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【完結】「普通のパンを下さい」と聖女は言った。   作者: 入多麗夜


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2. 全て自分の落ち度

 翌朝、セシリアはまだ日も昇りきらないうちに部屋を出た。聖女の一日は早い。祈りから始まり、施療院での治療、貧民街の浄化、神殿へ持ち込まれる依頼への対応と休む暇もない。


「聖女様だ」

「今日も来てくださったのか」

「ありがとうございます!!」


 感謝の言葉を向けられるたび、セシリアは小さく頭を下げた。嬉しくないわけではない。自分の力で誰かが救われるのなら、それは確かに喜ばしいことだった。


 ただ、その度に思うのだ。

 どうして自分は救われないのだろう、と。


 最初に診たのは幼い少女だった。高熱で顔を真っ赤にしており、母親が泣きそうな顔で抱きかかえている。セシリアが額に手を添えると、淡い光が溢れ出した。少女の苦しそうな呼吸が少しずつ落ち着いていく。


「ありがとうございます……!」

「どうか、日々の健康にはお気をつけて下さい」


 母親は何度も頭を下げた。


 次は老人だった。その次は怪我をした職人。さらにその次も、そのまた次も。


 昼を過ぎる頃には数十人の治療を終えていた。


「聖女様、次は西地区です」

「……はい」

「急いでください。依頼が溜まっていますので」


 休憩を申し出ることはできなかった。言ったところで返ってくる言葉は分かっている。


 聖女は我慢するものです。聖女は民のために尽くすものです。聖女は神の代行者なのです。


 三年間聞き続けた言葉だった。


 馬車に揺られながら、セシリアは窓の外へ視線を向けた。王都は今日も賑わっている。市場には人が溢れ、商人たちの威勢の良い声が響いていた。その中に、小さなパン屋が見えた。


 焼き立てのパンが店先に並んでいる。香ばしい匂いが風に乗って馬車の中まで届いた。


  店の前では母親と小さな男の子が並んでいた。男の子は受け取ったばかりのパンを嬉しそうに抱え、待ちきれない様子で一口齧る。頬いっぱいにパンを詰め込みながら笑う姿に、セシリアは目を細めた。


 羨ましいと思った。ただパンを食べているだけなのに。


「聖女様」


 向かいに座っていた神官の声で、セシリアは窓から視線を戻した。


「そろそろ到着します。今回は瘴気の濃い場所ですから、手早くお願いします」

「……はい」


 返事をすると、神官は満足したように頷いた。そこに労わりはなかった。昨日も今日も休みなく治療を続けていることなど、彼にとっては考える必要のないことなのだろう。セシリアが倒れない限り働ける。働けるなら働かせればいい。彼らの中で聖女とは、そういう存在だった。


 馬車が止まると、すぐに扉が開かれた。西地区は王都の端にある古い住宅街で、貧民街とまでは言わないものの、石畳はところどころ剥がれ、建物の壁にも黒ずんだ染みが浮いている。最近この一帯で瘴気が溜まり、住民の体調不良が相次いでいると聞かされていた。


 神官に促されて路地の奥へ進むと、確かに空気は澱んでいた。


 セシリアは両手を組み、静かに祈りを捧げた。


 淡い光が足元から広がっていく。黒い霧のように漂っていた瘴気が、光に触れた端から薄れていった。住民たちが息を呑む気配がする。


 誰かが「さすが聖女様だ」と呟いた。別の誰かが涙声で祈りの言葉を唱える。セシリアは目を閉じたまま、さらに力を込めた。体の奥から何かが削られていく感覚がある。それでも止めるわけにはいかなかった。ここで手を緩めれば、また誰かが苦しむからだ。


 浄化が終わる頃には、膝が震えていた。


 セシリアはそれを悟られないように息を吐き、組んでいた手を下ろした。周囲から安堵の声が上がる。住民たちは次々に頭を下げ、涙を浮かべて感謝を口にした。その中で、付き添いの神官だけは懐から帳面を取り出し、淡々と何かを書き付けている。


「西地区浄化、完了。次は北門付近の祈祷依頼です」

「……今からですか」


 思わず問い返すと、神官は不思議そうにセシリアを見た。


「当然です。まだ日も高い。急げば夕刻の施療にも間に合います」


 セシリアは何も言えなかった。


 休ませてください、と言いたかった。少しだけ水を飲ませてください、と言いたかった。


 けれど、そのどちらも口にできなかった。言ったところで、返ってくる言葉は決まっている。


「聖女様ならおできになるでしょう。民は待っているのですよ。あなたの力は神から授かったものなのですから」


 そう言われれば、セシリアは頷くしかない。


 神官は住民たちから差し出された礼金を受け取っていた。小さな袋がいくつも彼の手元へ渡る。金貨ではない。銀貨や銅貨が混じった、決して裕福ではない人々の精一杯の感謝だった。セシリアはそれを見て胸が痛んだ。彼らが無理をして差し出した金が、教会でどのように使われるのかを知っている。少なくとも、ここで疲れ切って立っている聖女のためには使われない。昨日の食堂に並んでいた白パンや肉料理の一部にはなるかもしれないが、セシリアの前に置かれる食事が増えることはない。


「聖女様、何をしているのです。馬車へ」

 


 馬車に戻ると、神官は先ほど受け取った袋を自分の鞄へしまった。セシリアはそれを黙って見ていた。問いただす気力はない。以前、似たようなことを聞いたことがある。あの礼金はどこへ行くのですか、と。神官は微笑んで答えた。教会の運営費です。聖女様の活動を支えるために使われます。そう言われた時、セシリアは納得しようとした。けれど、その日の夕食も黒パンと薄いスープだけだった。


 北門付近の祈祷が終わる頃には、空は茜色に染まっていた。夕刻の施療には結局間に合わず、神官は露骨に不機嫌になった。


「予定が押しましたね。もう少し手際よくできませんか」

「申し訳ありません」

「聖女様のお力を疑っているわけではありませんが、依頼は山ほどあるのです。皆、聖女様を頼りにしている。自覚を持っていただかなければ」


 セシリアは頷いた。何度も謝った。そうしているうちに、自分が何に謝っているのか分からなくなった。浄化に時間がかかったことか。足が遅かったことか。疲れてしまったことか。パンを羨ましいと思ったことか。どれも謝る必要のないことのようでいて、教会の中ではすべて彼女の落ち度になるのだ。


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