36:か、勘違いしないでよねっ
結論から言うと、トイレに鏡はなかった。
トイレ自体は一般的な公衆トイレだったし、手を洗うための水道もあった。
けれど、鏡はなかった。
外された後があるとかでもなく、最初からなかったみたいに、何もなかった。
あと、利用者が少ないのか、もしかしたらいないのか、トイレは新品同様に綺麗で、汚れ一つなく、トイレットペーパーは全部三角に折られていた。
いや、それは関係ないけど。
ちなみにあれは清掃済みを表すサインみたいなものらしいけど、あのトイレでは清掃が必要なのかすら怪しい。
まぁ、これから最低1人は使うことになるから、必要になるだろうけど。
トイレから出ると、当然といった表情でアリシアが待っていた。
「何でここに!?」
本当にまん前にいたので、かなり驚いた。
ボケっとしてたらぶつかっていたかもしれない。
「いえ、もしかしたら迷っているのではないかと思いまして」
「さすがに迷わないよ!」
病室からここまで直線で10mもない。
廊下に出たらトイレのマークがすぐ目に入るくらいの近さだ。
ついでに隣にはもちろん女性用のトイレもある。
「記憶を失くされるような、うっかり者の御主人様ですから、もしや帰り道も忘れてしまわないかと」
「記憶喪失はうっかりって言葉で表現できるものじゃないからね!」
世の記憶喪失の方々に謝れと叫びたくなってしまう。
「そうですか、それは差し出がましことをしてしまいました。申し訳御座いません」
アリシアはあんまり悪いと思ってないような平坦な声で言うと、深々と頭を下げた。
「うんまぁ、心配してくれたんだろうから、そこはありがとう」
そう言ってフォローをすると、アリシアがニッコリと微笑んだ。
「ところで鏡はあったんでしょうか?」
「え? あぁ、それがなかったんだよね。困ったなぁ」
変にツッコミを連続して入れたせいで、何をしにここまで来ていたのか忘れてしまっていた。
あれ? 本当にうっかり記憶失くしてね?
まさかのアリシアの的を射ていたかもしれない言葉に、ちょっと動揺してしまう。
にしても、トイレにも鏡がないってなると当てが外れたなぁ。
「ねぇアリシア。一応参考までに聞きたいんだけど、どんな顔してるの?」
自分の顔を指差して言ってみる。
「御主人様のお顔ですか? そうですね、とてもカッコイイと思います」
え、マジで?
「射抜くように鋭い目に凛々しく煌く黒色の瞳。そしてスッと通る長く細い鼻。穏やかさを感じる中にも妖しさの垣間見える口元。余計な脂肪のない、かといって骨ばったりしていない鋭角な輪郭。思わず手を伸ばしてしまいたくなる柔らかそうな頬。太くもなく細くもない鋭角に整えられた眉。さらに――」
「いや、もういい! もういから!」
あまりにもの絶賛振りに、嬉しさよりも恥ずかしさが勝って、アリシアの口上を遮る。
「あら、そうですか? まだまだあるのですけれど」
何故か凄く残念そうに肩を落とされた。
こっちの心が持たないからもう本当に勘弁して欲しい。
「え、えと、ほら、大体伝わったから大丈夫だよ。助かった、ありがとう」
「そう、ですか? お役に立てたなら何よりです」
とりあえず気は取り直してくれたようだ。
にしても、これだとアリシアの評価は当てにならなさそうだな。
アリシアの目にはどうやら盛大にフィルターがかかっているっぽい。
おそらく客観的とは程遠い意見になっているだろう。
恋をすると、その人の欠点までもが長所に見えてくるという。
恋をされているかは分からないけれど、アリシアの感想には似たようなものが混じっていると思う。
もちろん、他の人はどうあれ、アリシアがそう思っていてくれるというのは単純に嬉しい。
そもそも可愛い女の子に誉めそやされて嬉しくない男などいるのだろうか?
いや、いない。
それがどういう気持ちを元にしていても、仮にお世辞だとしても嬉しいもんだ。
思春期男子ならそれだけで、勘違いするまである。
コイツ、俺のこと好きなんじゃね? っていうやつだ。
でも、彼らを責められるわけがない。
なぜなら、いま現在自分もそうならない為に自制心を全力で働かせているのだから。
くっ、負けるもんか!




