花言葉って意外と怖い物が多いよね。
ここは、普段から誰も訪れず、夜の闇と本の匂いと忘却の静寂に包まれた場所。
私はここの主に用事があった。
私は昨日、その主と話をして衝撃的な事実を知ってしまった。
それで分かっていた。
あの子を味方にすれば、ガランを足止めできるかもしれない。
私は軽い足取りで階段を下り、薄暗い廊下を抜けた。
昼なのに、この空間だけ夜の洞窟の陽だ。
壁には古い燭台とランプがいくつか等間隔に置かれ、淡い光が煤けた本棚をかすかに照らしている。
その奥、地下書庫への重厚な鉄の扉がある。
両手を使って重い扉を開けて中に入ると、冷えた蔵書の匂いと、古い羊皮紙の匂いが混じって、喉をくすぐる。
その時。
「......ん.......?」
気配はなかった。
無いはずだった。
薄暗がりの中、"主"がぽつんと立っていた。
「どしたの、こんな時間に?」
"主"の声は寝ぼけ混じりで、ほんのり酔っているが、その瞳は鋭さを失っていなかった。
私はその場で一呼吸置いた。
「お願いがあるの。」
私は深呼吸してからそう言い放つ。
"主"はじっと私を見つめていた。
◇ ◇ ◇
その後、私は屋敷にやって来た。
噴水の畔に揺れる、白い薔薇の花弁が、静かに私を誘う。
私は指先でそっとその花を弾いて、一人で呟いた。
「どうしようかしら。コリウス様にはどの花を.........。」
私は悪役令嬢。
いや、悪役令嬢として振る舞いたいごく普通の令嬢だ。
美貌と権力と、ほんの少し(?)の狂気を併せ持つ令嬢として知られているはず。
だが今宵は.......ただ一輪の花で、コリウス様の目を引きたい。
いや、心を揺さぶりたいのだ。
いくつもの花が頭に浮かぶ。
赤い薔薇の花言葉は情熱だったり、愛だったり。
けれどそれは露骨すぎて、他の貴族達の目にも映れば、噂の種になるから気をつけなければ。
私は風に吹かれ、裾を軽く翻す。庭園の小径をゆっくりと進みながら、自問する。
「うーん......どうしようかしら。」
庭園にある近くの椅子に腰掛けた。
いつもはここでお茶を楽しんでいるのだが、今回はお茶する為に来たのではない。
その時、ローブをまとった影が足音を立てて近づいてきた。
「......お嬢様......少々、お話よろしいでしょうか?」
庭師の声は震えていた。
日差しに照らされたその顔には、恐れが刻まれており、右手には小さな花籠と左手には大きくて鋭く、何処か刃こぼれしている青い持ち手の剪定鋏を持っていた。
えーっと確かこの庭師は......ハルディン・スカーヴィオサ。
通称名はハル。
普段は静かで礼儀正しいが、私(悪役令嬢)に対しては、人が変わったように震えるのだ。
そして、男性なのに女性顔でよく弄られているの。
私も弄ってるけどね。
「ハル、どうしたの?何か用かしら。」
ハルは躊躇いながらも、呂律を整えて言った。
「あ、それは......あの、その......お嬢様に新しく咲いた花を紹介しようと思いまして。星翳の花.......。夜空の星のような白い花です。香りは繊細で上品な香りですよ。この鋏で切って来たんです。」
ふーん。
星翳の花のその白い花びらは純粋さの象徴にも見えるが、あまりに無垢で、私の"悪役令嬢"としての印象とのバランスを欠くかもしれない。
でも、その純粋さも良いのよね。
そんなことを考えていると、ハルは籠をそっと差し出す。
「最近花が綺麗に咲いたので摘んでみました。どうぞ......。」
私はその手を伸ばし、星翳の蔓の一枝に触れた。
指先が軽くその葉に触れると、冷たさと柔らかさが混ざった感触が伝わった。
花の香りも柔らかで、私の好みだ。
でも、問題は相手であるコリウス様に気に入ってもらえるか、だ。
あの方は優しいからきっと何を渡しても笑顔で受け取るんでしょうけど、私が求めているのは心から木に言って貰えるかどうか、だ。
でも.....とにかく、反応を知るには渡さないとその話すら進まないわね。
「ハル、ありがとう。」
そして、私は籠を受け取った。
「え.....あ、はい!」
ハルはまだ震えていたが、それでも安堵の色を浮かべていた。
私は籠を片手に庭園を後にした。
「お嬢様......どうか、気をつけて。」
◇ ◇ ◇
私は籠を持ったまま歩いている。
とりあえず、枯れないように部屋の花瓶に差しておきたい。
だからまずは部屋に戻るのが最優先だ。
にしても......少し曇って来たわね。
さっきから雲が多いなとは感じていたけど.....半分以上青い空が見えていたから大丈夫かなって割り切っていたのよね。
私は窓の外を見ると分厚い雲がかかっていた。
まるで、今は昼だとは思わないくらいに。
肌を撫でる夜の風が、服のレースを微かに震わせる。
花から立ち上る香気が、心を甘くほぐしながらも、私の背筋には凍えのようなものを這わせた。
私以外に誰かがいるはずがないのに、と思った瞬間。
「お嬢様。」
低く完璧な声。
滑らかに、しかしどこか冷たさを含んだその呼び声に、私は立ち止まった。
執事のガランが無造作にもきちんと黒の燕尾服を身につけ、白い手袋まで整えて、私の前に現れた。
月明かりですら、その立ち姿をある種の異様さで縁取る。
「ガラン......貴方、どうしてここに?」
私は声を震わせないように努めた。
だがその胸の奥で、小さな鼓動が跳ねた。
ガランは小さく頭を下げて、不器用にも礼をする。
「畏れながら、お嬢様。お手を煩わせてしまってはいませんでしょうか?」
その顔には普段の冷静さと誠実さがありありとある。
まるで、あの"殺した"ガランとは別人のように。
私は答えを探すように目を細めながら、廊下の壁に沿って、少しずつ後ずさる。
籠を握りしめた手に、ほんの微かな汗が滲む。
「いえ、別に。廊下で見かけただけよ。」
私は身体の中心で"何か"が蠢くのを感じた。
ガランの表情は揺れない。青白い顔に、完璧な微笑を浮かべて。
「正直に申し上げると......私はお嬢様を恐れております。ですが、それでも私は忠誠を誓っております。お嬢様のために、全てを。命を、魂を捧げる所存です。」
恐れているのはこっちなんだけど。
その「全て」という言葉が、私の心に、不穏な音を刻む。
私はいつものように冷たく笑おうとした。
だが、笑い声は喉までで止まり、震えてしまった。
「あの日、私は"解体"されました。しかし、私は死ぬことを拒みました。」
ガランは光の中でその瞳を揺らす。
完璧な執事の仮面の下に、狡猾さと暗い執念が透けて見えた。
「お嬢様、私はお仕えします。ですが、その"仕える"とは、ただ従うだけではありません。お嬢様の恐怖にも、無力さにも、敗北にも、私は関与致します。お嬢様が言葉を放つなら、それを増幅し、お嬢様が疑いを抱くならそれを骨の髄まで刺す。お嬢様が望む強さ......その裏にあるご自分の闇を、私は......見守り、操ることができます。」
息が詰まりそうになった。
廊下の灯りが揺れ、影が伸びて私を取り囲むようだ。
私は一歩、また一歩、後ずさる。
「......それは、私を恐喝するつもり?」
ガランは頭を軽く傾げ、声を低くする。
「何故そのような御考えをお持ちで?......これは恐喝ではありません。」
その言葉に対して私は何を言えばいいのかわからなかった。
「ガラン......あなた、本当に、死んだのよね?それとも......何か......私の知らぬ魔術でも?」
ガランは微笑を保って、その瞳に一滴の光を宿す。
「ふふ、秘密ですよ。知らなくていい事もこの世の中には存在しているというのです。」
......恐るべし、ガラン。
どうやら私はもう、恐怖に囚われいるようだ。
廊下の空気が、まるで何か堅い殻のように私を包んだ。
燭台の火が一瞬だけ揺れ、影が壁を走る。
同時に、遠くで一つ、地鳴りのような音が鳴る。
「お嬢様。」
ガランの声が、いつもの完璧すぎる調子で廊下に溶ける。
だが私はもう、その声に安堵を見いだすことができない。
あの夜、殺したガランは何だったのか。
ガランは私の前に立っていた。
燕尾服は完璧に整っていて、白い手袋の指先まで皺一つない。
彼の姿は、あの時と同じだ。
顔が少し継ぎ接ぎの様になっていること以外は。
「今夜は、随分お疲れのようですね、お嬢様。」
その言葉が発せられた瞬間、遠雷が低く唸り始めた。
私は息を詰めた。
私は自分がどうしてまだここにいるのか、自分でもわからなかった。
ただ、足は動かなかった。
籠を持つ手が、わずかに震える。
「ガラン。」
私の声は、いつもの高飛車さを保とうとして掠れた。
するとガランは一歩だけ足を進める。
その一歩は、まるで儀式の前の合図のように静かで確かだった。
ねぇ本当に今昼なんだよね?
私は自分に言い聞かせるように言ったはずだが、それもすぐにかき消えてしまったように思える。
「お嬢様。少々、申し上げたいことがございます。」
彼の声は柔らかかった。
だがその柔らかさは、布で刃を包んだような性質を持っていた。
その刃は布を突き破りそうになっているが。
私は胸の奥底で、ずっと、何かが冷たく研がれていくのを感じる。
あの夜、私がした事は。
あのとき彼が見せた表情は。
死にゆく者の瞳に宿る、切実で綺麗な光。
「お嬢様、貴女は.......」
その言葉を飲み込むようにして、ガランは一瞬顔を上げる。
私の視界の端で、窓の向こうに怒濤のような雲が堆く集まるのが見えた。
雲は渦を巻き、屋敷の屋根を飲み込もうとする。
遠くで光る稲妻が一本、走った。
その光が近くに落ちると、彼が言葉を放った。
「貴女は、私の物です。」
言葉が空気を裂いた瞬間、雷が同時に光った。
刹那、白い光が廊下を貫き、私の皮膚を透かして骨髄まで刺すように感じた。
ガランの声と雷鳴が、同じ鼓動で震えを起こす。
何かが壊れた。
その何かと私の中の理性と高慢が、静かに粉微塵になる。
「は?」
私は短く、そして愚かにも鋭く返した。
言葉が口をついて出る。
しかしその「は?」は針のように虚しかった。
まさに現実逃避をするような声色。
ガランの顔には、いつもの忠実な執事の微笑みが浮かんでいる。
だがその微笑みは、何か遠い場所から糸で引かれている操り人形のようにぎこちなく私には見えた。




