113:水と音
「ネーレイ……」
御主人様との面会を希望する人たちの中で、考えうる限り最悪の女が私と御主人様の目の前にいた。
青い髪に翠の瞳、貧相ながらも妙な色気を持つ、全身ずぶ濡れの女。
相変わらず瞳は濁り切っていて、陰鬱な空気を漂わせている。
「……あら、くそ女じゃない。聞きたいんだけど、愛しい人知らない?」
相変わらず耳に粘りつくような喋り方をする。
それはともかく、どうやら御主人様のことは気付かれていないようだ。
私が視界を遮るように立っているからか、あるいは……。
「いいえ、知らないわ」
どっちにしろ正直に答える必要は無い。
「……そう? すぐ傍から運命の人の匂いがするんだけど。ここじゃないのかしら?」
匂いって、アンタ犬なの? キモイわね。
なにか何処からとも無く、お前が言うなって聞こえてきた気がする。
「そうね、ここじゃないわ。だから他の所探してきなさい」
とりあえず今は一刻も早くネーレイを御主人様から引き離したい。
この場さえなんとかなれば、御主人様を連れてリリスなりココノツなりの所へ行けばいい。
正直な話、私だとネーレイに勝てる確証がない。
むしろ6,7割がた負ける。
単純な実力差というか、相性と場所が悪い。
けど、あの2人なら確実にネーレイに勝てる。
そのときの私は内心かなり焦っていて、この建物の中の状況をほぼ把握しているリリスが何故来ないのかとか、どうやってネーレイがここまで来たのかとか、考えることが出来なかった。
「……なら、違うところ探そうかしら」
私の願いが通じたのか、ネーレイは御主人様を探しに他へ行ってくれるようだ。
まぁ御主人様はここにいるんですけどね!
しかしネーレイは身体の向きを変えたところで、何かを思い出したように私へと向き直った。
「……いけない、忘れてたわ。ビッチと条件交換してたんだわ」
ネーレイは私を正面に見据えると、その身体からまとわりつくような殺気を放った。
「……邪魔者殺さないと」
ネーレイの身体から水の触手が何本も立ち上がり、一斉に私へと襲い掛かってきた。
「御主人様、耳を塞いで! ――っ!」
私は音の波を放射状に放ち、触手を迎撃する。
殺気を受けて身構えていたおかげで、不意を突かれることは避けられた。
けれど、喜んでばかりはいられない。
私の声は空気を自在に振動させられるけど、水は無理だ。
空気の振動は水面に触れると途端に減衰する。
水の中では振動は空気中より伝わりやすいけど、私の声帯ではそんな振動を作り出すことは出来ない。
「――っ!」
音に指向性を持たせて、直線でネーレイを射抜くが、水の壁に阻まれて簡単に防がれてしまった。
私の声ではネーレイには届かない。
それならお互い様と思われるかもしれないけど、単純な能力比べだと私は彼女に劣る。
相殺するにも私のほうが消耗は激しいし、能力のスタミナも私のほうが低い。
つまりはジリ貧になってしまうのだ。
せめて開けた場所で後ろに御主人様がいらっしゃらなければ、機動性で大きく上回る分撹乱先方が使えるのだけど。
って、ダメよダメよ。
そんな御主人様を邪魔者扱いみたいな考え方。
私はこの命を御主人様に捧げてお仕えするって決めたのよ。
だから、この命に代えても御主人様は守りきってみせる!
「ね、ねぇアリシア。何がどうなってるの?」
私が決意を固めたところで。御主人様がご質問を投げかけてこられた。
御主人様からしてみれば、急に知らない女に襲われてるようなものだし、気になるよね。
「いまネーレイという水妖に……」
私がお答えしようとした時、
「……いま、待ち人の声がしなかった?」
御主人様の声を耳聡く聞きつけたネーレイがキョロキョロと当たりを見回し始めた。
これは、不味いかもしれない。
「御主人様、申し訳御座いませんが今は彼女を刺激しないためにも喋らないでいただけませんか」
我ながら御主人様に対して何という事を言ってしまったのだろうと思うけど、これも御主人様のお命を守る為。理解していただきたい。
やはり御主人様は聡明だった為、私の意図を理解し口を噤んでくれた。
ただ厄介なことに、ネーレイは私の後ろにも人がいることに気が付いた。
「……あれ? そこにいるの誰?」
そもそも私と御主人様では身長差がある。
本来は目の前に立ったところで、御主人様を隠すことなんて出来ないんだけど、ネーレイは興味のない対象は目に入らない性格をしているから、今までスルーしてたんだと思う。
「彼はここにいる患者の1人よ。普通の人間だからアナタには関係ないわ」
「……そう? でもそっちから王子様の匂いがするのよね。ねぇ、売女そこどいてくれない? それで後ろの彼をよく見せてくれない?」
「お断りよ。無関係の人を巻き込むわけには――」
「……五月蝿い」
私の言葉を遮って、ネーレイは水の触手を伸ばしてきた。
「――っ!」
そうして何とか触手を弾き飛ばすことが出来たが、間髪いれずに第2波がやってきた。
「きゃあっ」
防御が間に合わず触手が振り払われ、身体に直撃した。
「アリシアっ!」
私の身体は横の壁に叩きつけられ、あっさりと御主人様のお姿を晒してしまう。
「アリシア、大丈夫!? アリシア!」
御主人様が私に駆け寄ってきて、声を掛けて下さっている。
あぁ、本当に御主人様はお優しいな。
「げほっ。だ、大丈夫です。けど、ちょっと厄介なことになったかもしれません」
私がネーレイに視線を移すと、彼女は御主人様を凝視したまま固まっていた。




