人いるし、『四季』でどうだろう?」
「もし余裕があれば、社会風刺的な事とかを入れると引き締まったりすんだけど……」
みんなの顔を見ると、いまいちよく分からないという顔をしていた。
「……最初だし、好きに書いてみよう」
――十分後。
「それじゃ、僕から発表させてもらおうかな」
春の公園
新緑の大地に純白の髪飾り
たんぽぽたちが綿毛を舞うわせ
ふわふわふわり、ふわふわり。
朝露光る桜のキミに
かわいい笑顔の蕾が咲いた。
夏の花火
鮮やかでいて艶やかな
その姿は夏の夜に見る幻のように
手に届かない漆黒の空
輝く星とキミの横顔
秋の隧道
大地の脈動浮き彫りにする
光と影の狂想曲
暗闇を抜けた先で、木枯らしが
ボクの頬を優しく殴る。
「ど、どうかな?」
…………。
あれ!? 何この無反応!
「――ええ!?」千歳ちゃんが驚いた声を上げて、静寂を打ち破る。
「冬は? どうして冬だけ無いのー!?」
「あぁ、いや……みんなの事を詩にしてみたから、冬は無いんだ……」
「みんなって、もしかしてあたしたち?」
「そう。春のいろりちゃん。夏の千歳ちゃん」
「私は隧道なの」
「ごめん、まぁ喩えだから……」
「だってアミノは一人だけ綺麗な詩作ってもらっているんだしー」
「何の話?」
「あああああっと! 遅くなっちゃうと僕バイトがあるからさ、次千歳ちゃん!」
まったく油断も隙もない。
千歳ちゃんはその場に起立し、こほんと咳払いをする。
「あたしのテーマは、『冬』!」
冬になると夏が恋しくなって。
夏になると冬が恋しくなる。
だから、夏と冬が一緒に来たらいいのにな。
春と秋は、もういらない。
「以上!」
「ち、千歳ちゃん、私なんかより上手だよ! すごい」
「日本の自然の厳しさを感じるわね」
好評を受ける千歳ちゃんはまんざらでもない様子。僕はと言うと全身の震えが止まらないでいた。
なんという前衛的な詩なんだ。夏と冬が一緒に来るのはいいとしよう。だが、それで春と秋が用済みになるなんて凡人の発想じゃねぇ!
「天才か!?」思わず僕は叫んでいた。いや、叫ぶことを禁じ得なかった。
「わぁ、天才だって千歳ちゃん!」
「コウタ君、今頃気づいたの!?」
それによく思い返してみると、春夏秋冬……四季が全て揃って出てくるのに、タイトルが『冬』である。……侮り難し……侮り難し晴間千歳! もしかしたら僕は、とんでもない怪物を呼び覚ましてしまったのかもしれないぞ。
「それでは、次私いいかしら」
アミノさんの番だ。先ほど見せてくれた真実の耳栓の時のアミノさんを考えると、期待せずにはいられないな。
かのテオグニスはこう言った
人間にとって一番善いことは生まれないこと
次に善いことは一日も早く死ぬこと
だから、僕らは命を断つ
自殺先進国――日本
「うぉおおおい! ちょっと待て!」
「何?」
「いくらなんでも、命を断っちゃ駄目だ! アミノさん!」
薄暗い外と、お化けが出そうな建物、そして礼拝堂には山伏や虚無僧の衣装……。変なサブリミナル効果発揮しそうだぞ。こんな環境で詠んじゃいけない詩だ。
「社会風刺を含めてみたのだけど、駄目だったかしら」自分の書いたノートをマジマジと見つめるアミノさん。
「駄目じゃないけどそもそも四季と関係ないだろ!?」
「そう、日本語というのは難しいわね」
「ええ? 何で!?」
「最期は死ぬの『死期』の事だと思ったわ」
四季と死期? あーなるほど。
テーマはさっき僕が口で言っただけで……文字で書いた訳じゃないし。
「…………なんか、ごめん」
部室内に漂い始めるお通夜ムード。
初めて知り合った者同士の詩詠会で、いきなり死期なんていうテーマは出すわけないだろう……と僕は思ったものの、忘れてはいけない、僕の常識は世間の非常識かもしれないということを。そのうえ彼女は外国人である。責めるわけにはいかない。
「でも、深いな、うん。とても深い」
「そ、そうだよね! アミノちゃんの詩、私感動しちゃいました」
千歳はどうも理解しかねる表情を浮かべていたものの、いろりちゃんがフォローしてくれたお陰で助かった!
「でもさ、アミノさん……何か辛いことがあったら、ちゃんと言えよな」
「……言ったでしょう。あれはテオグニスの詩を日本の現状に風刺しただけよ」
なんとなく不貞腐れているように見えるのは……僕の妄想力の為せる業だろうか。
「あ、あはは……ちょっと暗くなっちゃいましたね。音楽でも流しましょうか」
いろりちゃんはラジカセのスイッチを入れた。
――しかし、音は出てこない。
「ラジオでも……と思ったのですけど、音……出ませんね」
「コウタ君が壊したからー、まともに動かないよこの子」
ちょいちょい毒を吐かれている気がするけど……たしかに壊したのは、僕だ。くそぅ。
壊した責任もあって、僕は音がでないというラジカセを触ってみる。
「そにれしてもこれ凄いなラジカセなんて……噂では聞いてたけど、初めて見たよ……買おうったって今もう売ってないんじゃないのか。しかも、ダブルだし」
そのラジカセは年代物で、僕が飛びかかった時にできたと見られる凹みが数カ所あった。
適当なボタンを押して見る僕。カチッという音と共にテープが回り出す。
お、いけるんじゃないか?
《チーン……ポクポクポクポク……》
おりんと木魚のイントロが始まって……部室内は益々お通夜ムード一色に。
「ああ! ごめん。今止めるから!」
慌てて止めようとする僕に、アミノさんがそのまま流しましょうと言う。
「何も無いよりはいいでしょう」
「それ本気で言ってるの!?」
「私の研究だと、お経は集中力を高めて精神活動を豊かにしてくれる可能性があるわ」
「詩詠会にはちょうど良いのではないかしら」
アミノさんの研究って? 疑問に思ったけど、あまり深くは聞かなかった。
「でもだって……いろりちゃん、お経だよ? 怖くない?」
いろりちゃんの方を向くと、「え?」という顔
「怖いわけないでしょ! いろりのお家はお寺なんだから」
「えええ! そうなの!?」
「う、うん……お経は、結構好き、かな。えへへ」
衝撃だった。怖がりのいろりちゃんが、よりによってお経が好きだなんて。
「ちなみに、いろりの家のとなりにある神社が、あたしのお家でー」
「へー、あそう」
「ひど! いくら私に興味無いからってその薄いリアクションは乙女心が傷付くよ!?」
僕は千歳ちゃんの叫びを半分聞き流しながら、苦笑いのいろりちゃんに出番を振った。
「え、えっと……ごめんなさい」
「どうしたの? 書けなかった?」
「一応、書いたんですけど」
「いろり~大丈夫! 自信持って!」
「う、うんありがと千歳ちゃん。……実は、私も死期と勘違いしちゃって」
「いろりちゃんも、テーマ『死期』なの!?」
申し訳なさそうに頷くいろりちゃん……やっぱり先入観というのは捨てないと駄目だな。
僕は自分の常識がいかに世間の常識とズレているのかを痛感し、天井を仰いだ。
「でもさ、せっかく作ったんなら、聞かせてくれないか?」
「あたしも聞きたい!」
「いろりなら、死期でも素敵な詩が作れると思うわ」
みんなから促され、いろりちゃんはお経が流れる中、死期がテーマの詩を詠むことに。
……状況だけ聞くと、完全に罰ゲームだろこれ。
生き抜いて、一緒に喜び一緒に泣いて
死ぬ時に知る、しあわせの正体
「いろり~! それ短歌……短歌になってる! コウタ君のせいで!」
「ええええぇぇ、わ、わかんないよぉぉ……」
目に涙を浮かべ、今にも泣き出しそうないろりちゃん。もちろん、僕のせいでは無い!
「言いたいことも、うまく伝えられないし……ぐすん」
「僕は、いいと思うけどな」
「ほ、本当? コウタさん」
「ああ、なんていうか……たまたま短歌と同じ五句体になっているけど、何か伝わるものがあったよ」
「人生を表現した、深い詩ね」
「あ、ありがとうございます!」
えへへと笑ういろりちゃん。笑顔は相変わらず可愛い。
「あの、コウタさん」
「なに?」
「できればその……私の詩を手直しして欲しい、です」
「手直し!?」
詩は自分の中だけでひっそりと楽しむもの……そう思ってきた僕にとって、他人の詩の手直しなどしたことがない。
「どうすればいいのかなあ。やったこと無いし」
「難しい、ですかね……」
「コウタ君が書き直せば? 思ったとおりにさ?」
「そうね……コウタがいろりの詩を詠んで、その意味を自分の詩で再構築する」
「それ、それがいいです。お願いしますコウタさん」
……みんな、簡単に言ってくれるけど、他の人の詩を詠んで、さらに僕の言葉で再構築するなんてやったことがないし、僕自身そんなに詩が上手い訳でもないんだぞ。
でもいろりちゃんは期待した目をしているし……うーん。やるだけやってみよう。
「そうだなぁ……テーマは死期、で……生きて始まり……死ぬ前に知る……か」
僕はメモ用紙にペンを走らせ、書き上げた詩を詠み上げる。
「いろりちゃんのように人の一生や、幸せとは何かっていうような……壮大なスケールでは書けないけど。こうすれば人間臭さが出ないかな」
「すごい、すごいですコウタさん……すごすぎです」
「コウタ君って……ただの危ない人じゃなかったんだ」
「貴方、詩の才能がありそうね」
べた褒め過ぎるだろうみんな。千歳ちゃんのはちょっと心外だけど。
「特に習っていたわけじゃないけど、小さい頃はよく作っていたから」
「すごいなぁコウタさん。やっぱり……私の尊敬する詩人さんみたいです」
いろりちゃんが目をキラキラさせて喋る。
「へぇ、尊敬する詩人がいるんだ」
「はい……とは言っても、プロの方ではなくて……ネットの方なんですけど」
「というと、ブログとかそういうの?」
「はい! その子、女の子なんですけど、詩がとても格好よくて……初め、この学園に馴染めなくて……そんな時、詩で勇気をもらったので……」
「そっか、そんなに素敵な詩人さんの詩なら、僕も見てみたいな。そのブログ」
「ぜひ! サイトのアドレス、今度教えますね!」
……これだ。これこそ詩友だち……。なんという幸せ。
互いに切磋琢磨し、詩を詠みあい、夢を語る。
幻と思われた詩の楽園が、こんな身近な所にあったなんて!
――コンコンコン。
突然、部屋のドアをノックする音が聞こえたかと思うと、女の子かと見間違うほど綺麗な顔立ちの男が入ってきた。
「失礼、メルローズ女史」
見ると身長も高く長髪でメガネを掛けた……いかにも頭の良さそうな優男である。
「さっきから……キミたちの部屋がうるさいと、苦情が出ていてね」
「他の生徒の迷惑になっている。……やめてくれないかな」
千歳ちゃんがラジカセの電源を落とすと、お経が止んだ。
見るといろりちゃんは小さくなってしまっている。
「私たちは詩を詠んでいただけよ」いつもの口調でアミノさんが言った。
「ポエム同好会が詩を詠んで何か問題でもあるのかしら」
「そうよ! あたしたちの詩が雑音って言いたいのー!?」
千歳ちゃん……原因は多分、お経だ。
「あのさ……この人が言っているのはきっとそういう事じゃ……」
僕はつい、思っていた事を口に出てしまいそうになってしまい「貴方は黙っていて」と、アミノさんに話を遮られる。
「おや? 見かけない顔だなぁ。どこのクラスだね?」
「いや、僕は……」
僕の方を向く優男。やばッ、僕はここの生徒じゃなかった。
「この人は、ただの通行人よ。お腹を空かせて倒れていたので、パンをあげたのよ」
アミノさん! なんて無茶な言い訳だ! そんなの通じるわけ……。
「パン……だと?」
アミノさんは、先程まで食べていたシフォンパンの一部を千切ると、手のひらの上に乗せて優男に差し出した。
「貴方も、食べてみる?」
堂々としたアミノさんの態度に圧倒されたのか、優男は「フン」と鼻を鳴らすと僕の事にはそれ以上触れることはなかった。
「まぁいいでしょう……どうせもうすぐこの部屋は使えなくなる」
「――ですが、少しはご自身の立場を考えた方が良いのではないですか、メルローズ女史。この同好会がやっている事が上に知れてしまったら……貴女にとっても本望ではないでしょう」
優男はドアをピシャリと閉め、捨て台詞を吐いて去っていった。
それから、みんな無言で……お通夜ムードっていうかもう、お通夜だった。
「誰だ……今の人?」
「執行部長の高江田さんよ」
「生徒会の執行部長なのか?」
頷くアミノさん。執行部長が出ていったドアを見ながら千歳ちゃんがブツブツと文句を言っている。
「あいつ、たまに来ては嫌味なことばっか言って……絶対にSだ」
ミッチェル卿学園の生徒会の噂は大学でも聞いたことがある。各界の有力者たちの子息らが集まる、超エリート集団とかなんとか。
司祭だというアミノさんに対してあれだけの口を聞くのだから、相当な権力を持っているのだろう。
「……ろりぽっぷは、生徒会に目を付けられていて、学園祭までにこの部屋を出ていけって言われているんです」
「それって、解散しろっていう事!?」
期限がどうとか言っていたのはこの事だったのか。
「でも、出て行かなくて済む方法が、1つだけあります」
「もしかして……お経を流すのを止める、とか?」
ガクリと頭を垂れる千歳ちゃん。あれ? 違った?
「そんなのでいいならいっくらでもヘッドフォンで聞いてやるし!」
あの執行部長の態度からして、問題はそこなんだと思ったのだが。
「部室が欲しい部活動や同好会は沢山あって、正式に承認された部活動から優先的に部室が割り当てられているわ。でも、現状では全く足りていない。……生徒会としては、同好会の私たちを追い出して他の部活動に使わせたいのよきっと」
アミノさんはそう言って、何かを思い出したように立ち上がると、部屋の隅っこにあるノートパソコンの画面をつけた。
「それじゃあ、解散を防ぐ方法って?」
「同好会から正式な部活に昇格するの! そうすれば、生徒会も「出ていけ」なんて言えないでしょー?」
なるほど、確かにそうかもしれない。
僕は、部室が足りない状況で、よくこの部屋を確保出来たなぁと一瞬思ったけど、考えてみればこの部屋の管理人はアミノさんだっけ。
「なら、さっさと部活に昇格すればいいんじゃないのか?」
「それが出来ないから困ってるのさー」
「正式な部活に承認されるためには、いろいろと条件があるんです……えと……人数とか、顧問ですとか」
「その条件をクリアするために今頑張っているんだから。あまり邪魔しないでよねー?」
「ち、千歳ちゃん!」
「うへ?」
「コウタさんは私たちがお願いして来てくれてるんだよ。駄目だよ、あまりいじめちゃぁ」
「……そっか。ごめーん。あはは」
いろりちゃんが珍しく突っ込んだ!? という事は、やっぱり千歳ちゃんはちょっと天然の気があるのは間違いないのか。
それにしても、もうすぐ解散って、せっかくみんなと知り合えて、詩の理想郷を見つけたと思ったのに、それはちょっと寂しいな。
「いろり……貴女指名でワンコの依頼が入っているわ。これから行けるかしら」
パソコンを見ていたアミノさんが言った。ワンコ……ワンコって、確かワンコイン出張の事だよな……。僕は笠を返そうとして申し込んだけど、そういや……本当は出張先で何してんだろう?
「場所は、隠元町四丁目」
「四丁目ならお家近いから……大丈夫だよね、千歳ちゃん」
「帰りがけにパフェコのチョコパフェ食べたい!」
「えぇ~太るよぉ~」
いろりちゃんと千歳ちゃんはおしゃべりをしながら虚無僧衣装を制服の上から羽織って、冷蔵庫からいくつかのロリポップキャンディとお菓子を取り出し、明暗箱入れた。
「なぁ、ワンコってさ、行った先で何するんだ?」
「え? そっか、昨日はコウタ君、相談無かったからすぐ帰ったんだっけ」
まだ聞きたいことはあったのに、千歳ちゃんが勝手に切り上げたんだけどな……。
「ワンコは行った先で、一緒にお菓子を食べるだけだよ」
「へ!? それだけ?」
「そう」
なんなんだそれは……。一緒にお菓子を食べるだけ……つまり、一人で寂しい時に可愛い女の子がお家まで来てくれて、一緒にお菓子を食べてくれるサービス……という事!?
――僕の心臓が……一瞬、大きく脈打った。
まずい! まずいだろそいつは! それだけ聞くと、完全にその……エッチなサービスの一歩手前じゃないか! ……ダークサイドに落ちてしまう前に、彼女たちを止めなければいけない……。絶対。
「い、いけない! そんな、ワンコインでなんて……自分をもっと大切に……」
「コウタ君顔真っ赤だけどさ、たぶん……想像しているのと違うから」
「はっ!? ひ?」
色んな妄想が入り交じって興奮していた僕は、思わず変な声が出てしまった。千歳ちゃんはどうしていつも、勝手に僕の心を読むんだまったく。
「宗教的手法を用いたカウンセリング……イメージとしては、お寺のお坊さんが来て法話を披露してくれる、という感じかしら」アミノさんが言った。若干ムっとしているように見えるのは僕の気のせいだろうか。
「……ほとんどは、逆に話を聞くだけ、ですけどね……えへへ」
「……お菓子は、何か意味があるのか?」
「お菓子は人の心を軽くしてくれますから」そう言って、にっこりと笑ういろりちゃん。ほっぺたに『お菓子大好き』って書いてあるぞ。
甘い物がそんなに得意でない僕でも、それはなんとなく理解できた。お菓子を食べながら怒っている人って見たこと無いし。
「……貴女たち、あまり遅くなるといけないから、そろそろ出発して頂戴」
「うん。でもその前に……」
「コウタさん、今日はありがとうございました」
「あ、ああ」
「また、時間のあるとき教えてもらえたら……嬉しいです。これ……」
渡されたメモ用紙。これは……もしや、いろりちゃんの携帯アドレス!
「連絡、くださいね!」
……いろりちゃんって可愛いよなぁ。それにひきかえ……。
「私もコウタ君のアドレス欲しいなー着拒用に」
「ち……千歳ちゃん!」
「う、嘘! 冗談だってば!」
最後まで騒がしく二人は出ていってしまった。ブレないよなぁホント……千歳ちゃんは。
……そして、僕はまたアミノさんと二人きりに。
「アミノさんは……まだ帰らないの?」
「……」
「アミノさん?」
「……コウタ」
「な、何?」
急に改まったような言い方をするアミノさん。何だ? ちょっとドキッとしたぞ。
「言おうどうしようか迷っている事があるのだけど、言ってもいいかしら」
ええ! そんな風に聞かれたら……気になって聞かないわけにはいかないだろう!?
「でも、これを言うとコウタはきっと困ってしまうかもしれないわ」
「そこまで言われたら、余計に気になるだろ!? 教えてくれよ」
「わかった。それじゃあ言うわよ」
――僕は息を飲んだ。
「さっき私が書いていたのは、英語ではなくてドイツ語よ」
……はい?
「……真実の耳栓をしていても聞こえていたわ。英語が読めないって……余程大切な事だったのね」
ああ……そっか、さっきのね……聞こえたんだ。
気がつくと、僕の頬を一筋の涙が伝っていた。