4. あの場所へは戻りたくない
謁見が終わる頃には、神官長はすっかり上機嫌になっていた。国王は聖女の力を称え、重臣たちは教会の貢献を口々に褒め、隣国の使節団も礼を尽くして賛辞を述べた。神官長にとっては、それだけで十分だったのだろう。
王城の廊下は長く、白い石壁に夕暮れの光が差し込んでいた。神官長たちは少し先を歩いている。セシリアの歩みが遅れていることに気付く者はいなかった。
「聖女様」
不意に、横合いから低い声がした。セシリアが顔を上げると、柱の陰に隣国の王太子が立っていた。先ほどの謁見広間と同じ穏やかな表情だったが、その目はどこか急いているようにも見えた。付き添いの神官は少し前で神官長の話に耳を傾けており、こちらを見ていない。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
「……少しだけなら」
王太子は小さく頷き、廊下の脇にある小さな控えの間へ彼女を案内した。王太子は小さく頷き、廊下の脇にある小さな控えの間へ彼女を案内した。卓上には水差しと焼き菓子が置かれていた。王城の客用に用意されたものだろう。
「お水を」
彼がそう言うと、控えていた侍従が杯へ水を注いだ。セシリアは差し出された杯を受け取り、両手で包むように持った。冷たい水が喉を通るだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではありません」
王太子はそう答えた後、ほんの少し間を置いた。
「聖女様。貴女は、教会で大切にされていますか」
セシリアはすぐには答えられなかった。大切に、という言葉の意味が分からなかったからだ。
「分かりません」
ようやく出た声は小さかった。
「そうですか。では、もう一つだけ。貴女は、あの場所へ戻りたいですか」
その時、扉が開いた。
「聖女様」
神官長だった。彼はセシリアの手元の杯と焼き菓子を見て、作り物の笑みを浮かべた。
「殿下、聖女様がご迷惑をおかけしました。まだ若く、ご自分の立場を忘れることがありまして」
「水と菓子を口にすることが、立場を忘れる行為ですか」
「聖女には聖女の在り方がございます。欲に流されず、民のために身を捧げる。それが尊い務めなのです」
「その務めを果たすための食事と休息は、どこにありますか」
神官長の目がわずかに細くなった。
王太子は続けた。謁見広間でのセシリアの震え、顔色の悪さ、西地区で休息もなく次の依頼へ向かわされた話。食堂で彼女だけが粗末な食事を与えられていること。それらはすでに記録されていると。
神官長の笑みが消えた。
「聖女様はお疲れなのです。さあ、教会へ戻りましょう」
その言葉に、セシリアの体が強張った。戻れば叱られる。戻らなければもっと責められる。けれど、もう一つだけ分かっていた。
そう言って、神官長がセシリアの腕へ手を伸ばす。
「触らないで!!」
叫び声が響いた。
「動くな!」
鋭い声が控えの間を裂いた。
次の瞬間、王太子は腰の剣を抜いていた。磨かれた刃が夕暮れの光を受け、神官長の前で冷たく光る。神官長の手は、セシリアの腕へ伸ばされたまま宙で止まった。
「殿下……これは、何の真似ですかな」
神官長の声は震えていなかった。だが、その顔から余裕は消えていた。
王太子は剣先を下げない。
「これでようやく分かった。貴方の国は、聖女を杜撰に扱っている事が」
控えの間にいた者たちが息を呑む。文官が目を見開き、近衛兵たちが慌てて前に出ようとしたが、王太子はそれを片手で制した。
「私は先ほどから、貴方の言葉を聞いていたが、どれも、彼女自身の意思を一つも見ていないだろう」
「それは誤解です。私はただ、聖女様を案じて」「案じる者が、怯えて拒絶した相手に手を伸ばすのか」
神官長は黙った。
セシリアは椅子の背に手をかけたまま、荒い息を繰り返していた。自分が叫んだことが信じられなかった。触らないで。そんな言葉を、自分が神官長に向けて言う日が来るとは思わなかった。
「私はこの国は素晴らしいと父上から聞いた。信仰に厚く、民を慈しみ、百年ぶりに現れた聖女を国の宝として迎え入れたのだと。だが、実際に見たものは最低な有様だ。聖女を人として扱わない挙句に、その名を使って私腹を肥やしているだと?それなら、私達が聖女様を保護しようではないか?」
神官長の顔から、完全に笑みが消える。
「殿下。それは、我が国への侮辱と受け取ってよろしいですかな」
「侮辱だと?聖女を侮辱した分際で何を言うか。私達は、そなたの国と戦争をしてもら構わないのだぞ」
その言葉に、神官長は何も言えなかった。
神官長は教会の頂点に近い立場にいる。国王に進言することもできるし、貴族たちへ影響を及ぼすこともできる。だが、それだけだった。戦争を決める権限などない。他国の王太子がここまで強く出た時、神官長個人の言葉で押し返せる問題ではなくなっていた。
王太子はさらに一歩踏み出した。剣先は下げない。
「それに、貴方達の杜撰な聖女の管理を外へ明かしても良いのだぞ?聖女の扱いに厳しい西側諸国が、これを聞いて何と言うだろうな?」
神官長の頬がぴくりと動いた。
「西側諸国」という言葉は、脅しとして十分すぎた。聖女や神託に関する取り決めに厳しく、聖職者の不正にも容赦がない国々である。もし彼らに、百年ぶりの聖女が満足な食事も休息も与えられず、寄付金を集めるために使い潰されていたと知られれば、教会の威信は地に落ちる。国王も黙ってはいられない。
「……殿下は、我が国を脅されるのですか」
「違う。貴方がたが隠してきたものを、隠し続ける権利はないと言っている」
王太子の声は冷たかった。
「聖女様は物ではない。国の所有物でも、教会の看板でもない。本人が拒絶している以上、連れ戻すことは許さない」
神官長はセシリアを見た。だが、セシリアはもう彼と目を合わせなかった。椅子の背に手を置き、震えながらも王太子の後ろに身を寄せる。その小さな動きが、何よりはっきりと答えを示していた。
王太子は文官へ視線を向ける。
「記録を。聖女セシリア様は教会への帰還を拒否した。よって、我が使節団は彼女の身柄を保護する。異議があるなら、正式な場で国王陛下を通して申し立てるがいい」
文官は青ざめながらも頷いた。近衛兵たちが神官長の前へ出る。神官長は唇を引き結んだまま、もう一言も発しなかった。
王太子は剣を鞘に収めると、セシリアへ向き直った。
「聖女様。立てますか」
セシリアは小さく頷いた。だが足元はまだ覚束ない。王太子はすぐに手を伸ばさず、一度だけ尋ねた。
「支えても?」
その問いに、セシリアは少し驚いたように目を瞬かせた。
「……お願いします」
王太子は頷き、セシリアの腕ではなく、肩に掛けられた布の上からそっと支えた。
神官長はその光景を見ていた。怒りと屈辱で顔を歪めていたが、何もできなかった。ここで強引に奪い返せば、それこそ国際問題になる。教会の不正を暴かれるどころか、国そのものを危うくしかねない。
「行きましょう」
こうして王太子は、半ば強奪する形で聖女を連れ去った。だが、その場にいた誰も、彼を止めることはできなかった。聖女自身が、戻りたくないと告げたのだから。




