58:飲まず食わず
それはもう虫が鳴くとか言う可愛らしい表現とは程遠いものだった。
獣の咆哮だった。肉食獣が敵を前に威嚇しているかのような、そんなものものしい雄叫びだった。
男は誰しも内に1匹の獣を飼っているとかいうと、ちょっとカッコイイ気もするけど、悲しいかな鳴いたのは結局ただの胃だ。なんやかんやと表現したけれど、要はお腹が減っていただけのことだった。
思えば目を覚ましてこの方、何か食べただろうか? あるいは飲んだだろうか?
飲みも食いもしていない気がする。食われそうにはなったけど。
いや待て、飲みはした。そう、ジンジャーティーなるものを飲んだ。
スキルだけを見れば高レベルのメイド、アリシアの淹れてくれた紅茶だ。
そこは今ならやはりと言うべきか、勉強しただけあって美味しい紅茶だった。
暴走を止める為に浴びせられた冷水。
その効果のほどは文字通り頭を冷やすこととなったのだけれど、当然頭以外も冷えたわけで。冷え切ったわけで。
そこでアリシアが身体を温める効果を持つ生姜の入った紅茶を淹れてくれたのだ。
うん、思い出した。
昨日は紅茶を飲んだ。
けれどご飯は食べていない。
米の一粒たりともだ。
そりゃ目覚めてからハプニング続きで、そんなことに気を回す余裕なんてなかったんだけれども。
そもそも1年近くも寝ていて、目覚めて早々食事を忘れるほどのハプニングに見舞われるとは一体どういうことなのだろう。ここ病院だよね?
そんな無駄なことを考えていたせいか、腹が急かすようにもう1度鳴いた。
その催促に顔を上げると、アリシアがこちらをジッと窺いながら返事を待っていた。
「答えはさっきからお腹が散々してると思うけど、いただくよ」
「かしこまりました。それでは、どちらでお召し上がりになりますか? 食堂はいまのところ行ける範囲にはないので、御主人様のお部屋か、ココノツの部屋になりますけど」
さらっと自分の部屋を除外した。
「は、ウチの部屋?」
当然のように狐々乃月が抗議の声を上げる。
そりゃ勝手に自分の部屋が候補に入れられてたら怒るだろう。
「じゃあココノツは朝御飯いらないの?」
「いらな(きゅるるー)……いる」
本体の意見をお腹が捻じ曲げていた。
「せやけど、ウチの部屋はいやや。アンタの部屋行くで」
「え、まぁいいけど」
こちらとしては別に狐々乃月の部屋がいいと主張した覚えもないので、その提案は一向に構わなかった。
「ただ、ご飯食べるにしても机とか椅子とかないよ」
あるのはベッドだけだ。
「アンタ、部屋の説明浮けてへんの?」
「え、説明?」
部屋に説明とはなんだろう?
広さが何畳あるとか、室温が何度とかそういうのだろうか。
「その顔は説明聞いてへんな。アリシア、してへんの?」
「そうですね、私からは何も。あの魔女がしてないなら、ご主人様は誰からも説明をお受けしてないと思います」
「そーか。リリスはそういうとこ適当やんなぁ。嫌がらせには細かいのに」
「うーん、話がよく分からないんだけど」
「あぁ、スマンな。まぁ、机やら椅子やらはなんとかなるっちゅーこっちゃ」
「そういうことです。では、私は御主人様の部屋へお食事をお持ちいたしますので、ココノツと一緒に部屋に戻っておいて下さい」
アリシアは一礼すると音もなく出て行った。
いま扉の開閉音すらしなかったんだけど。
たった1年足らずでメイドスキルを学んだにしては凄いな。メイドスキルとは関係ないかもしれないけど。
「つーか、ウチがアンタと一緒にご飯食べる理由なくない?」
今更過ぎる指摘を行うが、すでに食事を用意しているアリシアはこの場にいない。
「まあまあ、折角だしね。アリシアにいまから言うのも手間かけさせるかもしれないし」
「せやな、しゃーないか」
狐々乃月は気怠けに頷いて、歩き出した。それに後ろから続いて退室する。
後ろから歩くさまを観察していると、尻尾が嬉しそうに左右に揺れているのが見えて、何だかんだで楽しみにしているんだな、と微笑ましい気分になれた。
狐々乃月は照れ隠しで分かりにくい言動をするけど、実は分かりやすいよねと言って、肝心なことは分かってない、とアリシアに呆れられたのはまた別の話。




