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魔王道中  作者: amo
本編
3/13

元魔王、世間を知る

 とある宿の一室から、まだ若い女の声が、日の落ちた街へと響く。


「1000Gしかないですって!?」

「ああ。手持ちはこれしかない。」


 声を上げた少女、リリィはテーブルに手をつき、それを挟んで座っている男、サタンを睨み下ろした。そして、二人の間に置かれているのは、くしゃくしゃに皺が付いた、1000Gのお札。今リリィを悩ませている原因だった。


「何でそれだけしか持ってないのよ!?あんた、元魔王でしょ!?もっと持ってるんじゃないの!?」

「魔物が人間の物を持っていても仕方あるまい。私にはこれが何なのかも、何に使う物なのかも分からんのだぞ?」

「そんな事言ってる場合じゃないのよっ!!」

「ぐふっ!?」


 呑気に肩を竦めているサタンに業を煮やしたリリィは、拳を作って思い切り上へと振り上げる。拳は吸い込まれるようにサタンの顎へとクリーンヒットし、彼の体を天井近くへと舞い上がらせた後、美しい弧を描いて後頭部から着地する。床に落ちたサタンは、強く打った後頭部を擦りながら、腕を振り上げたままのリリィを睨み上げる。


「いきなり何をする?」

「うっさい!これからどうすんのよ!?こんなはした金じゃあ、私の故郷に着く前に野垂れ死によ!」


 召使いが雇い主を罵倒するという、普通では考えられないような状況だが、ようやく事の重大性に気付いたサタンは、少し真剣な顔をする。


「リリィ…」

「何よ?なんかいい考えでもあんの?」


 真剣な顔で声を掛けてきたサタンに、取り敢えずリリィは腕を組んで次の言葉を待つ。だが、そんな彼女の期待は、一瞬で砕かれた。


「この紙切れは、何なのだ?」


 とある宿に、また大きな鈍い音が鳴った。







 リリィから金が労働の対価として入手できる事、それが物との交換に使えること、そして、今自分達がどれほど貧しい状況であるかの説明を受けたサタンは、だがまだ疑問を頭に残していた。


「なぜそんな面倒臭い事をしなくてならんのだ?労働なんてものは、下々にやらせればいいだろう。」

「あんたもその下々に含まれてんのよ!この馬鹿!」


 リリィの言葉を聞いて、サタンは意表をつかれた様な顔をする。そんな、良く言えば世間知らずな、悪く言えば馬鹿なサタンを見て、リリィは彼に雇われた自分の運命を僅かながらに恨んだ。しかし、あのままではどこの誰とも知らない者の下で、奴隷として使われていたのだから、それよりはましなんだと自分に言い聞かせ、辛抱強く彼の世間知らずに耐える。


「では、明日からは労働をするとするか。」

「あんた、仕事の当てはあるの?」

「ん?適当に働くだけではだめなのか?」


 これ以上落ちるとは思わなかったリリィの肩が、更に下へと落ちる。


「そんな訳ないでしょうが!適当に労働したって、金が貰えるような事をしなかったら、それはただのボランティアよ!」

「そうなのか?お前に会う前に居た酒屋では、金属を砕いただけで金が貰えたぞ?」


 どこまでも常識が通じないサタンに、リリィは大きな溜め息をつこうとする。だが、ある事を思い付いて、がばっと顔を上げる。


「あんた、元魔王なのよね?」

「そうだと言っただろう。まだ疑っているのか?」

「確認よ、確認。じゃあ、あんたは強いのよね?」

「当然だ。少なくとも、そこいらにいる魔物よりは強い。」


 その言葉を待っていたように、リリィは笑みを作る。


「じゃあ、明日まず街のセントラルへ行きましょう。そこで、クエストを受注するのよ。」

「そのくえすととやらを受注すれば、金が貰えるのか?」

「正確には、そのクエストを達成すればね。でも、あんたは強いんだし、大丈夫よね?」

「くえすとが何なのか分からん以上なんとも言えんが、出来る限りはしよう。」

「よ~し!そうと決まれば、今日はもう寝ましょう。………あ!?」


 そう言って寝ようとしたリリィは、そこで動きを止める。


「どうした?」

「………ベッドが一つしかない…」


 そう。今夜空いていた宿はここしかなく、この部屋にはダブルサイズのベッドが一つしかなかった。宿の店主が要らぬ気を利かせて、ダブルベッドのある部屋の鍵を預けたのだが、リリィの同室者は恋人どころか、今日会ったばかり元魔王だ。相部屋というだけでも気が晴れないのに、同じベッドで寝るなど、想像するだけでも気が滅入った。

 だが、常識を持ち合わせていないサタンにしてみれば、そんなリリィの心境を察するのは無理な話だった。


「その大きさなら一緒に寝られる。問題ないだろう?」

「はあああああ!?」


 貞操の危機を感じたリリィは、思わず壁際まで飛び退く。だが、当然ながらサタンにそんな気はなく、何故リリィが自分から遠ざかったのか分かっていない。


「何をしている?寝るのではなかったのか?」


 本人にそのつもりはなくても、一度疑ってしまったリリィにとっては、その言葉も自分を寝床へと誘うためのものにしか聞こえず、それ以上下がれないというのに、足を後ろへと進めようと動かす。

 そんな彼女の不可解な動きを見て、何か思い至ったサタンは、リリィの方へと足を進める。もう手を伸ばせばリリィに触れるという場所にサタンが足を踏み入れた瞬間、リリィの頭の中で何かが弾けた。


「いやあああああああああ!!」

「がへっ!?」


 無防備なサタンの鳩尾に、リリィの見事な正拳突きが突き刺さる。くの字に曲がったサタンの体は、そのまま硬直して後ろに倒れ込む。


「いきなり何をする?私が何かしたか?」


 サタンはいきなり殴られた胸元を押さえながら起き上るが、完全に取り乱したリリィは、そんな些細な彼の行動にも敏感に反応し、腰を下ろしている彼の顔面に蹴りを放とうと足を振り上げる。

 だが、ちょうどリリィの足が最高点に達した時、部屋の扉が大きく開いた。


「お客様!?何かありま、した…あれ?」


 甲高い悲鳴と大きな物音を聞いて、女が襲われている図を想像してきた宿の店主は、予想とは真逆の光景を見て固まった。ようやく我を取り戻したリリィは、サタンの座っている位置を大きく迂回して、店主の後ろに身を隠す。

 現状が理解出来ていない店主はどうすればいいのか分からず、何度も二人を見比べているが、それ以上に現状を理解していないサタンは、少し不機嫌そうに目を細くする。


「一体なんだというのだ?」

「うっさい!すいません、部屋を替えてください!ベッドが二つある部屋に!」


 現状は未だに理解出来ないが、どうやらこの二人が喧嘩しているらしい事だけは理解し、店主は何処か納得しないまま、二人を条件に適った部屋へと案内するのだった。

 部屋に案内されたリリィは、身を守るように布団を被りながら、部屋の真ん中辺りで立っているサタンを睨みつけた。


「いい?もし布団に入ってきたら、今度は股間を蹴り上げるから!」

「分かった分かった。だから、そう睨むな。」


 そう言いながら、サタンは壁に背を預けて、さらに後退しようと足を動かす。当然背中には壁があるので、それ以上下がる事はない。サタンの急で奇怪な行動を見て、リリィは布団で身を守りながらも、好奇心に勝てずに声を掛ける。


「あんた、何してるの?」

「さあ?」

「さあ、って……何かも知らずにやってるの?」

「人間は、寝る前にこうするのではないのか?」

「…え?」

「…ん?」


 二人の間に、少しばかりの沈黙が流れる。


「そんな風習、聞いた事ないんだけど?」

「そうなのか?だが、さっきお前もしていたではないか?」


 サタンの言葉を聞いて、ようやく彼が何をしているのかリリィは理解する。サタンは、先程サタンから逃げようとしていたリリィの真似をしているのだ。

 そう言われれば、サタンが背中を預けている壁が、先程リリィが背中を押しつけていた方角のそれである事に気付く。先程サタンがリリィの方に迫ってきたのは、これをしようとしていたからなのだと気付き、一人で早とちりしてしまった事が、今さらになって恥ずかしくなった。


「それは真似しなくていいのよ!」

「そうなのか。では、もう寝てもいいのか?」

「好きにしなさい!」


 恥ずかしさで声を荒げているリリィを余所に、サタンはベッドの上に寝転がる。だが、すぐに上半身を起して、リリィの方にしかめた顔を向けてくる。


「リリィ。このベッド、少し硬いぞ。安物、ぶっ!?」

「うっさい!さっさと寝ろ!この馬鹿!」


 リリィから投げつけられた枕が、サタンの顔面にクリーンヒットした。地下に閉じ込められてから、まともな寝床にありつけなかったリリィにとって、サタンの文句はこの上ない皮肉だったのだが、当然彼にそんな気はなく、なぜ枕を投げつけられたのかも分からなかった。だが、リリィが怒っているのだけは何となく理解し、大人しく眠りに就く。

 こうして、騒がしい夜は更けていった。







 騒動があった夜が明けて、部屋に運ばれた朝食を取った二人は、チェックアウトをしに、宿のフロントへと向かった。

 フロントには受付の女が立っており、宿代を払うために、リリィは彼女の前に立った。受付の女はリリィに気付き、にこやかな営業スマイルを浮かべる。


「どうかなさいましたか?」

「チェックアウト、お願いします。」

「はい、チェックアウトですね。一晩のお部屋代、100Gとなります。」

「え?」


 二食付いて一泊したにもかかわらず、宿代がたったの100Gと聞いて、リリィの目が点になる。それに気付いた受付の女は、少し声を潜めて、リリィに耳打ちをする。


「この近くに魔王のいる城があるので、こんなに安いんです。魔王が何かをする訳ではないんですけど、一般のお客様は怖がって、泊まりに来ないんですよ。」

「あ、あはは。それはた、大変ですね…」


 リリィは頬を引き攣らせながら、何とか愛想笑いを浮かべる。もし彼女に、サタンが元魔王だと伝えれば、どんな反応を返してくるのだろうか。そんな考えが浮かび、すぐにリリィは首を振る。どんな反応を返してくるにせよ、面倒な事になるに違いなかった。

 リリィは出来るだけここから早く離れようと、くしゃくしゃになった1000Gのお札を出し、お釣りとして、一枚の500G硬貨と四枚の100G硬貨を受け取る。これで用はなくなったと、リリィは足早に去ろうとするが、ここでサタンがとんでもない事を言い出した。


「リリィ、それは何だ?」

「………………は?」


 サタンの指の延長線上にあるのは、リリィがたった今受け取った五枚の硬貨。サタンの突拍子もない言葉に、受付の女は勿論のこと、リリィも一瞬ぽかんとしてしまうが、慌ててリリィはサタンの背中を押し出す。


「な、何言ってるのよ?もう。ぼけるには早いでしょ?」

「おい。それが何なのか…」

「いいから!さっさと歩く!」


 女の不審な目から逃れるように、リリィは大急ぎでサタンの背中を押して宿を出た。宿から少し離れた場所で、ようやく足を止めたリリィは、人通りのまばらな路地裏にサタンを押し込み、自分もそこへと入る。


「いきなり何だ?急にこんな所まで連れてきて。」

「うっさい!いい?人前で『これは何だ』は禁止よ!あんたの正体がばれるでしょ!」

「そうか。なら、出来る限り控えよう。」


 それまで不満げな顔をしていたサタンも『正体がばれる』と聞いて、大人しくリリィの言葉に同意する。サタンが素直に頷いたのを見て、リリィは長く息を吐いた後、手に乗っていた硬貨をサタンの前に差し出す。


「これが何か、だったわね。これもお金よ。」

「…?金とは紙切れの事じゃないのか?」

「お金にも色々な種類があるのよ。さっきのは1000G札。で、これが500G硬貨で、こっちが100G硬貨。まあ、大体は何処かに数字が書いてあるから、あんたにも分かるでしょ?」


 硬貨を受け取ったサタンは、興味深げに硬貨を裏返して見たり、表面をなぞってみたりしている。そんな彼の様子を見て、リリィはがっくりと項垂れる。


「はぁ。あんた、本当に何も知らないのね。なんか、私の中の魔王像と一致しないわ。」

「どんな想像か大体分かるが、それは勝手なイメージの押し付けだ。魔王が直々に人間を殺しに来た、なんてことをお前は聞いた事があるか?」

「…確かにないわね。」


 サタンの言った通り、魔物が人間を襲った事なら何度も耳にした事はあるが、魔王が直接人間に干渉してきた事はない。


「ただ力があるというだけで王にされ、勝手に恐怖の対象として殺されるのが魔王だ。そんなのは理不尽だとは思わんか?だから、私は魔王をやめたのだ。」


 サタンの考えに、リリィは少し考えさせられるものがあったが、それでも納得いかない事はあった。


「じゃあ、王らしく、人間を襲わないように魔物を統治すればいいじゃない。そうすれば、あんたが殺される理由はないんじゃないの?」

「それは面倒だ。第一に、私とて、全ての魔物がリアルタイムで何をしているかを把握するなど、不可能だ。それこそ、お前達人間が信じている神の所業というものだ。」


 意外に正論を返されて、言葉に詰まるリリィ。サタンの言葉は理解できるが、やはり納得できるようなものではない。だが、何となくだが、サタンが言うほど悪い奴ではないと思えた。


「ま、いいわ。それより、まずは食料品の買い出しよ。食事の後は、セントラルに行って、クエストをこなすわよ。いいわね?」

「ああ。人間の社会の事はまだ理解出来ていないから、その辺りはお前に任せる。」

「よし。じゃあ行くわよ。」


 リリィはそう言って、近くの食糧売り場に入っていった。







 リリィは惣菜を前にして、動きを止めていた。


「た、高い…」


 リリィの目の前には、通常では考えられない程に高価な値札を付けられた、様々な惣菜があった。先程の宿があれだけ安かったにもかかわらず、ここにある惣菜は異様と言っていいほどに高価だった。


「な、何で普通のサラダが200Gもするの!?普通の宿、一泊分じゃない!?」


 二食付いてきた宿が100Gで、ただのサラダがその倍の200G。明らかなぼったくりであるが、そんな相場を理解していないサタンは、そのサラダを手に取る。


「リリィ、良かったな。これは買えるぞ。」

「買う訳ないでしょ!高すぎよ!」


 リリィは慌ててサタンの手からサラダをひったくると、それを商品棚に戻す。


「仕方ない……他の店に行きましょ。」

「なぜだ?ここに食料はあるのに…」

「い・い・か・ら!さっさと来なさい!」


 面倒臭そうにごねているサタンの袖を引き、リリィは少し遠い食糧売り場へと移動した。終始サタンが文句を垂れていたが、リリィは何とか理由を説明し、彼を黙らせた。

 だが、そんな彼女を待っていたのは、先程の店に負けずも劣らない値段の惣菜だった。


「な、なんで?何でこんなに高いわけ?食糧不足でも起きてるの?」


 奴隷としてこの街に連れられてきたリリィは、この街がどんな街かを知らない。宿を探している途中で、初めてこの街に魔王の城がある事を知ったくらいだ。だから、この街がどんな状況なのかは、サタンと同じくらいの知識しかないのだ。

 手に握られた900G睨むように見つめながら、断腸の思いで惣菜を買おうとしていたリリィの耳に、この街の主婦らしい二人の会話が届く。


「やだぁ。また値上がりしてるわ。」

「仕方ないわよ。魔物が畑や田んぼを荒らすんだもの。」

「やあねぇ、まったく。早く勇者が魔王を倒してくれないかしら。」


 口々に文句を言いながら、主婦らしい二人は、買い物かごに食料品を詰め込んでいく。それを聞いたリリィは、後ろに立っているサタンに振り返る。


「あんた、この地方の魔物も統治してなかったの!?」

「ああ。政治は面倒臭いから、執事にすべて任せてい、ごふっ!?」


 サタンの言葉が終わるか終らないかの内に、リリィの拳が彼の顎を捉える。昨晩の再現のように、サタンは弧を描いて後頭部から落ちる。サタンはいきなり殴られ、文句を言おうと口を開くが、リリィの声がそれを遮る。


「こんなに高いのはあんたが魔物をろくに統治してないからでしょうが!」

「……そうなのか?」


 呑気に首を傾げているサタンに、リリィは頭をぐしゃぐしゃと掻き毟る。


「そうなのよ、この馬鹿!」


 買い物中の人々が、リリィの怒鳴り声を聞いて彼女の方を振り返る。その視線を感じて、ようやくリリィの怒りは収まり、気まずくなった彼女は、慌てて惣菜を買い物かごに押し込み、サタンを引き突ってレジへと向かった。







 恥を掻いて惣菜を買ったリリィは、公園のベンチでそれを頬張りながら、途中で買った街の地図を眺めていた。


「セントラルはここから北にあるのね。」

「リリィ。目的地がどこか分かったのか?」

「ええ。ここから、北にちょっと行った所みたい。」


 最後の一口を飲み込んだリリィは、スカートを軽く叩きながら立ち上がった。サタンはそれに手元に唯一残った100Gの硬貨を手の中に遊ばせながら、リリィの後ろについていこうとした。

 しかし、耳にある音が聞こえてきて、その足を不意に止める。サタンが止まっているのに気付いたリリィは、怪訝な顔をして戻ってくる。


「どうしたの?何かあった?」

「あっちの方から悲鳴が聞こえた。」


 そう言ったサタンは、リリィの行こうとしていた方の逆を指差した。


「え?私聞こえなかったけど?」

「まあ、人間の聴覚では無理だな。」

「でも、それが本当なら、早く行かなきゃ!」


 急いでリリィはそちらに掛けていこうとするが、彼女の手をサタンが引っ張り、それを制する。いきなり後ろに手を引かれてバランスを崩したリリィは、睨むようにサタンを見上げる


「何よ!?悲鳴が聞こえたんだったら、早く…」

「クエストはいいのか?」

「はあああああああああ!?そんな事言ってる場合じゃないでしょ!」

「だが、お前は昨晩言っていたではないか。適当な労働はただのボランティアだと。」

「確かにそう言ったけど、困ってる人は助けなきゃいけないの!それも言ったでしょ!?」


 怒ってそう言うリリィに根負けしたのか、仕方ないと言わんばかりにサタンは溜め息をつき、彼女とともに悲鳴の聞こえた方に走り出すのだった。







 サタンとリリィがその場に着いた時には、周りを野次馬と警備隊に囲まれるようにして、一人の女の首筋にナイフを突き付けた男が、うろたえた様子で立っていた。


「近付くんじゃねえぞ!もしそれ以上近づいたら、この女を殺すからな!」

「ひぃっ…!」


 人質を取られた警備隊は、手も足も出せない状態で膠着していた。男と警備隊までは、10m程の距離があり、隙をついて一気に間合いを詰める事が出来ずにいるのだ。

 サタンとリリィは人込みの合間を縫うようにして進み、何とか野次馬の群れを抜け、警備隊の後ろまで進んだ。


「ちょっと!あんた、何とかしなさいよ!あんたなら何とか出来るんでしょ!?」

「それも人として当然のことなのか?」

「そうよ!さあ、早く!」


 人として当然なら仕方ない。そう判断したサタンは、それを口には出さずに警備隊を押し退けて前に出る。いきなり前に出てきたサタンに、男は過敏に思えるほどに反応して、脅すようにナイフを女の首筋に押し付ける。


「な、何だ、てめえは!?」

「おい、そこの男。」


 男の言葉を無視して、サタンは男を指差すと、いかにも面倒臭そうに口を開いた。


「助けてやる。どうして欲しい?」


 サタンの言葉に、その場の空気が死んだ。警備隊や野次馬は当然のことながら、助けてやると言われた男でさえ、意味が分からずに硬直している。

 しばらく続いた沈黙を破ったのは、彼の常識知らずを理解していた、いや、理解していると勘違いしていたリリィだった。


「あんた、何口走ってんのよ!?」

「今度は何だ?お前が助けろというから、助けようとしているのではないか。まだ何かあるのか?」

「誰があの男を助けろなんて言ったのよ!?あの女の人を助けろって言ってんのよ!」


 漫才のような遣り取りをしている二人の声で、ようやく固まっていた男が我に返り、ナイフをサタンの方に向けてがなる。


「て、てめえ!舐めてやがんのか!?この女がどうなっても…」


 男の声を遮るようにして聞こえた、何かが破裂するような音。音が聞こえた方に、全員が目を動かし、そこに注視して固まる。


「ぁ…なっ、なんだ……こりゃぁ…?お、おれの右手が、あ…ぁ、ああああああああああああ!!」


 弱々しく震えた、掠れた声を出した男の右肘から先が、何かに食い千切られたかのようになくなっていた。男には、右手がなぜそうなったのか分からない。ただ、肘から先の感覚がなくなっているのに気付き、肘を襲う焼いた針で抉り回されているかのような痛みとも呼べない感覚に、大声を上げて喚き出す。

 握った拳を突き出していたサタンは、男の傷口から鮮血が吹き出すのを確認すると、呆けているリリィを見下ろす。


「これでいいか?」


 先程までと変わらない、殆ど感情の通っていない声。それが、今は恐ろしく聞こえる。それほどまでに、目の前の光景が悲惨だった。


「こ、これ…あんたが……やった、の…?」

「当然だろう?他に誰がいる?」


 リリィは、口の中が異常に渇いていくのを感じた。そして、やっとサタンが元魔王であると認識した。これは、人間がどれだけ死んでも、何とも思わないのだ。気分次第で、いくらでも人間を殺す。今殺さなかったのは、ただ怪しまれるのが嫌なだけだったからだろう。

 その気になれば、自分はいつでも殺される。

 そんな考えが、リリィの心を捉えた。だが、それとはまったく別の考えが、彼女の頭の中を占めていた。


「や、やり過ぎよ!あんただったら、あいつくらいほとんど無傷で無力化出来たでしょ!?」

「不可能ではないが、何故そんな面倒臭い事を…」

「それが人間として当たり前だからよ!」


 リリィの頭をよぎったのは、サタンはまだ人間について無知であるという事だった。今までの彼を見ていて気付いたのは、彼が人間の中に紛れるのに必死だという事だ。『人間として当然』。この言葉を使った時、サタンは決まって、『仕方ない』と言って、その言葉に従った。だったら、それを利用すれば、彼を善人にすることも可能な筈だ。

 当然、これがサタンにばれれば、リリィは殺されるかもしれない。だが、だからと言って、他人を見殺しに出来るほど、彼女は薄情になれなかった。

 リリィの言葉に、サタンは少しの間沈黙する。実際に流れた時間はほんのわずかなものだったが、リリィにはそれが永遠にも思えるほどに長く感じた。返答次第では殺されるかもしれないのだから、当然と言えば当然だろう。


「そうか。人間として当然か。なら、仕方ないな。次からはそうするように努めよう。」


 そして耳に入る、期待通りの回答。それを聞いて安心しきったリリィは、腰が抜けるように腰を下ろした。そこで、初めて自分が全身に汗をかいているのに気付いた。


「おい、大丈夫か?顔色が優れんぞ?」

「あ、はは。大丈夫よ。ちょっとね。」


 差し伸ばされたサタンの手を、少し躊躇いながらもリリィは取った。リリィは何となく、サタンはやっぱりそこまで悪い奴じゃない、と思った。ちゃんと言葉を交わせば、分かりあえるのだと。


「しっかりしろ。お前がいないと、また叩かれてしまう。」

「…?どういう事よ?私がいないと叩かれるって?」


 またサタンの意味の分からない言葉に、リリィは眉根を寄せる。


「召使いを雇う時、なぜか顔を叩かれたのだ。それも、何人にもな。ひどい話だとは思わんか?」

「………あんた、その人になんて言ったのよ?」


 何となく嫌な予感がしたリリィは、遠慮気味に答えを待つ。そして、彼女の当たってほしくなかった予感は当たってしまう。


「私の召使いになれ、と言った。」

「叩かれて当然でしょうが!この馬鹿!」

「げへぁ!?」


 本日二度目のアッパーを貰い、サタンは宙を舞った。拳を振り上げた後、リリィは思った。やっぱりこいつはいい奴じゃなくて、ただ馬鹿なだけなんだ、と。

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