元魔王、婚約者と再会する
勇者パーティと何事もなく、無事に別れる事が出来たリリィは、ほっと胸を撫で下ろしながら、木漏れ日が強くなってきた森の中を歩いていた。
「あんたが勇者パーティに喧嘩売った時は、どうなるかと思ったわ。」
「喧嘩を売る?喧嘩とは売っているものなのか?」
「…もういいわ……」
心底疲れた様子のリリィに、サタンはまた顔を近付けようとするが、もう先程の二の舞になって堪るかと、近付いてくる彼の顔にアイアンクローをかける。
「何をする?」
「あんたこそ何しようとしてんのよ?」
「…………………さあ?」
「次やったら蹴るからね!」
「…?ああ、気を付けよう。」
「はあ……分かってないわね、その顔は。」
怒っているのが馬鹿らしくなり、リリィはサタンの顔に掛けていた手を外し、その手をサタンの額に当てる。
「どうした?」
「熱があるか調べてんの。風邪っぽいって言ってたでしょ?」
「熱?熱ならあるぞ。」
「そうじゃない!えっと……いつもより熱が高いと、風邪かもしれないの。」
「なるほど。額同士を合わせていた理由はそれか。」
一人納得しているサタンを見て、また先程の事を思い出し、リリィは顔を赤くしてしまい、それに気付かれないようにさっさと歩き出す。何処か素っ気ない態度のリリィに、サタンは疑問を抱きながらも、何も言わずについていくのだった。
長い歩行の末、ようやく見えた街並みを、リリィはすこし遠目から眺めていた。というのも、窪地の中にあるそこは、どこも活気に満ち溢れている人気の多い平和な街に見えるのだが、唯一その平和な景色に水を差すように、傷だらけになっている、他の街のそれよりも高い魔物除けの防壁が、門以外は一片の隙もなくその光景を囲んでいたのだ。
「あの街、よく魔物に襲われるのかな?」
見上げれば首が痛くなりそうな壁を見ながら、リリィはサタンにそう問いかけると、彼は少しだけ壁を見渡した後、その問い掛けに答えてやる。
「襲ってくる魔物の数は少ないだろうが、問題は襲ってくる魔物の種類だな。」
「種類?」
「ああ。あれを見てみろ。」
首を傾げてこちらを見上げてくるリリィの視線を導くように、サタンが壁に付けられている傷の一つを指し示す。彼の導くままに、リリィはその傷に目を凝らす。だが、そんな物を見た所で、戦闘に関してずぶの素人であるリリィには、それが剣などの刃で付けられたであろうことしか分からなかった。
「あの刀傷で何か分かるの?」
「周りにひび割れがないのが分かるか?」
「え?…う、うん。それは分かるけど、それが何?」
言われてみれば、刀傷以外にひびなどは見当たらず、悪くも綺麗な壁のように見える。
「あの傷は鋭い刃で斬られるか、そうでなければかなりの使い手がつけたものだ。」
「じゃあ、強い魔物が出るって事?」
「ああ。体に鋭い刃を持つ魔物か、道具を扱える程度には器用でいて、かつ凶暴な魔物かだな。」
サタンの言葉に、先程襲ってきたキメラを思い出して、リリィは背筋が寒くなった。あのキメラも、相手が勇者パーティであるジェラードだったため、終始何もせず戦いに敗れる事となったが、戦いなどした事もないリリィにでさえ、対峙しただけで威圧感を感じさせるほどだ。あんな魔物が何度も襲ってくると考えると、寒くもないのに冷や汗が出る思いだった。
だが、彼女の背筋を冷やしたのはキメラではなく、先程見てしまったその無残な死に様だった。サタンとジェラードが戦った事でうやむやになって忘れてしまっていたが、サタンの言葉でまたあの光景が頭をよぎり、リリィはぶるっと身体を震わせる。
だが、リリィはキメラが倒された事で、少し嬉しくもあった。これで街の脅威は去ったと思ったからだ。
「さっきはついてないと思ったけど、そういう事なら、あそこでキメラを倒せたのは運が良かったね。」
「何の事だ?」
「あそこの安全の事よ!さっきのキメラがあの街を襲ってたんなら、もうあそこは安全でしょ?」
嬉しそうにそう言うリリィだったが、サタンはただ無感情に、冷えていた彼女の背筋を更に冷やす言葉を口にする。
「何を言っている?あの程度の魔物があんな傷を残せる筈があるまい。これを付けたのは、もっと強い魔物だ。」
「………え…?」
リリィにとって、あのキメラが生まれてからであった魔物の中で、一番強いと感じた魔物だった。だから、この街を襲っていた魔物はあのキメラだと思い込んでいた。しかし、サタンの言葉は、そんなリリィの甘い想像を完全に否定するものであり、同時に彼女の冷や汗を増やす事になった。
サタンは、そんな青褪めているリリィを見て、何を思ったのか、不意に彼女の細い体を抱き寄せる。それまで青褪めていたリリィの顔は一気に赤くなり、背筋どころか全身、特に顔が熱くなる。まだ森のはずれにいたため、今のところは誰の目にも止まっていないが、いつ誰が街や森から出てくるか分からない。リリィは慌ててサタンの体を突き飛ばし、心臓が早打つ胸元に手を添えて、相変わらず行動の読めない、自分をこのように取り乱させた本人を睨む。
「今度は何っ!?一体何のつもりっ!?」
突き飛ばされた事に文句を言おうとしていたサタンだったが、目の前で怒鳴るリリィに鬼気迫るものを感じ、とりあえず先程の行動の説明をする。
「お前の体温が少し下がったから、温めてやろうとしただけだ。」
「ほ、本当にそれだけ!?」
「ああ。他意はない。」
「そう……なら、いいんだけど…」
そうきっぱりと言い切るサタンに、普通ならば安心する筈なのに、なぜか胸がきりりと痛んだ。そんな胸の違和感を振り払うように、リリィは村の門へと入っていき、サタンもそれに続いて街へと足を踏み入れていった。
二人は街の薬屋を見つけると、そこの中へと入っていく。店内は薬屋特有の臭いが鼻につき、初めて薬屋に入ったサタンは、その異様な臭いに顔をしかめる。
「何だ、この臭いは?」
「ああ。あんたは薬屋も始めてだっけ?ここはこういう臭いがするの。ちょっとの間我慢してね。」
リリィはサタンが頷き、店の隅で大人しくしているのを見届けてから、少し店内を見渡す。やんちゃな子供の面倒を見ている親はこんな気持ちなのかな、などとリリィは内心苦笑しながらも、すぐに風邪薬が置かれているコーナーを見つけ、その中の一つを手に取りレジへ向かう。当初の目的を果たし、もう用がなくなったリリィは、まだ顔をしかめているサタンを連れて、店を後にした。
そんな二人の姿を、建物の影から見ている、一組の男女の姿があった。女は露出の多い、殆ど下着のようなビキニにコートといった、かなり大胆な格好をしており、男は対照的に全身を黒いローブで隠し、顔さえも見えない。
「え~?誰、あの人間?もしかして、サタン様の恋人?」
「さ、さあ?そ、それよりも!」
女はサタンの隣を歩いているリリィを指差してぶう垂れているが、男はそんな彼女の態度に少し焦った様子だ。
「あの件は了承して頂けましたか?」
「あれの事?別にいいよ?私はサタン様に会えさえすれば、他の事はどうでもいいしね。」
女はそう言いながらも、男の方には目もくれずに、じっと二人の後姿を目で追っていた。女の言葉を聞き、男は安心したように息を漏らしながら、一度頭を下げて姿を消していく。
「では、後は任せましたよ。メア様。」
「オッケ~!まっかせときなさい!」
メアの軽い口調に不安を覚えながらも、男は何も言わず、人混みの中へと姿を消した。
そんな、自分達を見ている存在に気付く事もなく、リリィは次の目的地を前にしていた。そこを前に、リリィは顔を輝かせ、サタンは少しも嫌そうなのを隠す事なく顔に出している。
「リリィ。ここに用でもあるのか?」
「なんか嫌そうね。」
「ああ、そうだな。」
二人の前にある店。それは服屋だった。リリィにしてみれば、そこは幼い頃から憧れていた、未だに財宝の眠る宝島のような場所であり、サタンにしてみれば、リリィに物の売買について説教を受ける原因となった場所である。
まったく自分の心の内を隠さないサタンに、ある種のすがすがしさを感じながらも、ここばかりは譲れないと、リリィは彼の説得を始める。
「自分の姿を見てみなさい。さっきのいざこざで服がぼろぼろでしょ?」
「ん?そういえばそうだな。」
サタンは指摘され、改めて自分の格好を見直す。自前の黒いコート場所々に裂け目が入り、地面を転がった時に着いたのか、背中には土がこべりついていた。サタンが自分の服が汚れているのを認めると、ここぞとばかりにリリィが畳み掛ける。
「その服は布を継ぎ接ぎして洗わないと着れないでしょ?だから、替えの服をもう一着くらいは買っておかないと…」
「おい。勝手に話を進めるな。それに、なぜ着られないのだ?」
自信のあった演説を遮られ、リリィは少しむっとしたが、ともすれば聞き洩らしそうなサタンの言葉に、少し唖然とする。
「何故着れないって……あんた、まさかそれをそのまま着続ける気なの!?」
「ああ。少し破れてはいるが、まだ着られるだろう?」
サタンが周りの目を気にしない事はリリィも既に嫌というほど承知していたが、まさかここまでとは思っていなかった。
「駄目に決まってるでしょ!」
「何故だ?着る事には何の問題も…」
「人間はそうなの!周りにあんたみたいに汚れた服着てる人はいないでしょ!?」
「そうなのか。ならば、仕方ないな。しかし、人間とは面倒な生き物だ。」
リリィの出した切り札に、あれだけ粘っていたサタンもついに折れ、文句を言いながらも服屋へと足を踏み入れるのだった。
服屋に入った途端、それまで吊り目なリリィの目尻が垂れ、少し興奮気味に服を漁り始める。
初めに挙げていたサタンの服を買うという目的など、あっさりと記憶の片隅に追いやられ、手に取った可愛い服を着た自分の姿を妄想していた。当然、自分の服を買いに来たつもりだったサタンは、怪しい笑みを浮かべている彼女へ非難の声を掛けようと肩に手を掛ける。
「おい。私の服を買うのではないのか?」
「あっ!そうだった。ごめんね、つい。」
残念そうに手に持っていた服を戻すリリィに、サタンはなぜか負い目を感じた。自分が正しい事を言った筈なのに、何故負い目など感じるのだろうか。自分で自分の事を不思議に思いながらも、男物の服の方へと肩を落として歩いていくリリィの肩に、もう一度手を乗せる。
「サタン?どうかしたの?」
「お前は服が欲しいのか?」
「え?ま、まあ、そりゃあね。」
意外な問い掛けに、戸惑いながらも素直にリリィは頷く。サタンは彼女が頷くのを見て、なぜか大きな溜め息を吐くとともに、本意ではない言葉を漏らす。
「……………今日だけだ。」
「へ…?」
「今日だけは許してやると言っている。」
「本当!?やった!ありがと、サタン!」
心底嬉しそうにはしゃぐリリィとは対称的に、サタンは少しげんなりとしていた。さっさと用を済ませて、嫌な思い出のあるこの場からいち早く去りたいというのが彼の本心なのだから、それはそうだろう。
だが、嬉しそうなリリィの笑顔を見て、この選択に後悔はないとも思っていた。主人がその召使いに気を遣うなど、今まで誰にも気を遣う事のなかったサタンには思いつきもしない事だったが、そのおかげで彼女の笑顔が見られる事に、ほんの僅かながらも、喜びを覚えていた。
結局、リリィはこの買い物で、この前とは正反対の、動きやすさを重視したトレーナーやジーンズを三着ずつ買い、サタンにはこの前と似た形の白のコートを一着買ってやり、ほくほくしながら服屋を後にした。
街の適当な店で食事を終えたリリィは、先程買った風邪薬と水の入ったコップをサタンに差し出す。
「何だ、これは?」
「それは人前で言うなって言ったでしょ、まったく。風邪薬よ。さっき買ったでしょ?いいから、早く飲みなさいよ。」
押しつけられるように渡された風邪薬を訝しげに見ながら、サタンはそれをどう飲むのか思案する。彼に渡されたそれは錠剤タイプのもので、液体でないものを飲む、という表現自体、少し間違っているだろうという言葉が口から出かかったが、たった今自分の言ってしまった失言で損ねているリリィの機嫌を、これ以上損ねるのはあまり利口ではないと本能的に悟る。とりあえず、どうするかを考えながら水を飲もうとして、その手を対面に座るリリィに止められる。
「どうした?」
「あんた、何で水だけ飲もうとしてんのよ!?それは薬を飲めるように渡したのよ!?」
「…………なるほど。」
図らずもリリィの機嫌を損ねてしまい、サタンは理解をしてもいないのに、知った顔で薬を口の中に含む。リリィの顔色を伺う限りでは、まだ間違った手順を踏んではいなさそうだと、少し安心しながら、口に含んだ錠剤を噛み砕く。瞬間、口に広がる常軌を逸した苦みに、表情に乏しいサタンには珍しく、大きく表情を顔に出す。
「ぅっ!?苦い…!何だ、これは…!?」
「何で噛んでるのよ!?それは丸呑みするの!ほら、早く水で流し込んで!」
リリィの言葉を聞き、慌ててサタンは持っていたコップに口を付け、一気に傾けて中身を口に含み、口の中にあるものを一息に洗い流す。口の中を蝕んでいた脅威は消え去ったが、まだ舌に残る苦味は消えてくれない。
「大丈夫?」
「あ、ああ。しかし、風邪薬とは恐ろしく苦いものだな。」
「普通は噛んだりしないのよ。まあ、飲めたんならいいわ。さあ、行きましょ。」
食事を済ませた二人は、今夜泊まる宿を探し始める。だが、この街はあの防壁があるおかげで魔物からの被害が少なく、治安も良いので観光客が多いため、予約もなしに泊まれる宿がなかなか見当たらなかった。
「う~ん……中々見つからないね。」
「しっかりしろ。何のために雇ったと思っている?」
「うっさい!こればっかりはしょうがないでしょ!」
やいのやいのと二人で騒ぎながら通りを歩いていると、二人に向かってくる女がいた。女はビキニにコートといった大胆な格好で、その大きな胸を揺らしながら、満面の笑みで二人の方へ手を振りながら走ってくる。すれ違う男達は皆が振り返り、鼻血を噴き出して倒れていく。
「な、ななな何よ、あの人!?あんな恰好して!」
過激な光景を目撃してしまい、リリィは顔を真っ赤にして女に鋭い目を向けるが、女はそれをあっさりとスルーし、彼女の隣で呆けていたサタンに抱きつく。
「サタン様~!会いたかったですぅ!」
「なっ!?離れなさいよ!」
抱きつかれたサタンよりも、リリィの方が目を大きくさせ、慌ててその女をサタンから引き剥がす。サタンから引き剥がされた女は、頬を膨らませながらリリィを指差す。
「サタン様!この人間は誰ですか!?私という者がありながら…」
「それはこっちの台詞よ!っていうか、指差すんじゃないわよ!」
いがみ合いで牽制し合う猫のように、リリィと女は火花を散らせているが、もめた原因であるサタンは呑気なもので、風邪薬の副作用の眠気が引き起こした欠伸を噛み殺していた。
「私はメア。サタン様の婚約者よ!」
「はあああああああああああああああ!?サタン!それ本当なの!?」
メアの言葉が真実か問いただそうと、リリィはサタンに振り向くが、彼は顎に手を当て、少し頭を傾けている。
「メア…?覚えのない名前だな。」
「え~!?覚えてないんですか、私の事!?」
「な~んだ、あんたの勝手な片想いみたいね。それより、サタンを知ってるって事は、あんたも魔物なの?」
声を潜めて言うリリィの問い掛けに、メアは周りに目がある事に気付き、何かを思い出したように自分の拳を手の平に乗せる。
「そうだ、サタン様。宿の方、準備しておきましたよ。さあ、こちらへ。」
「ん?そうか。」
「ちょっと待ちなさいよ!」
あっさりとメアについていこうとしているサタンの袖を、リリィは力強く引っ張る。何の心の準備もなしに袖を引っ張られたサタンは、危うく転びそうになりながら、自分越しにメアを睨んでいるリリィを見下ろす。
「何をする?」
「婚約者がいたって本当なの?」
「なぜそんな事を聞く?」
「うっさい!いいから早く答えなさいよ!」
リリィ自身にも、どうしてこんな事が気になっているのかは分からないが、好奇心は猫をも殺す、と言われるほどだ。気になったからには、もう聞かずにはいられない。サタンは面倒臭そうな顔をしていたが、深く溜め息を吐いた後に答えてやる。
「ああ、いる。正確にはいた、だがな。」
「いた…?」
「先代が勝手に婚約を結んだのだ。支配力を完璧なものにするために、ありとあらゆる種族の姫と婚約をさせられた。いわゆる、政略結婚というやつだな。それらを私が全て蹴ったのだ。」
「そ~なのよ!サタン様ったら、相手の顔も見ずに話を断っちゃうんだから!」
サタンの説明に割り込んでくるように、メアがサタンの脇から顔を覗かせる。
「サタン様だって、私がこんなに可愛いって知ってたら、絶対婚約破棄なんてしなかったに決まってますよね。」
「そうかしら?あんたみたいに下品な女、サタンは受け付けないと思うんだけど?」
「なんですって~!?私よりあなたはどうなのよ?百年も生きられない人間なんて、サタン様に吊り合う訳ないでしょ?」
互いに睨みあい、一歩も譲るつもりのない二人の間で、サタンはこの喧騒を鬱陶しそうに聞いていた。
「おい。喧嘩をするのは構わんが、いい加減周りに気を配れ。」
サタンにそう言われ、ようやく二人は周りの群衆の目が、自分達に向けられているのに気付く。サタンの口から、まさか周りに気を配れと言われるなど、リリィにとっては夢でさえ起きそうになかった事だったが、サタンが周りに気を配れるようになった事は嬉しい半面、そう言われれば言われたで悔しいものだった。
「そ、そうね。さっさと移動しましょ。」
「何であなたもついてくんの!?私がとったのは、サタン様と私の為の部屋よ!」
「リリィは私の召使いだ。側にいてもらわねば困る。」
「そうよ。私、こいつの召使いなの。」
「ちぇ~。まあ、サタン様がそういうなら…」
サタンがそう言ってしまえば、メアは文句を言う事も出来ず、結局不満たらたらといった様子で、二人を自分のとった宿へと案内するのだった。
メアの案内で連れてこられた宿を見て、リリィは口をぽかんと開けていた。
「な、何これ…?」
「おい。その言葉は人前で言ってはならんのではないか?」
サタンの突っ込みにも言葉を返せない程、リリィは目の前の光景に圧倒されていた。メアがとった宿、それはこの街でも一番立派な宿で、壁は全て大理石で造られ、金の装飾が施されている。高さもこの街の建造物で一番高く、十階建てとなっている。今まで見た事どころか、想像さえした事のないほど豪華なそれに、リリィが目を奪われるのも仕方のない事だった。
「あんた、ちゃんと金は持ってんの!?」
「当り前でしょ?それに、ここは先払いなの。もう宿泊費なら払ってあるわよ。」
世間の事を何も知らなかったサタンとは違い、メアが一般常識を知っていた事に、リリィは些かほっとしたものの、今からこの宿に泊まると考えただけで、何とも落ち着かない気分になり、思わずそわそわしてしまう。だが、サタンは元魔王であり、彼の言葉が真実であれば、メアは何かの魔物の姫なのだ。この程度の宿で臆する筈もなく、そつなくその宿へと入っていこうとする。
「そこのコートにビキニの露出女!待ちやがれぇ!」
そんな二人の動きを止めるように、人混みの向こう側からだみ声が飛んでくる。声の主は何人か連れているようで、人混みが真っ二つに割れ、そこから武器を持った男達が何人も歩み出てくる。宿の外観に圧倒されて足を止めていたリリィは、人の波に呑まれて、二人とは少し離れた場所に流される。そんな彼女の脇を男達は通り過ぎ、足を止めていたサタンとメアを囲むように並び、殺気も露わにして武器を握り直す。
「よお。さっきは良くも騙してくれやがったな、この露出女が。」
「俺達の金で彼氏とここに泊まろうってか、あぁん!?」
囲まれている二人を離れた場所で見ていたリリィは、先程メアが常識のある魔物だと安心した自分を殴ってやりたい気分だった。どうも男達の言葉を聞いた限りでは、メアはこの殺気立っている集団から金品を盗んできたらしい。そして、その金でこの豪華な宿の宿泊費を出したのだろう。
「……まあ、サタンがいるから何とかなるかな?」
傍から見れば、絶体絶命なのはサタン達だが、彼の強さを見てきたリリィにしてみれば、たった数人で向かってきた男達のほうが心配だった。後は、どうこの場を上手くやり過ごそうかと考えていたが、彼がどんな才能を持っていたのか、彼女は忘れていた。
「何だ、お前達は?むさ苦しいぞ。」
そう、彼は人の気遣いを無駄にする天才である。リリィはその事を、すっかり失念していた。この場を穏便に済ませるつもりならば、もっと迅速に行動すべきだったと後悔しながら、リリィは野次馬の波を掻き分けながら、何とかその先頭へと辿り着く。すると、そこには意外な光景が広がっていた。
「あなた達ねぇ……私は今サタン様との愛の巣に向かってる途中なの。むさ苦しい顔して、邪魔しないでくれる?」
突っ込みたくなるような言葉を吐きながら、サタンを庇うようにメアが男達に対峙していた。更に、その口から男達を挑発するような言葉まで飛び出しており、もうこの場を穏便に済ます事は出来そうになかった。挑発された男達は、当然のように怒りのボルテージを上げ、怒りに任せて武器を振り上げる。
「舐めんじゃねぇ!」
「殺されるのが望みなら、望み通りぶっ殺してやるよ!」
男達が武器を振り上げるのを見て、サタンは男達に何かしようとするが、彼の動きを制するように、メアが一歩歩み出る。すると、突如男達の動きが止まる。サタンやメアが動いた様子はないが、男達は動きを止め、その場に崩れ落ちる。
どうしたのかと声を出そうとしたリリィは、あるものが目に入り、思わず口を閉ざす。彼女に口を閉ざさせたのは、男達の目の前で笑うメアの姿だった。このような状況でも物怖じしないサタンもサタンだが、彼女のそれは彼以上の不気味さを伴っていた。
「あなた達はどんな絶望を見るのかしら?」
不気味なメアの言葉よりも、その無邪気すぎる笑みに、リリィの背筋が凍りつく。リリィが凍りついている間にも、メアは倒れている男達に近付くのだが、男達はぴくりとも動かず、彼女の接近を許してしまっている。そして、遂にメアが男の中の一人の頭に触れるのを見て、リリィの止まっていた時間が動き出す。
「ま、待ちなさい!」
「何か用?今からがお楽しみなんだけど。」
上げられたメアの目は、いつか見たサタンのそれと同じだった。人を人とも見ない目、人に危害を加える事に何も感じていない目だ。体が震え、上手く舌も回らなくなっているが、目の前で人が危害を加えられるのを黙って見てはいられない。使命感に似たものが、固まっていたリリィを突き動かす。
「そ、その人たちに、何する気なの!?」
「何って……ただ夢を見てもらうだけよ。」
「夢…?」
「そう。ちょっとした悪夢をね。」
メアはそう言うと、ぐにゃりと歪んだ笑みを浮かべる。彼女の笑顔を見てリリィは思った、これはメアとサタンとの決定的な違いだ、と。サタンは人を傷付ける時でさえ、決して感情が絡まない。だが、メアは人を苦しめる事で喜びを得ている。それをメアが言った訳ではないが、もしそうでないのならば、あの笑顔は浮かべられないだろう。
サタンの時は、彼が悪意を持って人を傷付けている訳ではないと分かっていたから、説得も上手く言った。だが、メアは違う。彼女ははっきりとした悪意を持って、人を傷付けているのだ。説得した所で、それを止めるとは限らない。それでも、やはりリリィは人を見捨てる事が出来なかった。
「そ、そんな事……やめな、さいよ…!」
「ふふっ。あなた、私が怖いの?」
「え…?」
急な問い掛けに、リリィは一瞬何を聞かれているのか分からなかった。だが、その答えを待たずに、メアは更に笑顔を歪曲させる。
「いいわ、その恐怖…!あぁ……食べちゃいたい…!」
メアの標的が自分へと変わった事に気付き、リリィは恐怖に腰を抜かして座り込んでしまう。男への興味を失くしたメアは、ゆっくりとリリィへ近付いていく。近付いている彼女の顔は恍惚とした表情を浮かべ、瞳に狂気を宿し、口元を歪に吊り上げている。逃げなければならないとは分かっているのに、恐怖で体が動かない。周りの野次馬達はただ、メアがリリィに近付くのを見ているだけで、巻き込まれたくないが為に声を出すものは誰もいない。
「あなたの恐怖はどんな味かしら?…っ!?」
メアの手がリリィの頭に触れるか触れないかの瞬間、突如メアがバランスを崩して後ろへと倒れ込む。
「おい。リリィは私の召使いだ。むやみに怖がらせるな。」
「ぶ~。分かりましたぁ…」
耳に入ったサタンの声に、引いていた全身の血の気が戻っていくのを感じた。全身が冷や汗をかき、着ていた服がびっしょりと濡れてしまっている。
「大丈夫か?随分体温が下がっているぞ。」
「ぁ、ありがと…」
差し伸べられたサタンの手に、リリィは心が温かくなるのを感じた。サタンはリリィを起こしてやると、メアの方に向き直る。
「お前の事を思い出したぞ。」
「えっ!?やっと思い出してくれましたか!?」
嬉しそうに飛び跳ねるメアではなく、倒れている男を見下ろしながら、サタンは口を開く。
「お前は夢魔の姫、ナイトメアだな。」
サタンの言葉を聞き、メアの顔が嫌そうにしかめられた。
「ぶ~。やめて下さいよ、その名前で呼ぶの~。その名前、可愛くないから嫌いなんです~。」
「そうか。なら気を付けよう。」
「って、何勝手に和んでんのよ!?」
お預けを喰らったメアは、頬を膨らませて顔をしかめているが、そんな彼女に、リリィは鋭い視線を投げかける。
「あんた、何するつもりだったの!?」
「べっつに~。ただ、あなたの恐怖を食べようとしただけでしょ?」
「はあああああああああああ!?何それ!?意味分かんない!?」
「うるさいわねぇ。ま、いいわ。ここで騒ぐのは不味いから、さっさと中に入りましょ。」
先程から周りに野次馬がこそこそと話し合っているのを見て、メアはサタンを連れて宿の中に入っていってしまう。
「はぁ……まったく何なのよ、あいつ…?」
ペースをすっかり乱されてしまったリリィは、ひどく疲れた顔をしながらそれに続く。
その時リリィは、何となく嫌な予感がしていた。説明しがたい、嫌な予感が。




