餓死寸前の私の代わりに宰相が勝手に喋り始めました
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
ハザド公国の第一王女である私、アンジェリカ・ハザドが、オーランド王国の国王フリッツ・オーランドの正妃としてこの国に嫁いできたのは、十八の春のことだった。
「共に歩んでほしい、アンジェリカ。君と一緒なら数ある困難にも立ち向かえると思う」
結婚式の日、真摯な瞳でそう語りかけてくれたフリッツの手の温もりを、私は今でも覚えている。
政略結婚ではあったものの、私たちは互いを一人の人間として尊重し合い、確かな信頼関係を築いていたはずだった。
けれど、穏やかな協力関係が崩れ始めたのは、結婚から一年が過ぎた頃。
彼の背後に、ある女性の影が見え隠れし始めたのだ。
ララーナ・ハッセ伯爵令嬢。
小柄で華奢な体に今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気を纏い、守ってあげたくなるような愛らしさで男性の庇護欲を掻き立てる彼女の噂は、瞬く間に社交界へと広まっていった。
ハッセ伯爵家は近頃、鉱山事業で急激に力を伸ばしている新興貴族。
成り上がりの彼らが更なる権力を欲し、娘を使ってフリッツの寵愛を勝ち取ろうと必死になっているのは明らかだった。
――正妃である私を蹴落として、自分がその座に収まるつもり?
あまりにも無謀で愚かな企みだと、最初は失笑すら覚えた。
フリッツと私の絆はそんな浅いものではないという自負もあったし、何よりハザド公国とオーランド王国の良好な同盟関係を支えているのは私という存在があってこそ。
それは誰もが知る事実。
だから私はそこまで深く考えてはいなかった。
しかし、新興貴族の金に物を言わせた工作と、彼女の天真爛漫な演技は、想像以上に王宮の根を侵食していたらしい。
変化は、恐ろしいほど静かに始まった。
「申し訳ございません、王妃様。侍女が急病で相次ぎ、本日の手伝いは人数が少なく…」
そんな言い訳と共に侍女たちが一人、また一人と私の元を去っていった。
次に、部屋を飾る生花が消え、夜を照らす燭台の蝋燭が細くなり、掃除すらされなくなった。
毎日のテーブルを彩っていた色鮮やかな料理は品数が減り、やがて銀の食器は欠けた陶器へと変わり……いつの間にか、私の周囲からは一切の人の気配がなくなっていた。
誰も来ない、何も届かない。
冷え切った王妃の離宮で、私はただ一人、取り残された。
最後にまともな食事を口にしてから、すでに三日以上が過ぎている。
カサカサに乾いた唇を舐め、重い瞼を開けると、部屋の入り口の床にぽつんと置かれたお盆が視界に入った。
先ほど、扉の隙間から誰かが押し込んでいったものだ。
そこに載っていたのは、石のように固い黒パンがたった一つ。
水すら、添えられていない。
(……これは、なに? もう大人しく餓死してくれって言っているわけ?)
思わず、喉の奥で乾いた笑いが漏れた。
呆れを通り越して、冷ややかな怒りが腹の底から湧き上がってくる。
ハッセ伯爵家とララーナが仕掛けた浅薄な嫌がらせなのか、それともフリッツ自身がこれを見過ごしているのか。
どちらにせよ、彼らは決定的なことを見落としている。
公国からの輸入資源に依存しているこのオーランド王国で、第一王女である私を害することが何を意味するか。
ハザド公国との交易が完全に途絶えたとき、この国がどれほどの破滅を迎えるか、まさか考えてもいないのだろうか。
「……バカバカしい」
文句の一言でも言いに、今すぐ執務室へ怒鳴り込んでやりたい。
けれど、カラカラに乾いた喉ではまともな音にならず、弱り切った体に力を入れることすら叶わない。
私は深く溜め息をつき、冷たい床に崩れ落ちる体を預けながら、静かに目を閉じた。
次に意識を取り戻したとき、視界に映ったのは見慣れた天井だった。
冷たく硬い床ではなく、柔らかいマットレスと羽毛布団の感覚。
誰かが私をベッドへと運んでくれたらしい。
(……生き延びちゃったか)
ぼんやりとした頭でそう思った直後、周囲の騒がしさに気づいた。
私のベッドを取り囲んでいるのは、見知った顔ばかり。
このオーランド王国の国政を担う重鎮、大臣たちだ。
誰もが青ざめた顔で、ひそひそと、けれど血相を変えて議論を交わしている。
(ふふ、そりゃあ焦るわよね……王妃殿下が餓死寸前でした、なんてバレたら)
ハザド公国の第一王女が、嫁ぎ先の王宮で餓死しかけていたなんて噂が外部に漏れれば国際問題どころの話ではない。
公国からの資源供給は即座に停止、最悪の場合は戦争だ。
彼らが青ざめるのも当然と言えた。
そんな混乱の最中、私の耳に信じられない言葉が飛び込んできた。
「……チッ、そのまま餓死しとけばいいものを……」
ごく小さな声だった。
けれど、確かに私の耳には届いた。
声を辿ると、そこにいたのは苦々しい顔で私を見下ろすハッセ伯爵だ。
(……は? 今、なんて言った?)
呆れを通り越して、強烈な殺意に近い怒りが腹の底から湧き上がる。
私は気力を振り絞り、重い腕をどうにか持ち上げると、震える指先でハッセ伯爵をまっすぐに指さした。
(ちょっとあなた、ふざけないでよ……!)
文句の一つでも叩き込んでやろうとしたものの、声にならない。
舌すらまともに動かないのだ。
もどかしさに歯噛みした、その時だった。
すっと、私の顔に影が落ちた。
「そのまま餓死? なんと無礼な。不敬罪で即刻牢獄入りですよ! ……と、王妃様はおっしゃっておられます、ハッセ伯爵」
響いたのは、凛とした涼やかな声。
動揺したハッセ伯爵が露骨に狼狽える。
「そ、そんなこと言っておらん! 滅多なことを言うな!」
「そうでしたか? ですが不思議ですね、私の耳にもはっきりと貴殿の声が聞こえておりましたが?」
私とハッセ伯爵の間に割り込んできたのは、この国の若き宰相、リカルド・グリーン侯爵だった。
整った容姿に似合わぬ苛烈な手腕で知られる男だが、今は私のすぐ横で、ハッセ伯爵を冷ややかな眼光で射抜いている。
(……え、私そんなこと一言も言ってないけど……まぁ、思ったことを完璧に代弁してくれたから良しとしよう)
私は小さく、でも満足気に頷いておいた。
その時、バタン!とけたたましい音を立てて部屋の扉が開いた。
息を切らせて飛び込んできたのは、私の夫であり、この国の国王であるフリッツだった。
さすがに「王妃が餓死寸前」という報せを受けたら、どれほど愚かでも駆けつけてくるらしい。
「アンジェリカ! 大丈夫か!?」
駆け寄ってくるフリッツ。
けれど、今の私には返事をする気力すらない。
無言で彼を見つめ返していると、再びリカルド宰相の影がすっと差し込んできた。
リカルドは私の口元に恭しく耳を近づけ、あたかも私が虫の息で密かに囁いている声を拾っている……という『体』を取り始めた。
「……なるほど。……ゴホン」
リカルドは居住まいを正すと、フリッツに向き直り、感情を削ぎ落とした声で言葉を発した。
「『まあ、心無い心配など不要ですわ。あなたも私に餓死して欲しかったのでしょう?』」
「なっ……!? そ、そんなこと思う訳が……!」
フリッツが激昂しかけた瞬間、リカルドは間髪入れずに私の口元へ耳を寄せ、再びフリッツを凝視した。
「『……彼女を引き連れておいて、説得力がありませんわ!』」
フリッツがギョッとして後ろを振り返る。
彼の背後には、おどおどとした様子でフリッツの上着の裾を握りしめたララーナ・ハッセ伯爵令嬢が隠れるように立っていた。
まさかこんな重臣ばかりの場についてくるとは思わなかったのだろう、フリッツの顔が見る見るうちに蒼白になっていく。
リカルドは容赦なく『代弁』を続けた。
「『彼女との愛に、私は邪魔者ですものね。食事を満足に出されなかったのは、お二人の計画かしら?』」
「食、食事……? 何を言っているんだ、私は何も……!」
「『見て分かりませんか? 私は餓死寸前ですのよ』」
言葉を失うフリッツ。
何も言えないのは当たり前だ。
現に彼の目の前にいる妻は痩せこけ、力なくベッドに横たわっているのだから。
リカルドは最後に、視線をフリッツの後ろにいるララーナへと向けた。
冷徹極まりない笑みを浮かべて。
「『ララーナ様、これで満足かしら? それとも、私はこのまま大人しく餓死した方がよろしくて?』」
「ひっ……!」
ララーナは短い悲鳴を上げ、ハッセ伯爵の背中へ逃げ込むように退いた。
(……すごいわね。私、一言も喋ってないのに、どんどん話が進んでいくわ)
ベッドの上で身動き一つ取れない私は、目の前で繰り広げられる「リカルド劇場」を、他人事のように感心しながら眺めていた。
「アンジェリカ、落ち着いてくれ! 誤解なんだ! 私は君を粗末に扱うつもりなんてなかった!」
フリッツが青ざめた顔で手を伸ばそうとする。
リカルドはすっと私の前に立ち、フリッツの手を遮るように私の口元へ耳を寄せた。
「『誤解? 三日以上食事が与えられず、やっと届いたのが石のように固い黒パンひとつ。これが国王陛下の“粗末に扱わない”基準なのですか?』」
「くっ……それは、誰かが勝手に……!」
「『王宮の、それも妻が住む離宮さえ管理出来ないお方に、国が治められまして? ハザド公国の父が聞いたら、なんとおっしゃるか……』」
国王の無能さをチクリと刺され、大臣たちの顔色がさらに悪くなる。
「『私、このまま王城にいるのは御免ですわ。……餓死の次は手っ取り早く、食事に毒でも盛られるかもしれませんもの』」
リカルドは私の口元から耳を離すと、さも深刻そうにそう宣した。
「そ、そんなこと、ある訳が……!」
フリッツが悲鳴に近い声を上げて慌てふためく。
「『一度死にかけたのですもの。もう誰も信用出来ませんわ! ……死人に口なし、と言うでしょう?なんて恐ろしい!』」
(……本当にすごいわね、リカルド。でも何かしら、その微妙に私の声真似を取り入れた鼻につく演技は。地味にちょっとムカつくわ)
ベッドの上で静かにしている私は、心の中で冷ややかにツッコミを入れた。
しかし、リカルドの怒涛の自作自演は留まることを知らない。
「『ハザド公国へ、帰らせていただきます』」
その一言がリカルドの口から発せられた瞬間、周囲を取り囲んでいた大臣たちが「ひぇっ……!」と悲鳴を上げ、パニックに陥った。
公国からの輸入資源が途絶えれば、この国の経済は数ヶ月で立ち行かなくなる。
それが現実味を帯びて突きつけられ、流石のハッセ伯爵も青ざめた顔で己のやり過ぎを悟ったようだった。
「ア、アンジェリカ、頼む! そんなことは言わないでくれ!」
フリッツがなりふり構わず私に縋り付こうとする。
「私の名にかけて、そなたの安全は絶対に保証する! だから……!」
「『……あなたが一番、信用出来ませんのよ』」
リカルドの冷徹な声が、フリッツの言葉を容赦なく遮った。
「『私がこれほど惨めな目に遭っているというのに、犯人を捕まえる気配すら見せない。……これはもう、国王陛下自らが私を始末したがっていたと受け取られてもおかしくありませんわね?』」
(……リカルド、一国の国王に向かってそこまで言っちゃうんだ。……でもまぁ、聞いていてスカッとするわね。今までの事を思うといい気味!と感じるわ)
フリッツはまるで顔面を殴られたかのようにショックを受け、言葉を失い、呆然としている。
その様子を、リカルドはフッと冷たい笑みを浮かべながら見下ろしていた。
そして、彼は急に私へと視線を戻し、真顔でこう続けた。
「『……この中で唯一信用出来るのは、私の代弁をしてくださっているリカルド様だけですわ』」
(……ん??)
突如として自分自身を持ち上げ始めた宰相に、私は思わず目を見張った。
「『リカルド様なら、私を害したりなさらないわよね?』――ええ、もちろんでございます、王妃様」
前半はわざとらしい私の声真似、そして後半は私に向かって恭しく頭を下げ、甘く響く素の地声で言う。
一人二役を見事に演じ分けていた。
(……この人、冗談の一つも言わないような顔して、こんなに芸達者だったの!?)
驚愕する私を余所に、リカルドはどこまでも自然な動作で微笑みかけた。
「王妃様、犯人が捕まるまでの間、我がグリーン侯爵家へ滞在なさいませんか? 我が家であれば、何人たりとも貴女様を傷つける者などおりません。安心してお過ごしいただけます」
そう言うと、彼はまたしても白々しく私の口元へと耳を近づけた。数秒の沈黙の後、彼は満足げに頷く。
「『分かりましたわ、リカルド。お世話になります』――承知いたしました」
(ちょっ…!私、何も言ってない……)
「では、早速移動いたしましょうか」
(ええっ!?)
「フフ、こんなこともあろうかと、すでにグリーン家の者を待機させていたのです」
(……ちょっと待って!準備が良すぎない!?リカルド、あなた 最初からこの展開を狙ってたでしょ!?)
呆然とする私を置き去りにして、リカルドは立ち尽くすフリッツに向き直り、うやうやしく(しかし徹底的に見下した態度で)一礼した。
「では陛下。無事に犯人が捕まり、安全が確保されましたら、ご一報くださいませ。……それでは」
言い捨てるやいなや、リカルドはどこから取り出したのか、高級そうな肌触りの良いふわふわの毛布を私の体に手際よく巻き付けた。
そして――。
「あっ……!?」
浮遊感。
次の瞬間、私の体はすっと宙に持ち上げられていた。
男らしい腕の力と、心地よい体温。
いわゆる完全な「お姫様抱っこ」の体勢だ。
(えええええええええっ!??)
重臣たちの前で、そして夫である国王の目の前で、堂々と王妃を抱きかかえる若き宰相。
一言の反論も許さぬまま、リカルドは私を腕に抱いたまま、優雅な足取りで大混乱の部屋を後にするのだった。
グリーン侯爵家に到着してからの対応は、まさに電光石火だった。
手配されていた凄腕の医師による診察が済むと、すぐに運ばれてきたのは滋味あふれるスープ。
長らく絶食状態だった私の胃が驚かないよう、野菜の甘みと旨味がやさしく溶け込んだ、完璧な温度のコンソメスープだった。
それを、リカルド自身が一口ずつ丁寧にスプーンで私の口へと運んでくれるのだから、恐縮していいのか甘えていいのか分からない。
それからの毎日は、まさに至れり尽くせりだった。
日当たりの良い上質な部屋、ふかふかのベッド、一流の料理人が作る段階に応じた極上の食事、そして常に私の体調を気遣う洗練された使用人たち。
体を起こせるようになってからは、リカルドが多忙な公務の合間を縫っては部屋に顔を出し、私の話し相手になってくれる。
「……ダメだわ。このままじゃ、私、完全にダメ人間になってしまう……」
贅沢な悩みに頭を抱える私だったが、事態は王宮の外でも恐ろしい速度で動いていたらしい。
どうやら私がグリーン侯爵家に入ったその日のうちに、リカルドの手によってハザド公国へ「王妃殿下が王城にて極度の冷遇を受け、餓死寸前のところを保護した」という事実が早馬よりも早いドラゴン便で送られていたのだ。
連日、母国からは私を心配する手紙とともに、激怒した父と兄からの「今すぐオーランド王国との取引を全面停止する」「場合によっては兵を動かす」という凄まじい脅迫状が王宮へ届き続けているらしい。
その激しい圧力に耐えかねたフリッツは、ついに決断をした。
餓死未遂事件の元凶であるハッセ伯爵家は即座に爵位を剥奪されて全財産を没収、当主であるハッセ伯爵は不敬罪および王族暗殺未遂の罪で処刑されたという。
娘のララーナは平民へと落とされ、国外追放処分となったそうだ。
……まあ、もしフリッツが彼女に少しでも未練を残して情けをかけているようなら、我がハザド公国は容赦なく追撃の手を緩めないだろうけれど。
事態がここまで収束したのなら、当然、私の元にもフリッツから「全て終わった。お願いだから城へ戻ってきてくれ」という嘆願書が届いているはずだ。
……けれど、それらの連絡は私の手元には一切届かない。
すべて、この屋敷の主に遮断されているからだ。
「アンジェリカ様。貴女様はどうぞ、このままここにいてください」
いつの間にか名前呼びに変わっていたある日の午後、極上の紅茶を淹れてくれたリカルドは、眩しいほどのニッコリ笑顔でそう言った。
「あの……フリッツからは、何か言ってきていないかしら?」
「お気になさる必要はありませんよ。……あと少しで、すべて解決しますから」
(……あと少しで解決って、何が……!?)
彼は相変わらず、涼しい顔で恐ろしいことを言う。
どこからどこまでが彼の計算通りだったのか、私にはさっぱり分からない。
私が離宮で冷遇されていたことも、ハッセ伯爵の暴言も、すべて彼の手の上で踊らされていたのではないかとすら思えてくる。
けれど――
「さぁ、アンジェリカ様。料理長自慢のアップルパイが焼き上がりましたよ。ほら、口を開けて下さい。あーん」
「もう、自分で食べられるわよ……ん、美味しい」
甲斐甲斐しく私の世話を焼き、惜しみない寵愛と甘やかしを注いでくれるこの策士な宰相のことを、私はどうしても嫌いになれなかった。
王妃としての責務や、冷めきった夫との関係に疲れていた私にとって、彼の差し出してくれる温もりはあまりにも心地よかったのだ。
(まあ……フリッツとの離婚が成立して、私が公国に帰るか、この国に残るかは……もう少し彼に甘やかされてから考えても遅くはないかしら)
私を愛おしそうに見つめるリカルドの青い瞳を見つめ返しながら、私は心の中で静かに微笑んだ。
いつかこの過保護な策士様と、もっと素晴らしい関係になれる未来を、少しだけ期待しながら。




