彼女は夢を見たのか?
朝の光を浴びようと私は目を開けた。
もう朝か.....早いものだ。
私はベッドの端に座る。
シーツは思ったよりも重かった。
枕元の置時計は、針を刻む音を響かせる。
足を床に下ろすと、冷たさが登ってくる。
この冷たさにも十分慣れたような気がする。
身体が現実を確かめる前に、頭の中がまた一つ狂った。
前世の仕事、触れた画面、ネオンのライン。
それらは色あせたスライドのようにめくれ始めるが、私の記憶には完全に接続されない。
ここが私の居場所だと、理性は言う。
でも心は違う。
私はとりあえずカーテンから新鮮な朝の光を取り込もうと思った。
朝から変な考えばかりしていては心も体も疲れるからだ。
薄いカーテンの隙間から外を覗こうとしたが、窓の外は鉛色だった。
空気は重く、過去を閉じ込めるように濁っている。
.....なんで?なんでこんなにも暗いのだろう。
朝であるはずなのに......
当然、音がした。
誰かが来る。
私は瞬時にそのことを察知出来た。
床板に残る靴音は、私がかつて聞き慣れたリズムだが、不協和音を含んでいた。
足取りは軽く、しかし確信に満ちている。
執事の足だ、これは。
けれどその足取りの一つ一つが、私に過去の断片を突きつける。どうせ相手は彼だろう。
ガラン。
生き返ったガランが今、ドアの向こうにいる。
扉が静かに開く。
彼には鍵が必要ないのだろう。
あるいは誰かが持たせたものかもしれない。
背筋が伸びるような立ち姿、丁寧に撫でられた髪、そして綺麗に整えられた燕尾服。
だけど、顔。
それは恐ろしいほどに整っていると同時に不自然だった。
皮膚が継ぎ目のように線を描き、縫い目が明かりを受けて微かに浮かぶ。
(あのメイド......嘘つきね。顔だけでも大きな変化が出ているというのに。)
目は完璧に左右対称ではなく、笑顔は誰かの指先で仮縫いされたようにぎこちない。
それでも彼は微笑んでいる。
微笑みの端に毒が滲んでいるのを、私は否が応でも感じ取った。
「アザミール様。」
声は低く、澄んでいた。
礼儀正しい音階の中に、計算が混じっている。
彼は一歩一歩、私の寝室へと進む。
手には書類がある。
手先は手袋で覆われていて、指先の動きまでが演技のように正確だ。
彼が何を考えているのかは、彼の目の奥だけが知っている。
だがその奥にあるのは、確信と、復讐の準備だと私は感じていた。
私は立ち上がる。
逃げるわけにはいかない。
もし逃げれば、彼の勝利になるだろう。
「先程はお疲れの様子でしたね。大丈夫でしたか?あの酒娘に何かされたのですか?」
彼の言葉は甘い。
だが甘さの裏側にあるのは、どす黒い期待だ。
私は笑わない。笑う資格はない。
彼が席を取り、ゆっくりと封筒を私の前のテーブルに置くと、書類の端が少しだけ覗いた。
紙は分厚く、インクが乾ききっていない匂いがする。
新しい紙。
それは、なにかを告げるものだと、私の内側が瞬時に告げた。
「書類?」
私の声は震えたかもしれない。
だが、耳に入るのは自分の声だけで、それが私であることを確認するように聞いた。
彼は目を細めて、私の反応を楽しむように見下ろす。
「えぇ、アザミール様。正式なものです。こちらが—」
彼の話が全く耳に入ってこなかった。
顔の継ぎ目が朝の光でちらつき、私はそのたびに過去の断片が爪のように私の肉に食い込むのを感じた。
近未来のフラッシュ、ネオン、機械の冷却音。
だがどうやっても一つにつながらない。
手渡された書類を、私は両手で持ったまま固まっていた。
この書類達はそこまで緊急な感じではない。
むしろ1週間くらい猶予がある書類だってある。
その時だ。
「おっと......」
ほんの一瞬、視線の端でガランの顔が揺らいだ気がしたと思ったらすぐに.....
べり、と音がした。
正確には、音というより感覚だった。
皮膚が剥がれ、何かが引き裂かれる感触が空気を震わせた。
は?
私は目を見開いた。
そこにあったのは、もう「顔」ではなかった。
彼の顔の右半分が、まるで薄紙の仮面のように、ふわりと浮き上がっていた。
継ぎ接ぎだった皮膚が、その縫い目から裂け目を作り、ずるりとずれていく。
白い肌が剥がれ落ちていく下にあった物。
それは、黒。
光を拒絶する、完璧な虚無。
闇が凝縮して物質になったかのような漆黒が、ぽっかりと穴を開けていた。
私は息を呑み、喉が詰まった。
「......っ......あ......」
声にならない音が口から漏れた。視界が歪む。
脳が、この異常を理解しようと必死に働いているのに、理解するたびに壊れていく。
脳内で何かがばちばちと火花を散らしていた。
後ずさろうと足を動かすが、膝が震えて床に貼りついたように動かない。
動け......動け.....私の足......ッ!!
呼吸が急に重くなる。
肺が閉じたように空気が入らない。
恐怖というものが、物理的に喉を絞めるのだと初めて知った。
私は胸を押さえ、肺の奥で何かがひっくり返る感覚に耐えた。
息が入らない。肩が痙攣する。
目の前が白くちらつき始める。
「......アザミール様。」
ガランが呼ぶ。声はいつも通りだった。
低く、丁寧で、感情の温度を持たない響き。
その音だけが以前と同じであることが、かえって恐ろしかった。
彼は、一歩、近づいた。
剥がれかけた顔を、手袋をした指先でそっと押さえながら。
動くたびに、剥がれた皮膚の端がぺらりと揺れ、黒が覗いた。
その黒は、こちらを見ていた。
目が無いのに、確かに「視線」がそこから突き刺さっていた。
私の視界の端、紙の書類が微かに震えている。
それは私が受け取った運命のように、少しずつ変わっていく。
私は叫ぼうとした。
でも何故か声が出ない。
喉が痙攣する。
肺が酸素を、空気を拒む。
胸郭がきしむ音が自分にしか聞こえない。
ゼエゼエと濁った音が口から漏れ、まるで壊れた風船のように肺がしぼむ。
目の端に涙がにじむ。
指先がしびれ、手足の感覚が遠のいていく。
息ができない。
「大丈夫です、アザミール様。」
彼は優しく言った。
何が大丈夫なのよ......!!
優しく、頭を撫でた。
その手袋越しの感触は冷たかった。
私は首を振ろうとするが、力が入らない。
「......っ......ひ......ひ......っ......」
喉の奥から喘鳴が漏れる。
空気を取り込もうとするたびに、肺が拒絶して縮む。
胸の中がひゅうひゅう鳴っている。
これは......喘息の発作だ、とどこかの冷静な自分が囁いた。
けれどその自分も、恐怖にかき消されていく。
ガランは、そんな私を見下ろしていた。
感情の無い慈愛。
それが何よりも恐ろしかった。
彼にとって、きっと慈悲は刃物だ。
彼の優しさは全ては私を殺すためのものだと、全身が理解していた。
「落ち着いて下さい。ゆっくり、呼吸を......」
その声が優しく響く。
だが私には、それが死刑執行の鐘のように聞こえた。
肺が焼ける。喉が裂ける。
心臓が胸の内側を爪でひっかくように暴れ続ける。
酸素が上手く回らない。
彼の手が、髪から頬へと滑る。
冷たく硬い感触。撫でるその動作は、慰めではなく支配だった。
「......ぅ......」
涙が零れた。
喉が詰まり、声にならない嗚咽だけが漏れた。
身体が小刻みに痙攣する。
背中を丸め、胸を押さえるが、肺はもう私のものでないようだった。
まるで彼の手のひらの中に収められ、握り潰されるのを待っているかのようだ。
ガランは微動だにせず、私の顔を撫で続ける。
剥がれかけた皮膚の裏から、黒がこちらを覗き込み、笑っている。
「......息が......でき......な......」
かすれた声がようやく喉から漏れた。
言葉というより、崩れかけた呼吸の断片だった。
彼はその言葉に対し、ほんの少しだけ首をかしげた。
優雅な仕草。完全に計算された角度。
「......っ......あ......!」
悲鳴が漏れた。
かすれた声。
呼吸と涙と恐怖がぐちゃぐちゃに混ざり、私は崩れ落ちた。
床に膝をつき、書類を取り落とす。
紙がひらひらと舞い、私の足元に散らばる。
ガランはそれを見下ろし、皮膚の継ぎ目を押さえながら、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「大丈夫です。......すぐに、終わります。」
その言葉が、まるで宣告のように響いた。
彼の黒が、私の視界を覆った。
世界は音もなく閉じ、光がすべて吸い込まれていった。
私は震えながら、最後の一呼吸を探すように口を開けたが、もう空気はなかった。
ただ、冷たく湿った黒だけが肺の奥に流れ込み、私の意識を静かに塗り潰していった。
それから、彼は私の手を(気持ち悪いくらいに)優しく取る。
「アザミール様、大好きですよ。愛しています。」
なんて言葉も添えて。
.....嘘つき。永遠に死んでしまえ。
そこで、私の意識は完全に途切れた。
◇ ◇ ◇
目を開けた瞬間、胸が跳ねた。
反射的に上半身を起こし、荒い呼吸のまま辺りを見渡す。
湿った黒も、冷たい指先も、皮膚の継ぎ目も、どこにも無い。
あるのは、陽の光だった。
白いカーテン越しに、朝の光がふわりと差し込んでいる。
窓辺の小鳥が、かすかにさえずる声をあげた。
世界は、どこまでも平和だった。
......夢。
理解が遅れてやってきて、脳裏にずしりと沈む。
あれは夢だったのだ。
あの漆黒の「なにか」も、喉を掻きむしるような窒息感も、全部。
「......はぁ......っ......」
吐息と一緒に、全身から力が抜ける。
ベッドに倒れ込み、シーツの柔らかさを頬に感じながら、何度も深呼吸をした。
空気はちゃんと肺に入る。胸は上下している。
心臓も規則正しく打っている。
あまりにも、当たり前すぎて、泣きたくなるほど愛おしい。
薄く笑いがこぼれた。
きっと私はおかしくなっている。
そう思ったが、構わなかった。
「......朝......」
そう呟くと、声もまた現実に馴染んで響いた。
夢の中では、言葉を吐くたびに喉が潰れそうだったのに。
ここではちゃんと声が出る。
当たり前のことが、奇跡に思えた。
視線を動かせば、机の上に昨夜読みかけた本が開いたままになっている。
花瓶の花はわずかに首を垂れ、窓辺には白い朝靄がかかっていた。
すべてがあまりに優しく、現実的だった。
夢は確かに怖かった。
けれどその怖さも、こうして朝に溶けてしまえば、なんだか遠い異世界の物語のようだ。
あの継ぎ接ぎの顔も、剥がれ落ちた皮膚の向こうの黒も......。
あれほど圧倒的だった恐怖は、今や夢の欠片の一つに過ぎない。
胸の奥に、ゆっくりと安堵が広がった。
私は膝を抱き、窓の向こうの青をじっと眺めた。
鳥の羽音。
人々の遠い話し声。
屋敷の時計がカチリと刻む音。
ああ、生きている。
そう実感したとき、世界は少しだけ輝いて見えた。
何処からか、薬草.....ラヴェンデルの優しい匂いがしてきた。




