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魔王道中  作者: amo
本編
10/13

元魔王、戻る

 人目を避けるように宿の中に入った三人は、その最上階の部屋へと通された。先程まで自分がメアに恐ろしい事をされかけていた事も忘れ、リリィは部屋の内装に目を輝かせていた。この部屋は二つ繋ぎの部屋となっており、ベッドはキングサイズ、照明はシャンデリア、更にはベランダ付きと、リリィの想像する貴族の部屋そのものだった。


「わぁ…!すごいすごい!こんな豪華な部屋初めて!」


 リリィは落ち着きなく部屋の中を歩き回りながら、意味があるのかも分からない装飾や置物に触ったりしていた。そんな彼女を見ながら、メアは呆れた様に溜め息をつく。


「サタン様。どうしてこんな人間を召使いにしたんですかぁ?どう見たって身分があってないじゃないですかぁ。こんな部屋でテンション上げるなんてみっともないですよ。」

「そうなのか?」


 メアの愚痴を適当に聞き流しながら、サタンはいきなり服を脱ぎ始める。


「ちょっ!?あんた、いきなり何してんのよ!?」

「もう、サタン様ったらだ・い・た・ん。まだ日は高いですよぉ?まあ、私はいいですけどね。」


 リリィは顔を真っ赤にして叫び、メアはほんのりと頬を染めながら、妖艶な笑みでサタンに近付いていく。だが、サタンはそんな二人の反応に、呆けたような表情で振り返る。


「ん?何を言っている?私は服を着替えるだけだぞ?」

「へ…?」

「お前が言ったのではないか。この服は着てはいけないと。」


 サタンはそう言いながら、たった今自分は脱いだ、ぼろぼろで汚れた服を指差す。


「あ、そっか。じゃあ、私達はこっちの部屋にいるから、あんたは着替えてて。」

「え!?ちょっと!?私はサタン様と一緒に…」

「うっさい!いいから、こっち来なさい!」


 彼の言葉で、今まで忘れていた、彼の薄汚れた服装の事を思い出し、リリィはごねるメアの背中を押しながら、隣の部屋へと移動し、扉を締める。なぜ二人が隣の部屋へ移動したのか分からなかったサタンだったが、取り敢えずリリィの言う通り、以前に買った白いコートを羽織るのだった。

 サタンが着替えている隣の部屋へと移動したリリィとメアは、気まずそうに顔を反らせていた。それはそうだろう。先程まで、メアはリリィに手を掛けようとしていたのだ。初対面という事を差し引いても、笑顔で接するなどという事は、有り得ない事だった。だが、気まずい沈黙に耐えきれず、リリィはおずおずと口を開く。


「あんた、サタンに会いに来たの?」

「ええ。まあ、ちょっと野暮用もあったんだけどね。」


 メアはベッドに腰掛けながら、リリィの問いに答えてやる。


「野暮用?」

「そ。ちょっと知り合いに頼まれてねぇ。まあ、人間のあんたには関係のない話よ。」

「何よ、その言いか…、あ…れ……?」


 つっけんどんなメアの言い方に、リリィが喰い下がろうとして、急に沸き起こった眠気に、リリィはベッドに倒れ込む。メアは倒れ込んだリリィを見下ろし、彼女が完全に眠っている事を確認すると、サタンのいる部屋へと向かう。

 部屋を仕分けていた扉を開けると、純白のコートを身に纏ったサタンが立っており、メアは彼の姿にしばし見惚れていた。サタンはメアが扉を開けると、彼女に一瞥くれた後、ベッドの上で寝息を立てているリリィに目を向ける。


「おい。リリィには手を出すなといっただろう。」

「何もしてませんよぉ。ただ、ちょって眠ってもらってるだけです。あの子には聞かれたくない話しがあるんですよ。」


 メアの言葉を聞き、サタンは片眉を吊り上げる。


「実はですね…」


 リリィの寝ている隣で、二人の会話がしばらく続いた。







 メアに眠らされたリリィが目を覚ましたのは、日が既に落ちた後だった。リリィはメアが何をしたかに気付いておらず、どうして急に眠ってしまったのかが分からなかったが、そんな疑問よりも空腹が先に立ち、宿の食道に三人で向かう事にした。

 宿備え付けの食堂も、やはり壁に華美な装飾が施され、天井からはシャンデリアが幾つも垂れ下がっており、人が何十人いたにもかかわらず、そこを狭いと感じさせないほどの広さがあった。食事は自分の好きなものを好きなだけ食べる、いわゆるビュッフェ式で、テーブルは数十も置いてあった。


「す、すごい…」


 目の前に置かれた、様々な豪華料理を前にして、リリィは眼を瞬かせながら、口をぽかんと開けていた。そんな彼女の姿を見て、メアは呆れた様な顔をする。


「たかがこれだけの料理で何ぼけっとしてんの?言いからさっさと料理取りなさいよ。」


 メアはそう言いながら、自分のトレイに皿を乗せ、好きな料理を次々に取っていく。呆気に取られていたリリィも、それを見てようやく我に返り、名前も知らない料理を、溢れんばかりにトレイに載せていった。

 リリィは乗せた料理が落ちないように、よろよろとメアが座っていた席の方へ向かっていたが、ここである事に気付く。先程まで一緒にいた、サタンの姿が見当たらないのだ。この食堂自体、かなり広いため、どこかに料理を取りに行ったのだろうと思っていたが、メアが座っているテーブルにもいなかったのに気付き、そこで初めておかしいと疑問に感じた。

 メアのサタンに対する依存性から考えて、彼女がサタンの側にいないのはおかしい。有り得ないというほどではないが、違和感を覚えるには十分な要素だった。


「ねえ、サタンは?」

「え?サタン様なら、ちょっと用事があるって、宿を出てったわよ。」

「用事?」


 それなら一言言ってくれればいいのにと思いはしたが、それはそれで、彼を束縛しているような気がしたので、それ以上は何も言わなかった。サタンの事を頭の隅に追いやり、リリィは目の前の、見た事もないような料理に手を伸ばすのだった。







 宿を出たサタンは、路地裏にいると聞いた待ち人を探していた。治安のいいこの街でも、路地裏は閑散として暗く、殆ど人通りはないため、サタンが探していた待ち人は、すぐに見つかった。


「お待ちしておりました、サタン様。」


男はそう言いながら、サタンの前で跪き、深く頭を垂れた。深々と頭を下げているのは、メアと一緒にいた、全身をローブで隠している男だった。


「何の用だ?」


 サタンは男を見るなり、少し不機嫌そうな顔をして、早口に言葉を発する。彼の言葉の端には、さっさと用事を済ませたいという様子がありありと聞いて取れた。そんなサタンの態度に、男は苦笑いしながらも、言われた通り本題へと入って行った。







 結局、サタンが戻ってきたのは、リリィとメアが食事を終えた後だった。サタンを見るなり、リリィは何の用事だったか問おうとして、開きかけた口を閉じた。サタンはいつも通り無表情だったのだが、どことなく刺々しい雰囲気を纏っており、何となくその事に触れない方がいい気がしたからだ。


「サタン、ご飯今から食べるの?」

「いや、いい。元より、私に食事は必要ない。」

「はあああああああああああ!?必要ないってどういう事よ!?」


 さらりととんでもない事を言ってのけた彼に、リリィは周りの貴族たちがこちらに振り返るのも顧みず、大声で叫んでしまう。サタンはそんな彼女を鬱陶しげに見下ろしながら、言葉の意味を説明してやる。


「どういうも何も、私は物を食べなくてもいい、という意味だ。」

「あんた、餓死とかしない訳!?」

「ああ。別に必要でもないが、美味い物を食べたいとは思う。端的に言えば、娯楽や趣味の一種だな。」


 前から分かってはいたが、改めてサタンが別の生き物だと思い知らされ、リリィは絶句する。だが、そこでふと思い当った事がある。そして、それはリリィの気に障るものだった。


「………あんた、物を食べないでいいなら、何でもっと早くに言わなかったのよ?」


 何処か不機嫌そうな、剣呑なリリィの声を聞き、嫌な予感のしたサタンは咄嗟に身構える。彼の予感は当たっており、次の瞬間、リリィの顔にうっすらと浮かんでいた笑みは消え、鬼の形相が浮かび上がる。


「あんたと出会った日に、私達がどれだけ貧乏だったか覚えてる!?それなのに、娯楽や趣味の為にお金を使ったって事!?ふざけんじゃないわよ!」

「ぶはっ!?」


 リリィの長い前口上の後、サタンは彼女の右拳に顔面を強かに打ち抜かれ、そのまま空中で一回転し、顔面から床に衝突する。


「ちょ、ちょっと!?あなた、サタン様に何やって…」

「うっさい!こいつが悪いのよ!たった千円で、あの物価が高い街で生計を立てるのがどれだけ大変だったと思うの!?」

「え、えっと…」

「こんな場所に慣れてるあんたには、絶対に分からないでしょ!たった200Gのサラダを買う決心を固めるのに、私がどれだけ苦労したのか!」


 初めて見るリリィの剣幕に、さすがのメアも勢い負けし、顔を引き攣らせながら後ずさりする。周りの貴族達は、リリィが叫ぶ言葉の内容を聞き、そのあまりに不憫な境遇に涙を流し、目元をハンカチで押さえている者までいた。そんな周りの状況に気付かないリリィは、この後もメアに自分がどれだけ貧しい事で苦労していたかを叫び、まわりのギャラリーを泣かせ続けた。

 息切れするほど叫び続けた後、ようやくリリィが周りの状況に気付き、顔を真っ赤にさせた食堂を飛び出す事で、それまで続いた彼女の独壇場は、やっと終わりを告げた。そんなリリィの後にサタンとメアは続き、また最上階の部屋へと戻っていくのだった。


「もう!周りが見てるの知ってたら、早く教えてよ!」

「あの時のあなたに何を言っても無駄だと思ったのよ。だって、すごい勢いだったじゃない?」

「うっさい!サタンのせいよ、サタンの!」

「なぜ私のせいなのだ?私は関係なかっただろう?」

「ぅ…そ、そうだけど…」


 思い出すだけで顔が熱くなるような失態の責任を、つい癖でサタンに擦り付けようとするが、意外にも正論で返してくる彼に対して、リリィは何も言い返せなくなってしまう。


「あはっ。サタン様に責任転嫁しようとして失敗してるぅ。」

「うっさい!だいたいあんたもねぇ、きゃっ!?」

「ぅわわっ!?」


 自分をからかってくるメアに、きっと鋭い目を向けたリリィだったが、そんな彼女の言葉を遮るように、轟音とともに大きく地面が揺れる。リリィはその揺れに対応できず、その場に尻餅をつき、メアも足をよろつかせる。その部屋で、唯一サタンだけが微動もせず、音のした方に顔を向けていた。


「もう、急に何なのぉ?」

「サ、サタン……これって、もしかして…」

「ああ。おそらくお前の考えている通りだ。」


 尋常ならざる状況に置かれ、リリィが思い出したのは、この街に入る前に見た、あの刀傷だった。音が聞こえた方向は、あの壁からかなり距離がある。その事を鑑みると、リリィでもその魔物がいかほどの強さが分かる。

 そして、そんな魔物が街に襲いかかってきているという事で、リリィは縋るような目をサタンに向ける。彼女の視線を向けられたサタンは、その意味に気付き、ひどく面倒臭そうに、しかし諦めたように長々と溜め息をつく。


「これはボランティアじゃないのか?」

「で、でも…」

「はぁ……分かった。行けばいいのだろう?」

「行くって、どこに行くんですか?」


 会話を終えて、部屋を出ていこうとしていたサタンの背中に、メアは声を投げ掛け、声を掛けられた彼は彼女に振り返る。


「この騒動を起こしている者を退治しに行くのだ。」

「え?何でサタン様がそんな事するんですか?」


 メアが何気なく言った言葉に、リリィは背筋が凍る思いだった。もしメアがサタンに、今まで彼に話していた事が嘘だと話されてしまえば、この場で自分が殺されてもおかしくない、と思ったからだ。だが、そんな彼の口から出た言葉に、リリィはしばらく呆ける事になる。


「リリィが行けと言うからな。仕方あるまい。」


 今まで、サタンはこういう時、人間なら当たり前だから仕方ないと言ってきたのに、ここで自分に名前を出され、リリィは目を丸くする。彼女が目を丸くしているのを見て、サタンは不審そうな顔をする。


「何だ?行かない方がいいのか?」

「え?あ、ううん!行く!」


 サタンの気分が変わらない間に行ってしまおうと、リリィは彼の腕を取って少し早歩きで部屋を出ていく。


「ああ!?ちょっと待ってよ!私の行くわよ!」


 二人が出ていくのを、しばし呆然と見送っていたメアは、慌てて二人の後を追った。







 街は既に厳重体勢となっており、街と外の世界を唯一繋げている門は、頑丈そうな鉄製の扉が下りていた。門の前には、警備隊と思しき、武装した集団がひしめき合っており、とても近寄れそうになかった。


「ふむ。私の出る幕ではなさそうだが、やはり行った方がいいか?」


 サタンの問い掛けに、リリィが頷くのと同時に、再び轟音が鳴り、地面が更に大きく揺らす。また尻餅をつきそうになっていたリリィを支えながら、サタンは門の向こうにいるのであろう魔物の気配を探る。その魔物の放つ気配は、彼が感じた事のあるものだった。


「サタン様ぁ。本当に魔物退治なんかするんですかぁ?放っときましょうよぉ。」


 そんな二人が、少し抱き合っているような姿を、後ろからつまらなそうに見ていたメアが、面倒臭そうにごねている。


「いやなら宿で待っていろ。すぐに済む。」


 サタンはそう言いながら、リリィを横抱きにする。周りの人込みの視線は、全て門の方へ向けられている上、夜で暗くなっていたため、誰もそんな彼の姿を見てはいないが、抱き上げられたリリィに、そんな事に気付く余裕はなかった。


「ななななな、なになになに!?何するの!?」

「飛ぶから、しっかりつかまっていろ。で、お前はどうするのだ?」

「はぁ。サタン様が行くなら、私もついていきますよぉ。」


 メアは肩をすくめながら、それまでコートで隠していた、彼女の体にはいささか小さい翼をはためかせる。サタンも羽音を立たせながら、空高く舞い上がり、そのまま魔除けの壁を乗り越え、壁の向こうへと舞い降りる。

 壁の向こうにいたのは、右手が鋭い刃となっている魔物で、顔はオオカミのようであり、体はゴリラのように肉付きが良く、紫の体毛で全身を覆われていた。その魔物の姿を見て、サタンはやはり昔見た事のある魔物だと知り、リリィを脇に下ろしながら、その魔物を見据える。


「久方ぶりだな、ブレイカ―。」

「貴様は…サタンかっ!?」


 声を掛けられた魔物、ブレイカ―はサタンを見るなり、真紅の目を大きく見開き、その後口元を歪める。


「もう十年以上は会ってなかったな。」

「げっ!?ブレイカ―!?何であなたがこんなとこに!?」


 魔物の姿を見た途端に、メアは驚きとともに、嫌そうに顔をしかめる。すっかり置いきぼりを喰らっているリリィは、訳も分からずにおろおろしているが、それに気付いたメアが説明してやる。


「あそこにいるのはブレイカ―って言う魔物なんだけど、魔物の中でもはみ出し者でね。」

「はみ出し者?」

「そ。ちょうどサタン様が魔王になった直後に、無謀にもクーデターを企てた魔物なの。」


 そんな事があった事など微塵も知らなかったリリィは、驚いてサタンの方を見る。だが、サタンは片時もブレイカ―から目を離す事はなく、彼と目が合う事はなかった。


「先代の魔王様も強かったけど、多分ブレイカ―の方が上ね。二百年くらいは権力には興味も持たないような魔物だったんだけど、多分気紛れにクーデターを起こそうと思ったのね。それを、サタン様が止めたのよ。」

「気まぐれにクーデターって………それに、前の魔王よりも強いなんて、そんな魔物がいるの?」

「例外ってやつよ。ブレイカ―は別名、破壊神って魔物からは呼ばれてるの。王よりも強かったから神ってわけ。」


 メアの説明を聞き、リリィは目の前にいる魔物を改めて見る。体は人間と変わらない大きさだったが、やはり目を引くのが右手の代わりの、銀色に鈍く光る刃だった。後ろを振り返れば、鉄製の門には新しい傷が出来ており、やはりその周りにはひび割れがなく、ブレイカ―がこの街を襲っていた犯人だというのは明白だった。


「おい。街の人間が迷惑している。今後、この街には立ち寄るな。」

「おいおい、サタン様よぉ。人間連れて、正義の味方ごっこか?」


 ブレイカ―は皮肉交じりにそう言うと、一息にサタンへと間合いを詰めてくる。サタンは眼前に迫る刃を、首を軽く捻ってかわす。だが、ブレイカ―の狙いは、サタンではなかった。彼の狙いは、サタンの後ろに立っていたリリィだった。ブレイカ―の姿を視認する事が出来ていない彼女に向けて、ブレイカ―は刃を突き出す。目の前に突き出された刃に、リリィは反応すらできない。それほどまでに、ブレイカ―が速いのだ。


「てめえが連れてる人間だ!さぞかし大事なんだろうな!」


 ブレイカ―の声と同時に、何かが斬れる音がし、闇夜に血飛沫が舞った。


「なっ…!?」

「え…?」


 ブレイカ―が目を見開き、次いでリリィが声を漏らす。ブレイカ―の刃はリリィの脇腹を掠め、彼女の内臓すれすれの所で止められていた。刃が止まった理由は、その刃の中程にあった、サタンの右手だった。

 一瞬呆けていたブレイカ―だったが、すぐに我に返り、彼の手を振りほどいて、大きく後ろへと跳躍する。刃が抜けたリリィの脇腹からはじんわりと血が流れ落ち、刃を止めたサタンの手の平からは、勢い良く血が噴き出した。


「おい。大丈夫か?」


 サタンは大きく飛び退いたブレイカ―から目を逸らし、リリィの方へと振り返る。サタンは自分の傷もそっちのけで、リリィの脇腹へと目を落とす。


「っ…!だ、大丈夫…!」


 ようやく痛みがリリィの脳へと伝わり、少し苦しそうな顔をしていたが、サタンがそこに手を当てると、すぐに痛みが消え、彼の手が離れた時には、既に傷が消えていた。


「あ、あれ…?」

「メア。リリィを連れて、後ろに下がっていろ。」


 サタンは自分の手の傷も治しながら、またブレイカ―へと視線を戻す。メアは言われた通り、リリィを連れて後ろに下がっていくが、リリィは慌てた様子でメアの方を見る。


「ね、ねえ!あんたは手助けしないの!?」

「したくても出来ないのよ。ブレイカ―は、状態異常魔法が効かないから。私達夢魔は、相手に『ドリーム』が効かないと、何も出来ない魔物なの。」


 メアの言葉を聞き、リリィはサタンの身を案じる事しか出来ないと、歯痒い思いだった。今まで旅をしての数日間、サタンが血を流す事など初めて見た。あの勇者パーティである、ジェラードと戦った時でさえ無傷であった彼が、すぐに治る程度とはいえ、傷を負ったのだ。何となく胸騒ぎがして、リリィは心配そうに彼の後姿を見つめた。


「人間を随分と庇うじゃねえか。驚いたぜ。」


 ブレイカ―は言葉通り、サタンが人間であるリリィを、身を呈して庇った事に驚いていたが、それ以上に驚いていた事があった。それは、自分の刃が止められた事だ。

 切れ味だけに関しては、おそらくこの刃が世界で一番だと、ブレイカ―は自負していた。勿論これは驕りではなく、これまでに幾重にものを斬りつけてきたが、刃こぼれはおろか、手入れすらもしていない。それでも、切れ味が落ちる事はなかったほどだ。だが、サタンはその刃を手で握って止めたのだ。それは言い換えれば、それだけの摩擦がこの刃に掛かったという事になる。今まで斬れないものなどなかった刃に、それだけの摩擦が掛かるなど、普通ではありえないのだ。

 だが、現実として、自分の刃は止められ、殺そうと思っていた人間が生きている。これは、ブレイカ―にとって憂慮すべき事態だった。

 しかし、まだ勝負の勝敗が決まった訳ではない。現に治したとはいえ、サタンに傷を負わせる事は出来たのだ。前回戦った時は、傷一つ付けられずに、辛酸を舐める事となったが、それ以来力を付け、その彼に傷を負わせる事が出来たようになったのだ。ブレイカ―はそんな、自分の進歩を確信し、にやりと口元を歪めた。


「どうだ?初めて味わう俺の刃の味は?」

「味?舐めてなどいないから、そんなものは分からんぞ?」


 ふざけているのか、それとも本当にそう思っているのか、サタンの真面目な言葉を聞き、ブレイカ―はこめかみをひくつかせる。そして、再びサタンに向かって突進していく。


「てめえを殺して、俺が魔王になってやるよ!」


 今度はブレイカ―も、本気で刃を振り下ろす。先程は、人間を殺そうとしていただけなので、それほど力を込める事もなかったが、今度はそうではない。異様な風切り音とともに、白銀の刃が、サタンに向けて振り下ろされた。


「お前、リリィに手を出そうとしたな。」

「ぎっ!?」


 そんな、恐ろしく冷たい声が聞こえたのは、左側頭部に激しい衝撃を受けたのと同時だった。鈍い音が周りに響き渡るのと同時に、ブレイカ―の体は横に吹き飛ぶ。一瞬何をされたのかも分からなかったブレイカ―は、しかしすぐに頭を襲った激痛に、ようやく自分がサタンに殴られたのだと気付く。

 たった一撃。たったの一撃で、自分とサタンの実力差を思い知らされた。サタンが、自分を殴ろうとしていた事にさえ気付けなかった。それほどまでの速さだった。

 だが、本当の絶望は、この先にあった。


「がっ、は…!?」


 右半身を襲う、いきなりの衝撃。そこに何かあったという訳でもないのに、何かにぶつかったような衝撃をブレイカ―が襲い、吹き飛ぼうとしていたブレイカ―の体は、サタンの前で無理矢理止められる。急に体が止まった事に戸惑いながらも、ブレイカ―は本能的に目の前にいるサタンに、再び刃を突き出す。

 もしもこの時、サタンに対峙していたのが別の生物ならば、もしくはブレイカ―に危機察知能力があとほんの少しだけ備わっていたならば、なりふり構わず一目散に逃げ出していただろう。だが、ブレイカ―は強過ぎた。それゆえに、危機察知能力が鈍っていたのだ。そして、その危機察知能力が反応した時には、既に手遅れとなっていた。


「がっ、ごふっ、づッ、がぁ、ぁ、…っ、…!……!…………!」


 分厚い門の向こうにまで鳴り響く鈍い音と、それに次いで響く、それとは違う種類の鈍い音、そして、その合間に聞こえるブレイカ―の呻き声。先程と同様に、だがその数は圧倒的に多い、サタンの拳と、原因不明の、殴られた反対側からの衝撃。一秒と経たない間にサタンの両拳は、黄色いブレイカ―の体液で染まり、彼の顔も瞬く間に膨れ上がっていく。

 そして、ブレイカ―が声さえも上げられなくなってから、ようやくサタンが動きを止め、それに続いて、それまで左右に揺れていたブレイカ―も動きを止め、その後にゆっくりと前のめりに倒れ込む。

 数秒の間に、原形すら留められない程に殴られたブレイカ―の姿は、悲惨の一言だった。倒れた今でも、腫れて裂けた皮膚と口から黄色い体液を流し続け、その黄色い水溜りを広げている。

 サタンは倒れたブレイカ―を、冷たい目で見下ろしながら、無言で彼の胸倉を掴み上げる。掴み上げられたブレイカ―は、何とか意識を保っていた。いや、正確には、サタンがわざと意識を保っていられるように手を抜いたのだ。今後、絶対に自分には向かってこないように、ブレイカ―の心にこの記憶を刻みつけるために。

 そして、サタンがブレイカ―の心を完全にへし折ろうとしたその時、不意に後ろから誰かに抱きつかれる。サタンの振り返った視線の先には、ひどく怯えた様子の顔をしたリリィがいた。後ろからサタンに抱きついた、というよりもしがみついていたと言った方がいい状態の彼女は、何か言おうと口を開いてはいるが、青白い唇がふるふると震え、上手く言葉を発せずにいる。


「どうした?何をそんなに怯えている?」


 サタンは出来るだけ優しい声色を意識してそう問うが、リリィはただ首を横に振っているだけだった。サタンはしばらくそうしていたが、リリィが怯えている理由に思い至る。


「ああ、そうか。」


 リリィから目を離し、拳を振り上げるサタン。そして、リリィが止める間もなく、何かが弾けるような音がし、そこにあった筈のブレイカ―の頭が消し飛んでいた。ブレイカ―の体は頭が潰された瞬間、びくりと一度だけ痙攣し、その後脱力し、今度は後ろへと崩れ落ちる。


「リリィ、もう怖がる事はないぞ。こいつは今死んだ。」


 サタンはそう言ってリリィの方に顔を向けるが、振り返った彼の顔に、彼女の張り手が当たる。なぜ叩かれたかも分からないサタンは、混乱してリリィを見下ろすが、リリィは目に涙を浮かべながら、自分を見下ろしてくるサタンを睨み上げる。


「何で殺したの!?あそこまでしなくても良かったでしょ!?」

「いや、しかし…」


 そこまで言って、リリィの体がまだ震えている事に気付き、ようやく彼女が自分に怯えているのだと、サタンは悟った。


「え…?」


 それまで恐怖で震えながら、サタンの事を責めていたリリィは、彼に怖がっているのも忘れて、なぜか自分がとんでもない事をしてしまったような気がした。サタンの顔が、悲しげな表情を浮かべていたからだ。今まで、面倒臭そうな表情や、鬱陶しげな表情などは見せていたが、ここまで感情が込められた彼の顔を見るのは、リリィにも初めてだった。

 だが、サタンはすぐにその表情を引っ込めると、リリィをまた横抱きにし、少し後ろで控えていたメアに声を掛ける。


「メア、宿の荷物を持ってこい。」

「え?あ、はい。」

「サ、サタン?どうしたの、急に?」


 突然の事に、リリィは何をどうしていいのか分からず、おろおろとしてサタンを見上げるが、彼は彼女とは目を合わさずに、無言で飛び立つ。







 夜空の暗闇の中、メアと合流したサタンは、その後も無言で飛び続け、とある場所へと降り立つ。見覚えのあるその場所を見て、リリィはますます困惑を深くする。


「え?ここって……私の家…?」


 三人が降り立った場所は、数日前に旅立った筈のリリィの家の前だった。なぜこんな所にサタンは来たのか、リリィは訳も分からずにサタンを見上げると、彼は急に服を脱ぎ出す。


「なっ!?あ、あんた、いきなりこんな所で何やってんのよ!?」


 もう村の人々は寝静まっているのか、光は月明かりしかなかったが、それでも野外で服を脱ぎ出したサタンに、リリィは顔を背けながら叫ぶが、サタンはそれに構わず脱衣を続け、自分が先程脱いだ、黒く汚れた服を着直す。


「サタン。だから、その服は…」

「もういい。」

「………え?」


 急に言葉を遮られ、リリィは丸い目を更に丸くする。そして、言葉の意味が分からずに、もう一度その意味を問いただそうとするが、それよりも先にサタンがまた口を開く。


「もう、人間の振りをするのは止めだ。私は…」


 サタンは少し言葉に詰まり、そのわずかな間に、リリィは彼の次の言葉の予想ができ、彼がその予想を、いつものように裏切ってくれるように期待する。だが、サタンの言葉は彼女の予想に沿い、希望を裏切るものだった。


「私は魔王に戻る。」


 そう言うサタンの背中には、いつの間にか三メートルはあろうかという黒い羽が現れ、全身に漆黒の呪詛が浮き上がり、額には角が生えていた。その姿は、紛う事なき魔王のそれだった。


「え?サ、サタン…?じょ、冗談で、しょ…」

「冗談ではない。お前は……解雇だ。」


 サタンはそう言うと、リリィが何か言いだす前に、メアとともに夜空へと姿を消した。残されたリリィは、突然の事に悲しさで胸を覆われ、一晩中その場で泣き崩れていた。

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