126:底が見えないほどの渓間
「とりあえずぅ、2人の治療は終わったからぁ、次は貴方達ねぇ」
僕と狐々乃月に怪我や痛いところはないかと、リリスが聞いてきた。
なおさっきまでボロボロの服を着ていたリリスはちゃっかり着替えていたみたいで、治療するのに不衛生な恰好をしたらダメだと言われればその通りでしかないんだけども、綺麗な恰好をしていた。
見た感じでは、服の損傷の割に怪我がなさそうだ。
リリスも僕と同じで治癒力が高いのだろうか?
「ウチは触れられてもないから、怪我も何もないで。強いて言うなら、朝ごはん食べそこねたかたお腹減ってしゃーないくらいやな」
細いお腹をさすりながら遠い目をして――ご飯の絵でも想像しているのかな――簡単に答えた。
「僕も怪我とかはないかな。アリシアのおかげで攻撃は1回も食らってないし」
殴りはしたけど、その拳も痛みは感じていない。
人を殴ったりすることに慣れてない人は、全力で人を殴ると骨折したりするって話を聞いた事があるけれど、今のところは痛みもない。
「接触があったのは殴った右手だけかしらぁ?」
「そうだね。うん、右手で殴っただけだよ」
思い返してみても右手しか使ってないと思う。
強いて言うならアリシアの音波を使わせてもらったけれど、状況を再現しただけで僕の声帯を使ったわけでもないし。
「一応確認だけさせて貰うわねぇ」
リリスは一言断りを入れると、椅子から立ち上がって近寄ってきて、そして僕の右手を取って丁寧に触って調べ始めた。
痛くないか、動かしづらくはないか、そんな事を問いながら肘から指先まで触れていく。
僕はそれに答えながら、ついつい開かれた胸元へと目が惹き寄せられてしまっていた。
リリスが僕の手へと目を落として前かがみで調べているせいで丁度谷間が見下ろせる位置にあるのだ。
触れてくるその指がたおやかで優しいため、なんか気持ちいいような気分にすらなってくる。
美人でエロい女医さんに触診されて何ともない男がいるだろうか、いやいない(反語)。
「ちっ」
僕のピンク思考に気がついたのか、狐々乃月が汚物を見るような目付きで睨んできた上に舌打ちをしてきた。
幼女にそんな目で見られると酷くいたたまれない気分になってしまう。
あるいは何かに目覚めてしまいそうに……いや、ならない! ならないぞ!
などと自分に言い訳をしつつ、再びリリスの胸元へと目が吸い寄せられていく。
違うんだ、これは本能として仕方のないことなんだ。
理性を働かせて視線を外したり、本能に負けて戻したりと、目を縦横無尽に泳がせていると、触診を終えたリリスがパッと手を離した。
「うん、確かに問題なさそうねぇ」
戦闘直後は興奮してるから怪我に気がつかないこともあるんだけど大丈夫みたいね、とリリスはまた椅子に腰掛けながら答えた。
「それで問題はそれねぇ」
リリスの視線は僕の顔、というか頭へ注がれていた。
そこでは1本の角――実際には2本あるんだけど、残念ながら左側の角は根本しか残ってないから1本みたいなもので、見た目のバランスがかなり悪いんだけど、とりあえず角が生えていた。
狐々乃月も僕の角を複雑そうな目で見上げている。
なおその目からは嫌悪感は消えていない。
ごめんなさい。
「それ戻せないかしらぁ?」
「え、コレ戻るの?」
まず戻るという発想がなかった。
「いや、ウチがさっき教えたやん。アンタの種族は普段は人間のカッコで、戦う時だけ鬼んなるって」
言われたっけ? 言われたような気がする。うん、確かに聞いたな。
「その姿のまんまだと不便でしょぉ? 必要ないなら戻っておいたほうがいいわよぉ」
「そうなの?」
「そうよぉ。例えばぁ」
と、リリスは急に僕に向かって机の上にあったマグカップを放り投げてきた。
放物線を描いてゆっくり飛んでくるそれを――中身はないみたいだ――僕は右手で受け止めた。
動体視力が強化されてるおかげで、カップの動きがスローに見えて難なくキャッチ出来た。
いや、出来なかった。
受け止めたカップは握った瞬間、僕の手の中で割れて砕け散ってしまった。
「ほぉらねぇ」
「え? え?」
どういうこと? そんなに力を入れたつもりはないのに。
「慣れてるならいいんだけどねぇ。慣れてないと、咄嗟の時に力のコントロール出来ないのよねぇ」
そ、そうなのか。
たしかにそれは不便だな。
僕は手の中の、もう形を失ったマグカップを見ながらそう思った。




