雛飾り①
子供の頃、母に連れられて訪ねた家の奥には、不思議な空間が広がっていました。
三月が近づくたびに思い出す、古い雛飾りの記憶です。
小学校一、二年生の頃だったと思う。三つ下の弟と一緒に、母に連れられて母の友人の家へ遊びに行った。
母の実家もその人の家も、同じ商店街のアーケードの中にあった。
だが、母の実家が鉄筋コンクリート三階建てだったのに対し、その人の家はまるで趣が違っていた。
きらびやかな店舗の端に、竹で編まれた古ぼけた細長い扉があった。母がその頼りなげな扉を開くと、不機嫌そうな音を立てながら扉はゆっくりと開いた。
するとそこには、別世界が広がっていた。
狭く、どこまでも続いていきそうな石畳の通路。石畳には打ち水がされ、艶やかに光っている。両脇には背の高い青々とした竹垣が続き、細長い灯籠が所々に立っていた。
僕たちは細い通路をゆっくりと歩いていく。
通路の奥には、硝子の入った古ぼけた引き戸があった。母は右脇にある古めかしい呼び鈴を鳴らす。詰まったような弱々しい音が鳴った。
しばらくして、引き戸が嫌そうに開いた。
一人の女性が現れる。
途端に母とその女性は笑顔になった。
「Aちゃん、久しぶり振り」
「B子こそ変わってないねぇ、元気だった?」
二人は少女のような声ではしゃぎながら再会を喜び合った。
「こんにちは。おばちゃんのこと覚えとう?」
僕と弟は顔を見合わせる。
「覚えとらんよね」
「早よ、挨拶せんね」
母に急き立てられ、小さな声で言った。
「こんにちは」
「こんにちは」
「男のくせに」
母が呆れて言う。
そう言われても恥ずかしいのだ。どうしようもないじゃないか。男でも出来ないこともあるのですよ、母君。
「さあさあ、もういいから。上がって上がって」
家の中に入ると、い草の良い香りがした。
薄暗い。天井も柱も真っ黒で、壁は濃い灰色の塗り壁だった。だが汚れているわけではない。どこも掃除が行き届き、黒光りしている。不思議と身が引き締まる空間だった。
足元には、濃い紫の縁のついた青々とした畳が敷き詰められていた。
僕たちはその女性の後に続き、廊下を進んだ。
左には飴色になった木枠の格子硝子戸が並んでいる。硝子は一枚一枚歪んでいて、小さな気泡があり、外の景色を妖しく映していた。
右には黒漆の縁のついた襖が続く。生成りの和紙の上には金泥の雲が一面に浮かんでいた。
廊下の奥でその女性は立ち止まり、座って襖を開けた。
心地よい摩擦音がした。
「どうぞ」
部屋に入ると襖が静かに閉められた。
そこは八畳の続き間だった。
歪んだ硝子越しに、中庭の柔らかな光が差し込んでいる。
飾り棚に置かれた白磁の香炉から細い煙が立ちのぼり、上等な伽羅の香りが漂っていた。
僕はだんだんぼんやりとしてくる。
身体がふわふわする。
そして床の間を見た瞬間、息をのんだ。
真っ赤な毛氈の上に、七段飾りの古い雛人形が並んでいた。
薄暗い部屋の奥で出会った雛人形は、子供心にどこか恐ろしい存在でした。
その日初めて口にした甘酒の味とともに、記憶は後編へと続きます。




