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雛飾り①

作者: 森本有介
掲載日:2026/03/02

子供の頃、母に連れられて訪ねた家の奥には、不思議な空間が広がっていました。

三月が近づくたびに思い出す、古い雛飾りの記憶です。

 小学校一、二年生の頃だったと思う。三つ下の弟と一緒に、母に連れられて母の友人の家へ遊びに行った。


 母の実家もその人の家も、同じ商店街のアーケードの中にあった。


 だが、母の実家が鉄筋コンクリート三階建てだったのに対し、その人の家はまるで(おもむき)が違っていた。


 きらびやかな店舗の端に、竹で編まれた古ぼけた細長い扉があった。母がその頼りなげな扉を開くと、不機嫌そうな音を立てながら扉はゆっくりと開いた。


 するとそこには、別世界が広がっていた。


 狭く、どこまでも続いていきそうな石畳の通路。石畳には打ち水がされ、(つや)やかに光っている。両脇には背の高い青々とした竹垣が続き、細長い灯籠(とうろう)が所々に立っていた。


 僕たちは細い通路をゆっくりと歩いていく。


 通路の奥には、硝子の入った古ぼけた引き戸があった。母は右脇にある古めかしい呼び鈴を鳴らす。詰まったような弱々しい音が鳴った。


 しばらくして、引き戸が嫌そうに開いた。


 一人の女性が現れる。


 途端に母とその女性(ひと)は笑顔になった。


「Aちゃん、久しぶり振り」


「B子こそ変わってないねぇ、元気だった?」


 二人は少女のような声ではしゃぎながら再会を喜び合った。


「こんにちは。おばちゃんのこと覚えとう?」


 僕と弟は顔を見合わせる。


「覚えとらんよね」


「早よ、挨拶(あいさつ)せんね」


 母に()き立てられ、小さな声で言った。


「こんにちは」


「こんにちは」


「男のくせに」


 母が(あき)れて言う。


 そう言われても恥ずかしいのだ。どうしようもないじゃないか。男でも出来ないこともあるのですよ、母君。


「さあさあ、もういいから。上がって上がって」


 家の中に入ると、い草の良い香りがした。


 薄暗い。天井も柱も真っ黒で、壁は濃い灰色の塗り壁だった。だが汚れているわけではない。どこも掃除が行き届き、黒光りしている。不思議と身が引き締まる空間だった。


 足元には、濃い紫の縁のついた青々とした畳が敷き詰められていた。


 僕たちはその女性(ひと)の後に続き、廊下を進んだ。


 左には飴色になった木枠の格子硝子戸が並んでいる。硝子は一枚一枚歪んでいて、小さな気泡があり、外の景色を(あや)しく映していた。


 右には黒漆の縁のついた(ふすま)が続く。生成りの和紙の上には金泥の雲が一面に浮かんでいた。


 廊下の奥でその女性(ひと)は立ち止まり、座って襖を開けた。


 心地よい摩擦音がした。


「どうぞ」


 部屋に入ると襖が静かに閉められた。


 そこは八畳の続き間だった。


 歪んだ硝子越しに、中庭の柔らかな光が差し込んでいる。


 飾り棚に置かれた白磁の香炉から細い煙が立ちのぼり、上等な伽羅(きゃら)の香りが漂っていた。


 僕はだんだんぼんやりとしてくる。


 身体がふわふわする。


 そして床の間を見た瞬間、息をのんだ。


 真っ赤な毛氈(もうせん)の上に、七段飾りの古い雛人形が並んでいた。

薄暗い部屋の奥で出会った雛人形は、子供心にどこか恐ろしい存在でした。

その日初めて口にした甘酒の味とともに、記憶は後編へと続きます。

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