魔王、勇者パーティと対峙する
リリィと別れたサタンは、メアと夜通し飛び続け、四日前に旅立った城へと戻っていた。城の門番をしている魔物は、サタンの姿を見るなり、慌てた様子で頭を下げ、急ぎ門を開く。城の中でも、やはりサタンの姿を見た魔物たちは、皆それぞれに驚いたような顔をし、しかし全員が彼に対して頭を下げた。
「さすがサタン様ですね。皆、サタン様の事…」
自分の前を歩くサタンの事を、まるで自分の事のように誇らしげに思っていたメアは、不意に向けられた、まるで氷のように冷たいサタンの目に、開いていた口を閉ざす。
「な、何ですか?」
「もうサタンは止めろ。私は魔王だぞ?」
サタンの言葉に、メアは黙って頷いた。表情はいつも通り、何の感情も示してはいないのだが、なぜかメアには彼の表情が、どこか寂しげに見えた。
そんな、二人が向かい合っているのを見つけた一匹の魔物が、他の魔物とは違い、嬉しそうな顔をしながら二人に近付いてくる。
「おお、魔王様!やはりお戻りになって下さいましたか!」
「デイザーか。」
デイザーと呼ばれたのは、昨日の夜に路地裏でサタンと会った、前に執事をしていた魔物だった。メアを送り込み、サタンに自分が会いたがっているのを伝えてもらい、彼に魔王の座に戻るよう進言したのだ。初め、サタンはそれを断ったのだが、こうして彼が城に戻ってきたのを見て、聞いてもいないのに、彼が魔王に戻ると決めつけて話しかけてきたのだ。まあ、間違ってはいないため、サタンがそれを窘める事もなかったが。
「貴方様が魔王の名を捨ててから、各地の魔物達が好き勝手に暴れ出し、今や暴動に近い事になっております。ですが、貴方様が戻ると言う事で、その事態も沈静化に向かっております。」
「そうか。」
デイザーの報告を片手間に聞きながら、サタンは魔王の間へと歩いていく。その後も、色々とデイザーの報告は続いたが、サタンはそんな事に興味もないようで、そのほとんどを聞き流しながら、魔王の間の椅子へと座る。そして、デイザーの報告を聞き終わると、それまで相槌しか打たなかったサタンが、初めて自分から口を開いた。
「デイザー。今から言う事を一週間以内にしろ。」
「は?一体どういった内容ですか?」
突然の命令にデイザーは戸惑ったが、それでも逆らう気など毛頭はないと、深々と頭を垂らしながら、彼の命令を待つ。
「まず、出来る限りの魔物を一カ所に集めろ。」
「え?そんな事をして、どうするおつもりで?」
「私の言う事が聞けんか?」
「い、いえ!滅相もございません!」
脅すような口調でもないのに、デイザーは縮みあがったように身体を丸め、額を床に擦らんばかりに頭の位置を下げる。
「ならいい。それと、勇者を呼び出せ。」
「………………は?」
サタンの言葉を聞き、デイザーは聞き間違えか、自分の耳がおかしくなったのかと思った。だが、聞き間違いでもなければ、彼の耳がおかしくなった訳でもなかった。
「勇者を呼び出せ、と言ったのだ。そうだな……出来る限り、人の寄りつかぬ場所がいい。そこはお前の一存に任せよう。」
サタンはそれだけ言うと、もう用はないと言わんばかりに、傍らに置いてあった本を読み始めてしまう。すぐには、サタンの目的が分からなかったデイザーだったが、言い渡された命令の二つを結びつけると、彼の言わんとしている事が分かった気がして、その聡明さを褒め称えるために口を開く。
「魔物たちと勇者を戦わせるのですね?さすがは我らの魔王様です!そこまで考えておられるとは!」
「ああ、そうか。そうなってしまわないように、勇者を呼び出す場所と魔物を集める場所は分けろ。」
「え?その…」
サタンの言葉に、またしてもデイザーは言葉を失う。彼には、サタンの目的がまったく意味が分からなかった。魔物を一カ所に集めると言うだけでも意味が分からないのに、その上、魔王の天敵である勇者を呼び出し、更にはそれらを会わせないよう手配しろと言うのだ。
どうしていいのか分からずに固まっていると、サタンがデイザーを不機嫌そうに見下ろす。
「何をしている?さっさと動け。期限は一週間だぞ。」
「は、はい!仰せのままに!」
デイザーが下がると、魔王の間にはサタンとメアだけが取り残された。それまでデイザーの報告にサタンの命令と続いた、面倒な事務的なやり取りの間、ずっと押し黙っていたメアは、ようやくプライベートタイムが訪れたと、本を読んでいるサタンの側に寄る。
「ねえ、魔王様。何で勇者なんか呼び出すんですか?」
「少し用があってな。」
サタンはメアの言葉にそう返しながらも、余程真剣に読んでいるのか、手に持っている本から目を離そうとしない。適当にあしらっているような彼の態度にも、メアは機嫌を悪くする事はない。まあ、婚約話を蹴られているのにもめげず、彼を慕っているのだから、今更少し冷たくされたくらいで冷める恋ではないだろう。今は、真剣に本を読んでいる彼の邪魔をしないでおこうと、メアは健気に魔王の間を後にした。
魔王の間を出ていったデイザーの顔は、いつになく険しいものになっていた。元より、彼はサタンなどに服従してはいない。ただ、サタンが政治に関心を向けない魔王であったがゆえに彼に近付き、執事としての地位を確立し、その地位を生かして好き放題していたのだ。それゆえに、サタンという後ろ盾がいなくなった彼に従う者は少なく、魔物間で暴動紛いな事が起きたのだ。
「くそっ、忌々しい目の上のたんこぶめ!魔王に戻った途端、好きなようにやりやがって!」
丁寧だった彼の言葉遣いは乱れ、語調も荒立てながら、ずんずんと通路を歩いていく。サタンが魔王に戻ったので、これでまた好き放題に出来ると思った矢先、意味も分からぬ命令を下され、デイザーのご機嫌は麗しくなかった。それでも、サタンの命令に付き合うのは、彼のこんな気紛れが、そう長く続く事はないと踏んでいたからだ。
「奴がまた政治に関心をなくせば、また私の天下だ…!それまで、たったそれまでの辛抱だ…」
黒い笑みを浮かべている彼を目撃した者は、誰一匹としていなかった。
サタンが魔王に戻ってから五日経ったその日、フェルトス一行は、魔王からの呼び出しで、とある平原を訪れていた。
その平原は、世界で一番広いにもかかわらず、そこに人が立ち寄らないために、名も付けられていない平原だった。そこに人が立ち寄らない理由は簡単で、そこには魔物が数多く生息するからだ。家を建てなければ生活できない人間に比べ、魔物は餌さえあれば生活できる。その労力の差もあり、魔物がその平原を牛耳っているのだ。
しかし、今フェルトス達が見渡す限りでは、一匹を除いて、魔物の姿は見えない。フェルトスたちの知らない事ではあるが、そこに生息していた魔物たちも、例外なくサタンの呼び出しに応え、今は他の場所に移動している。そのせいで、いつもは所狭しと魔物が蠢いているその平原も、自然の音とフェルトス達の足音しか物音がないほどに静かだった。
そして、その自然の中に一匹立っているのは、他でもない、フェルトスたちを呼び出したサタンだった。腕を組んで立っていたサタンは、大きく黒い翼を、まるで自分の体を覆い隠すように折り畳み、こちらへと歩み寄ってくるフェルトスたちに、何の感情も灯っていない目を向けていた。
フェルトスたちがサタンの前で立ち止まると、そこでようやく魔王が、あの時会ったサタンである事に気付く。当然勇者は驚いたが、一際大きなリアクションを取ったのは、ジェラードだった。
「どうも強いとは思ってたが、まさかてめえが魔王だったとはな。あの時の女はどうしたんだよ?」
「解雇した。もう、あの者と私は何の関係もない。」
「へっ、まあ、確かに関係ねえな。重要なのは、今だ。」
ジェラードはそう言うと、サタンへ突っ込もうとするが、それをフェルトスが手で制する。
「何で止めんだよ!?魔王が殺してくれって、一人で突っ立ってんだぞ!?」
「少し話をさせてくれないか?」
「あ!?何悠長な事…」
「ジェラード!フェルトスがこう言ってるだから、ちょっと静かにしてなさい!」
「ちっ、分かった…」
マティアにまで止められ、ジェラードは大人しく引き下がるが、いつでも戦えるぞと言わんばかりに、警戒心を解いてはいなかった。そんな彼に、フェルトスは内心苦笑しながらも、表情は真剣なままで、サタンと向き直る。
「こんな所に呼び出して、一体何の用だい?」
「簡単な事だ。お前にしか出来ない事を頼もうと思ってな。」
サタンの言葉に、フェルトスは片眉を吊り上げる。魔王が勇者に頼み事など、まさに前代未聞な事だった。それに、自分にしか出来ない事というのも気になった。
「一応聞いておくけど、一体どんな内容を頼む気だったんだい?」
「人間の王と会わせろ。」
その一言を聞いた瞬間、それまで控えていたマティアは言うに及ばず、出来るだけ事を荒立てないようにしていたフェルトスも、自分の腰に佩いていた剣を構える。確かに、王と会う事が許された人間は限られている上、魔王に会おうなどと言う人間は、勇者くらいしかいない。サタンが自分達を呼んだのも、これで合点がいく。だが、だからと言って、はいそうですか、とそんな事を許すほど、フェルトスもお人好しではなかった。
だが、三人が緊張の面持ちで構える中、サタンだけは腕を組んだまま、構えもせずに言葉を続ける。
「勘違いするな。ただ、会って話がしたいだけだ。」
「それを信じると思ったのかい?」
「いや、簡単には信じないとは思っていた。だから、まずはお前達と交渉だ。」
サタンはそう言うと、組んでいた右手を前に突き出し、フェルトス達を誘うように、人差し指を上に向けて自分の方にくいっと寄せる。
「五分だ。五分時間をやる。その間に、一歩でも私がこの場を動けば、今言った事は忘れてくれて構わん。私の命もくれてやる。」
突然言い渡された条件に、フェルトス達は目を見開く。
「だが、もし私が一歩も動かなければ、命令に従ってもらう。どうだ?悪い条件ではあるまい。」
フェルトス達には、サタンが何を考えているのか分からなかった。もし王に会いたければ、自分で会いに行けばいい筈だ。彼の実力を考えれば、フェルトス達の護りがない時を狙えば、それは容易な事だろう。だが、彼はそうはせず、明らかに自分が不利になる筈の条件を、なぜか提案してきたのだ。
そんな思考をしていたせいでフェルトスは、一人が飛び出すのに気付くのが一瞬遅れた。
「へっ、余裕かまして吠え面かくんじゃねえぞ!」
そこにどんな真意があろうとも、この戦いに勝ってしまえば魔王討伐が成る。そう考えたジェラードは、勇者が制止しようとするのを無視し、その拳をサタンへと叩きつける。
静かだった平原に、鈍い音が響き渡る、筈だった。だが、なぜか彼の拳はサタンに触れているだけで、何の音を立てる事もない。
「な、何っ!?」
「では、これより開始だ。」
目の前で起きた不可解な現象に目を剥いているジェラードに構わず、サタンは機械的に開始の合図を告げる。
不気味さが先に立ち、一旦サタンから距離を置いたジェラードの尻に、マティアの蹴りが入る。
「いてぇ!?」
「何勝手な事してるの!なんか始まっちゃったじゃない!」
「うるせえ!もしもの心配する暇があったら、てめえも攻撃しやがれ!」
ぎゃあぎゃあ言い合っている二人を余所に、フェルトスが一気にサタンへの間合いを詰める。
「はああああああ!」
掛け声とともに、フェルトスの剣が突き出される。異様に高い唸りを上げながら突き出された剣は、常人の目には見る事さえ叶わぬ速度で動くが、サタンはそれを、首を捻るだけでかわす。突きをかわされたフェルトスは、突き出した剣をそのまま振り下ろそうとするが、腹部に衝撃を受け、息を詰まらせて後ろに吹き飛ぶ。吹き飛ばされたフェルトスは、空中で体勢を立て直し、地面に足を擦らせてその勢いを殺しながら、自分を吹き飛ばしたものを見る。
「は、羽…?」
まるで玉を弾くバンパーのような動きをしていたサタンの羽は、何事もなかったかのように彼を覆うように折り畳まれる。
「お前の剣は封魔の剣か?」
「ああ、そうだよ。」
封魔の剣。勇者だけが持つ事を許され、あらゆる魔物を滅し、あらゆる魔法を撥ね退けると言われる伝説の剣で、それは魔物であるサタンには、弱点でもある筈だ。
サタンは腕組さえ崩さぬまま、真っ直ぐにフェルトスを見つめていたが、不意に感じた魔力に、感心したような顔をする。魔力の元を辿っていくと、その先に立っているのは、黒いローブで全身を覆っている少女、マティアだった。
「ほう。その若さで中々の魔力だな。」
「火傷したくないならさっさと逃げなよ!『フレイム』!」
自分を中心に渦巻く魔力を肌で感じながら、呑気にそんな事を言っているサタンに、マティアは言葉だけの警戒をして魔法を発動する。一瞬で魔力は真紅の炎と成り代わり、離れた場所にいるフェルトス達でさえも、その炎から放たれる熱気で汗を噴き出す。一帯を覆っていた草が一気に灰と化し、黒煙となって空中へと霧散し、後には煤けた大地だけが残る。
だが、その煤けた大地に、まだサタンは立っていた。彼自身に火傷の後もなく、服に汚れさえも見当たらない。
「どうした?もう一分が過ぎるぞ?どんどんかかってこい。」
まったく表情を変えず、淡々とした口調でそう言うサタンに、マティアは額を覆っていた汗の下に、新たな冷たい汗を掻いた。自他ともに認めている、人間最強の魔法使いの魔法を受けて、サタンは傷を負うどころか、汗一つ掻いていないのだ。勇者パーティになるまでに、血の滲むような努力をし、ようやくなれた後でも、彼女が鍛錬を欠かす事はなかった。それなのに、そんな自分の努力を嘲笑うかの如く、サタンはそこに立っているのだ。
マティアが僅かに戦意喪失しているのを感じたジェラードは、そんな彼女を励ますように声を掛ける。
「何ぼけっとしてやがる!あの野郎が何かの魔法を使ったに決まってんだろ!?落ち込んでんじゃねえ!」
「そ、そうよね。うん、私頑張るよ!」
そう言いながらも、マティアは気落ちするのを止められなかった。彼は魔力を感知する能力に長けていないのに対し、彼女はそれに長けているのだが、サタンに会ってからこれまで、一度として魔力を感じていない。それはつまり、彼が魔法を使っていないと言う事を示している。先程自分の攻撃が止められた事や、マティアの魔法が効かなかった事も、全て魔法によるものだと思っているジェラードと、そうでないと分かっているマティアが感じる絶望の度合いには、大きな開きがあったのだ。
だが、彼女が感じたのは、絶望だけではなかった。サタンは確かに、恐ろしいほどに強い。だが、魔王であるがゆえの弱点がある。それは、フェルトスの持っている封魔の剣だ。ジェラードや自分の攻撃は受けたサタンだったが、フェルトスの攻撃だけは避けた。ほんの些細な事ではあるが、その事が、如実に彼の弱点を浮き彫りにしていた。おそらくジェラードはその事に気付いてはいないが、フェルトスはそれに気付いているだろう。ならば、ジェラードと自分は陽動に専念し、フェルトスの一撃を届かせる。そうすれば、勝敗は決する筈だ。
マティアは頭の中で戦略を組み立てると、ジェラードの動きに合わせて魔力を放つ。そこまできて、ジェラードもようやく彼女の意図に気付き、ジェラードは前に飛び出す速度を最大限まで上げる。
「喰らいやがれ!」
「ん?」
サタンの目の前にまで接近したジェラードは、急に失速する。だが、それは単に失速した訳ではなく、彼の力の向きが変わっただけだ。サタンに向けられていた拳は、彼の目の前の地面へと標的を変え、そこへと突き刺さり、柱のような砂埃を上げる。いきなり視界を遮られたサタンは、意表を突かれたような顔をするが、すぐにその表情を引き締める。足元に、マティアの魔力を感じたのだ。
「動きたくないなら、動けなくしてあげる!『コールド』!」
地面がまだ持っていた熱は一気に失われ、まるで初めからそうであったかのように、地表には氷が膜を張り、サタンの足の動きを封じ込める。視界を奪われ、足を動かす事も出来ないサタンは、まさに八方塞となったが、彼の顔に焦りは現れない。
そんな、余裕とも取れる態度を取るサタンの後ろへと回り込んでいたフェルトスの封魔の剣が、彼の首へと付きたてられた。だが、彼の首へと突き立てられた封魔の剣も、先程のジェラードの拳同様、何の音を立てる事もなく、ただサタンの首に押し当てられているだけだった。
「そん、な…」
「なるほど。自ら戦いの中に身を置く者の気持ちが、少しは分かる気がする。極限での戦いは、なぜか滾るものがあるな。」
圧倒的実力差。三人がかりで挑み、その結果が、ただサタンを滾らせた程度でしかない。そんな現実を受け止められず、何の策略がないのにもかかわらず、ジェラードはがむしゃらに拳を振った。
「ちくしょう!滾っただぁ!?ふざけんじゃねえ!俺が、俺達がここまで強くなるのに、どれだけ苦労したと思ってやがる!」
振われたジェラードの拳と脚は、何度もサタンへぶつけられる。だが、まるで暖簾に腕押しをしているように、全く音を立ててはくれない。ただただ、風を切る音と、ジェラードの憤りの声だけが空しく木霊した。フェルトスも、ジェラードの体が作った死角から、的確にサタンの急所を斬りつけるのだが、やはり結果は同じで、こちらも風を切る音が鳴るだけだった。
そんな光景を離れた所から見ていたマティアは、原因不明の違和感に襲われていた。
なぜ、サタンは全ての攻撃をかわす事をしないにもかかわらず、フェルトスの初撃だけかわしたのか。考えられる理由としては、フェルトスの初撃だけは、なぜかかわさなくてはならない理由があった、という事だけだ。そして、それはおそらく、フェルトスの初撃の際、またはその後に魔法を何かしら使った事に他ならないのだが、先程から肝心の魔力を、サタンから全く感じない。仮に、サタンが何かしらの魔法を使ったとしても、フェルトスの持つ封魔の剣は、魔法の全てを跳ね返す力を持っている筈だ。
そこまで考えて、やっとマティアが違和感の正体に気付く。
「あ…そっか…!ねえ、二人ともちょっと来て!」
違和感の原因が分かったマティアは、二人を近くに呼び寄せる。それまで、手応えのない攻撃を続けていた二人は、どこか晴れやかな顔をしているマティアの方へと集まる。
「何か分かったのかい?」
「うん。まだ、これは憶測でしかないんだけど…」
「何でもいいから、とっととしやがれ!何もしねえよりはましだ!」
僅かばかり額に浮かんだ汗を拭いながら、ジェラードはマティアを急かす。マティアは彼に急かされ、自分と、向かい合う二人に魔力を向ける。
「お、おい!てめえ、何する気だ!?」
突然仲間に魔力を向けられて、ジェラードは焦った様に警戒態勢を取るが、そんな彼に構わず、マティアは魔法を立ち上げる。
「いいから動かないで!『アンチマジック』!」
マティアの発動した魔法は、かけられる魔法のことごとくを跳ね返す、対魔法用の魔法。精神魔法に対して効果的である半面、その魔法が掛けられている間は、補助魔法や回復魔法の効果がなくなるのが欠点でもある。
身体を強化する魔法なら合点も行くが、こんな状況で、補助効果を打ち消すような魔法を使われ、二人は不審そうな顔をしたが、ある事に気が付き、ようやくマティアの目的を理解する。
「な、何でこれが…!?」
「どうなってやがる?」
二人が見たもの。それは、封魔の剣だった。フェルトスの手に握られたそれには、いつの間にか鞘が被せられて、封魔の効果さえがないどころか、まるで剣の意味さえも為していない、ただの棒と化していたのだ。
「やっぱり!きっと、私達は精神混乱の魔法か何かを掛けられてたんだよ!」
「そう言う事か。だから、魔法を掛けられた事に気付かなかったし、魔力も感じない。それに、鞘に気付く事もなかった。」
「じゃあ、鞘を被せたのは、あの初撃の時か!」
マティアの推理は、遠からず当たっていた。サタンは三人に対し、とある魔法を掛け、鞘がかぶせてある事、そして自分が魔法を使っている事に気付かないようにしていたのだ。そして、ジェラードの言葉通り、フェルトスの初撃をかわしたサタンは、彼を吹き飛ばす直前に、自身の弱点である封魔の剣を封じるため、その刀身に鞘を被せたのだ。
「よく見抜いたな。中々の推理力だ。」
サタンは本当に感心しているのか、それとも極限状態を楽しんでいるのか、どこか嬉しそうな顔をしている。そんなサタンの言葉で振り返った三人の目に、先程までは目に入らなかったものが目に入る。
「な、何あれ!?」
サタンの斜め後方五メートル当たりに、先程まではいなかった一匹の魔物が立っていた。
「ま、魔王様!ばれてしまいましたよ!?どうするおつもりですか!?」
そこに立っていたのは、サタンの執事でもあるデイザーだった。デイザーは三人に見付かると、怯えた様子で体を縮こまらせ、困ったようにサタンの方を見ていた。
「て、てめえ!そいつに俺達を襲わせるつもりだったのか!?」
「いや、そうではない。ただ、この本に従うと、約束事をするには第三者の存在があった方が、何かと都合がいいと書いてあったのでな。」
そう言ってサタンが懐から取り出したのは、『良く分かる魔物帝王学』という題名が書かれた、少し分厚めの本だ。その本は、サタンが魔王の座に戻ってから、メアを放ったからしにして読み耽っていたものだった。
「約束事?」
「ああ。先程したではないか。五分以内に私が一歩も動かなければ、お前達は私を人間の王に会わせる。だが、もし動けば、私の命をくれてやる、と。この者は、その約束事の保証人としてここに置いているだけだ。」
まさか、本当に自分が不利にしかならないような約束を守るつもりだったとは思わず、フェルトス達は当然だが、何も告げられずに連れてこられたデイザーさえも、大きく目を見開いた。
「魔王様!まさか、あんな約束事を、本当に守るおつもりだったのですか!?」
「ああ。約束事をするには、まず自分が約束事を守るべし、とこれに書いてある。」
サタンはそう言いながら、手に持っていた本をひらひらさせていたが、不意に真剣な表情に戻り、唖然としていた三人に向き直る。
「さあ、約束の五分を過ぎた。人間の王に会わせろ。」
「なっ!?ふざけんじゃねえ!てめえが一方的に言いだした事だろうが!それに、戦う前から魔法を使うなんざ反則だ!」
「どうしてだ?約束事の中に、魔法を使わない、とはない。それに、お前の攻撃で始めたのだ。問題あるまい。」
「ぐっ…」
自分から手を出した手前、サタンの言う事に反論できず、ジェラードは鋭い目をしながらも、口を閉ざす。
「だが、確かに私にも落ち度があると言えばある。」
彼の意外な言葉に、やはりこの場にいる彼以外は驚いたような表情をする。
「今私が言ったのは、あくまでも魔物の中での習わしだ。今度は、人間の習わしで約束事をしよう。さあ、条件を言ってみろ。」
意外な提案に、しかしジェラードは不敵な笑みを浮かべる。
「人間の習わしは、強い者が正義だ!」
「あっ!?ジェラード、待て!」
地を蹴り走り出したジェラードを、フェルトスは何とか止めようとしたが、格闘家である彼は、体術だけならばフェルトスよりも優れている。そんな彼を、フェルトスが止められる筈もなく、勢いよく飛び出した彼の拳は、今度こそ鈍い音を立ててサタンへと叩きつけられた。
「どうだ?人間の習わしが分かっ…」
「なるほど。つまり、私がお前達に勝てば、人間の王に会わせると言う事だな。」
「なっ…!?」
だが、サタンはそれから身を守る事はおろか、かわす事さえもしなかった。ジェラードの拳は間違いなくサタンの顔面を捉え、今も尚、彼の顔面に押し付けられている。それでも、サタンは表情一つ変えることなく、拳を突き立てたジェラードを、冷ややかに見つめていた。
「くそっ…!」
一旦ジェラードは距離を置くが、動揺しているのが、傍から見て取れるほどに心を乱していた。先程までの攻撃には、一切の手応えがなかったため、何かタネがあると思い、全く絶望などしていなかった彼だが、今の攻撃は違う。今回の攻撃に関して言えば、ジェラードは完璧な手応えを感じた。それはそうだろう。マティアのアンチマジックのおかげで、彼に対してはいかなる魔法も通用せず、今までサタンがどんな魔法で防いでいたかに関わらず、攻撃が当たりさえすれば、それは有効打となるのだ。
しかし、サタンにジェラードの攻撃は通用しなかった。吹き飛んだり、顔を逸らしたりもせず、表情さえも変えない。ただ、冷ややかな目で、殴ったジェラードを見ていただけだった。そんなサタンを前に、彼は完全に戦意を失った。
しかし、落ち込んでいる彼の尻に、再び蹴りが入る。
「いてぇ!?」
「何落ち込んでんの!?まだ負けた訳じゃないでしょ!私達には、まだフェルトスが、封魔の剣があるじゃない!落ち込むのは、それが通用しなかった時にしてよね!」
小さな体で、二回りは大きな自分を睨み上げてくるマティアを見て、ジェラードは気合を入れ直す。そうだ、自分は何を思いあがっていたのだろう。勇者パーティに入ってから、魔王を倒すまでは決して諦めないと誓い、フェルトスの為に力を付けてきたのだ。自分が魔王を倒せない事ぐらい、分かっていた筈だ。それなのに、勝手に先走り、自分の力が一切通用しないと落ち込むなど、愚かな極みだ。
「おし!フェルトス!てめえのサポートは俺に任せろ!」
「ああ、任せるよ。」
視線を交差させた三人は、それだけで心得たかのように動き出す。ジェラードがフェルトスを隠すように突出し、マティアがサタンへと魔力を放ち、フェルトスは二人の攻撃の隙を縫うように動く。
「いいチームワークだ。」
何処か羨ましげにサタンはそう言うと、真っ先に向かってきたジェラードの拳をかわし、そのまま彼の体へと蹴りを放つ。唸り声を上げて放たれたサタンの蹴りは、何とか体を捻ってかわしたジェラードの体を、その余波だけで、まるで紙屑のように吹き飛ばす。
「『ウインド』!」
マティアは吹き飛びそうになったジェラードの体を、背中から風で押して空中で方向転換させ、再びサタンへと向かわせる。これにはさすがのサタンも驚いたようで、意外そうな顔をするが、ジェラードは大きく振り上げた足を見て、すぐに顔を真剣なものへと戻す。
「避けられるもんなら避けてみやがれ!」
踵落としの要領で振り下ろされたジェラードの足は、超音波のような高音を立て、刹那の時間でサタンへと向けられる。しかし、それもサタンはかわした。サタンにかわされ、目標を失ったジェラードの足は、爆音と立てて地面と衝突し、十メートル四方の地盤を砕いて、先程とは比べ物にならないほどの砂埃を、突風とともに巻き上げる。
「『ノイズ』!」
マティアが魔法名を唱えると、それに続き、耳をつんざくような音が、ジェラードの立てた爆音さえ掻き消す様に響き渡り、まるで地震が起きたかのように地面を揺らす。
「視界と聴覚を奪ったか。」
巻き上がる砂埃と鳴り響き轟音の中、サタンは奇襲してくだろうフェルトスの姿を探す。そして、彼は予想通り、サタンへと奇襲をかけてきた。サタンが見ている方とは逆側から、音も気配もなく忍び寄り、一瞬に近い速さで、構えていた封魔の剣を横へ薙ぐ。この際、剣がサタンの体の、どこへ当たっても良かった。どこかに当たり、それでサタンが僅かでも怯めば、後は畳み掛ける自信があった。
だが、現実は非情だった。
「素晴らしいチームワークだ。だが、私はどうしても人間の王に会いたい。だから、負けるわけにはいかんのだ。」
「そ、んな…」
フェルトスの剣は、盛り上がった土の壁へと突き刺さり、サタンへ届く事はなかった。ジェラードが立てた土埃とマティアが起こした轟音は、確かにサタンの視覚と聴覚を潰したが、同時にフェルトスのそれも奪っており、サタンの周りの地面が盛り上がっている事に、彼が気付けなかったのだ。
封魔の剣を壁から引き抜いたフェルトスは、一旦後ろへと下がり、また戦略を練り出す。
そんな、苦戦を強いられている三人を見て、何か考えついたのか、それまで怯えた様子だったデイザーが、それまで閉ざしていた口を開く。
「貴様らが魔王様に勝てるものか!魔王様の魔法は力を操る魔法だ!」
「力…?」
聞いた事もない種類の魔法に、マティアは不審そうな顔をする。デイザーは、マティアが自分の話に興味を持ったのを確認すると、まるで用意していたかのように語り出す。
「そうだ、力だ!だが、単に力だけを操るのではないぞ!魔力は勿論、認識力までも操れるのだ!」
デイザーの説明を聞き、それでやっと今までの不可解な現象の原因を、マティアは悟った。
ジェラードや、鞘を被せた状態でのフェルトスの攻撃が、音もなく止められたのは、自分に加わる力を失くしたからだろう。衝突する力を失えば、それはただ触れているのと何ら変わりない。地盤に下から力を加えれば、当然地面を盛り上げる事も可能だ。自分の魔法が通じなかったのも、おそらくマティアの魔力を操り、魔法を無効化させていたのだろう。
そして、彼の魔法の何よりも恐ろしいのは、認識力を操れる事だ。サタンはその魔法を使い、自分の魔力に対する認識力、鞘に対する認識力、更にはデイザーに対する認識力を失くし、まるでそこに存在していないかのように思わせていたのだ。
マティアがサタンの仕掛けていた魔法に気付いた事を、デイザーは嬉しく思っていた。彼の狙いは、この場でサタンを殺してもらう事にあった。この場でサタンをフェルトス達に殺させ、彼との戦いで疲労している彼らを片付ける。そして、四人を自分が殺した事にして、魔物と人間を一気に自分の支配下に置こうと考えているのだ。
この事を計画したのは、マティアがサタンの魔法に気付いてからではあったが、自分としては、急ごしらえの計画にしては上出来だと思っており、その計画を進めるために、何としてもフェルトス達に勝ってもらわなければならなかった。
デイザーも、一応は魔王の執事にまで上り詰めた魔物だ。それなりに強くはあるし、勇者パーティの誰かと、一対一では負けない自信もあった。だが、アンチマジックを使えない彼がサタンに勝つ見込みは、ほぼないに等しい。それゆえに、こうしてフェルトス達がサタンに勝てるよう、怪しまれない程度にヒントを与えているのだ。
「さあ、魔王様!早く憎き勇者たちを殺して下さい!」
我ながら、中々堂に入った演技だと思いながら、デイザーは口元が緩まぬよう、サタンを後押しするような声援を送る。だが、そんな彼の計画を破綻させるような事を、サタンが言いだした。
「何を言っている?私は勇者達を殺すつもりはないぞ?」
「え?ま、魔王様……何を言って…」
デイザーは勿論、フェルトス達も少し驚いたような顔をした。少し考えれば、王との仲介役になるフェルトスを、サタンが殺すような事はしないだろうが、その他二人を殺さないのは、さすがにデイザーの計算外だった。急ごしらえの計画がゆえに、考えが甘かったのかもしれない。
だが、そんな事で納得しないのは、ジェラードも同じだった。
「ふざけんじゃねえ!俺達は死んでもお前を王に会わせたりなんかしねえ!お前が死ぬか、俺達が死ぬかだ!」
今度ばかりは、フェルトスやマティアも同意見だった。これだけ危険な存在であるサタンを、王に会わせるわけにはいかない。会わせるくらいならば、死んだ方がましだ。そんな気構えを示すかのように、三人ともがそれぞれに構える。
「害意はない……と言っても、お前達は信用しないだろうな。なら、少し条件を変えよう。これはあまりしたくはなかったが、まあ仕方あるまい。」
「何…?それはどういう…」
「っ!?何、この魔力…!?」
サタンの言葉とともに、途方もないほどの魔力が放たれ、マティアは驚愕を露わにする。
「ぐぇうっ!?ま、魔王…様……!?」
それと同時に、それまで流暢にしゃべっていたデイザーが、急に蛙の潰れた様な呻きを上げ、何か見えない力に押し潰されたかのように、地面に伏せた。潰れたデイザーは、必死な目でサタンを見ているが、目を向けられたサタンは、彼を無視してフェルトス達を見続けている。
「何をした!?」
フェルトスは尋常ならざる光景に、焦ったようにサタンを問いただすと、彼は恐ろしく感情の通らぬ声で、冷ややかにこう言った。
「今、世界の重力を増した。」
「な、に…?」
一瞬、サタンの口走った事の意味する事が分からず、ジェラードは言葉を詰まらせるが、サタンは無機質な瞳で彼らを眺めながら、ただ淡々と口を動かした。
「今の言い方では分からんか?では、もう少し粗暴に言ってやろう。今、世界中の人間の命を握った。殺されたくなければ、人間の王に会わせろ。」
背筋が凍りついた。目の前にいる魔物は、まるで今の天気を語るかのように、本当に何でもない事のように、そんな恐ろしい事を口にしたのだ。
「や、止めなさい!そんな事しても…」
「私は魔物だ。」
「え…?」
慌てて止めようとしたマティアの言葉を遮り、サタンは話が繋がらない事を言い出した。一体、どういったつもりで、そんな分かり切った事を言ったのか分からなかったが、サタンの無感情なその言葉は、彼女に不気味さを感じさせた。しかし、次の言葉を聞き、彼の言わんとしていた事を理解する。
「だから、約束事は守る。もし人間の王に会わせるならば、世界中の人間は助けてやる。だが、会わせなければ、間違いなく世界中の人間を殺す。」
「ま、待って……くだ、さい…!」
脅しに等しいサタンの言葉の後に、彼の後ろで潰れた状態に伏せているデイザーが、苦しそうな声を上げる。
「そ、そんな……事をすれば…我ら、魔物まで…」
「それがどうした?」
「そ、んな…」
絶望したようなデイザーの顔を見て、彼が本気であるとフェルトスは悟った。人間で一番偉い人間を危険な目に遭わせるか、その王も含めた人間すべてを殺されるか。こんな事は、天秤に掛けるまでもなかった。フェルトスは観念し、最後に一つだけ条件を出す。
「………王と会う時に、私達も立つ会う事にしてもいいかい?」
「お、おい!?フェルトス!?」
「ジェラード、こうするしかいないの。」
「くそっ…!」
納得はしていないが、現状手がないという形で落ち着いた三人に、サタンは頷いて見せる。
「問題ない。ただ、私は人間の王と話し合いがしたいだけだ。」
「話し合いの内容、可能なら聞いても?」
「ああ、問題ない。人間と魔物の間で、不可侵条約を結ぶ。」
「なっ…!そ、そんな…」
彼の言葉に、一番大きな反応を示したのは、重力の呪縛から解かれたデイザーだった。今は魔王の執事で甘んじている彼も、いずれは人間も支配下に置こうとしていたのだから、それは仕方のない事だろう。しかし、何とかサタンに考え直してもらおうと、必死に困惑した頭を捻っている彼に、サタンはさらりととんでもない事を言ってのける。
「何か問題があるか?それとも、お前が反逆する際に都合でも悪いのか?」
「な、なにを仰います!そんな事考えてもおりませぬ!」
図星を突かれ、デイザーは表情を隠すように頭を下げるが、サタンにしてみれば、それは滑稽でしかなかった。
「私が気付いていないとでも思っていたのか?」
「な、んの事で……ございま、しょうか…?」
声が掠れていくのを感じながらも、デイザーは必死に取り繕うとしていた。しかし、サタンには、そんなデイザーの事を、全て見透かしていた。
「知っているぞ?お前が私の名を騙り、好き勝手していたのを。まあ、前は特に興味もなかったから、お前の好きなようにさせていたが、これ以降勝手は許さん。それが嫌なら失せろ。」
サタンの言葉に、デイザーは身を震わせた。今まで、サタンを手の平で操っているつもりでいた自分が、実はそう見せられていた道化だと思い知らされたのだ。しかし、そんな屈辱以上に、彼は恐怖に震えていた。そんな事をすれば、普通ならば殺されても文句は言えないのだ。にもかかわらず、自分を殺そうとしないサタンに、デイザーは未知なるものに対する恐怖心を抱いていた。
「あ……ああああああああ!!」
そんな恐怖が理性を壊したのか、それとも何か勝算でもあったのだろうか、デイザーは叫びながらサタンへと突進し、手刀を模した右腕で彼の胸を貫いた。サタンの胸を貫いたデイザーの右腕は、肘辺りまで彼の背中に突き刺さり、胸へ抜けて真っ赤に染まったその先端を、少し離れた所から見ていたフェルトス達へ見せつける。
「なっ!?」
デイザーの行動に、一際大きな反応を見せたのは、ジェラードだった。悲惨な光景を目の当たりにしたジェラードは、デイザーの暴挙に近い行動にも驚いたが、何よりも驚いたのが、彼の腕がサタンを貫いた事だった。
デイザーが何かしら腕に細工したかは定かではないし、もしかすれば、そんな事はせず、ただ単に腕を突き出しただけかもしれない。だが、ジェラードの拳で、動きもしなかったサタンの胸が、確かに貫かれているのだ。それはつまり、ジェラードの拳よりも、デイザーの突きの方が、遥かに威力を持っているという事だ。
貫かれたサタンの胸からは、夥しい量の真っ赤な鮮血が飛び散り、黒いコートを真紅に染めていく。サタンは自分の胸に突き刺さっている腕を一度だけ見下ろすと、まるで機械仕掛けで動いているからくりのように、無機質に首を捻り、自分の後ろにいるデイザーを見た。
「気は済んだか?」
「はぁ…はっ…はっ、はっ、はっ、は、は、は…」
まるで何事もなかったかのように自分を見下ろしてくるサタンの冷たい目に、デイザーは過呼吸に近いほどに息を荒げる。今更になって、自分が何をしたのかを理解したように、デイザーは顔に怯えた表情を張り付け、サタンに突き刺していた自分の腕を引き抜く。一種の栓のような役割を果たしていたデイザーの腕が抜かれ、サタンの胸に空いた穴からは、先程とは比べ物にならない程に大量の血が噴き出る。
だが、サタンがそれで倒れる事もなく、やはり無表情で、その場に崩れるように座り込んだデイザーを見下ろしていた。そして、自分の胸に空いた穴に手を当てると、そこへ魔力を注ぎ込む。
「何よ……それ…?」
ひりつく程の魔力を感じた事もそうだが、サタンの傷が一瞬のうちに消えた事に、マティアは口がからからに渇く。サタンはそんな彼女の視線に気付いたのか、まるで手品の種を明かすかマジシャンのように、今の現象の説明をしてやる。
「再生力を少し上げただけだ。私は回復魔法を使えんのでな。」
事もなげにそう言ったサタンだったが、それは三人に絶望を植え付けるのには十分なものだった。先程までは、まだ自分達の実力不足で勝てなかったと思い上がっていた。だが、今の、サタンにとってはほんの些細なやり取りだと感じているであろう事で、目の前にいる魔物が、まるで違う次元に存在しているのに気付かされたのだ。
一撃。たったの一撃、封魔の剣で致命傷を与えれば、それで勝てると思っていた。だが、胸を貫かれて平然としているサタンが、それだけで絶命する事など、全く考えられない事だった。
そんな三人の様子に気付く事なく、サタンは座り込んでいるデイザーへと歩み寄る。
「で、どうなのだ?」
まるで蛇に睨まれた蛙の様に怯え、動く事さえできなかったデイザーは、そんな恐怖の対象に話しかけられ、両肩を跳ね上げる。
「おい、聞こえんのか?気は済んだか、と聞いている。」
一瞬、何を問われているのか分からず、デイザーの恐怖で引き攣った顔が、少しの間呆けたそれに変わる。だが、その言葉の意味を理解し、ますます彼は困惑する。自分の胸に空気穴を開けた者に対して、気が済んだか、などと聞くなど、寝言でもそんな事はしないだろう。
だが、サタンはそれを問うているのだ。他でもない自分に。もし答えなければ、この場で殺されるような気がして、デイザーは首が千切れんばかりに顔を上下に揺する。
「そうか。では、この後私についてこい。もし来なければ、殺す。」
またデイザーの顔に怯えた表情が浮かび上がり、先程の動きを繰り返す。彼が頷くのを見ると、もう彼に対する興味も失せたのか、サタンは茫然として自分を見ていた三人に向き直る。
「では、礼の件の手配を頼んだぞ。日時や場所も、お前達の好きにしていい。」
「………あ、ああ。分かった。決まったら、すぐに伝えるよ。」
「任せた。」
こうして、魔王と勇者は、今度は人間の王を交えて話し合う事を約束し、広大な平原を後にした。