執事さんも苦労してるらしいよ。
夜の帳が降りた頃、社交会は無事に開催された。
私の名はガラン。
執事だ。
あらゆる場面で完璧であることが求められ、姿勢は一本の線のように真っ直ぐ、声の調子は常に適度な温度を保ち、皿の縁を指で弾けば微かな音まで計算できる。
だが、現在.....社交界の夜、その「完璧さ」が私を窮地に追い込んでいるとは、誰が想像しただろうか。
侯爵邸の中庭を取り囲むように設えられたサロン。
燭台の光が嬌声を妖しく照らす会場の片隅で、私.....ガランは、女性群に囲まれている。
正確には「囲まれてしまっている」。
本来、私の仕事は影のように目立たず、令嬢の安全と名誉を守ることにある。
だが今宵は違う。
私がアザミール嬢を妨げる側に回るはずだったのに、予定が狂ったのだ。
私が立てた準備した計略の数々が、目の前の「可憐な」令嬢たちの笑顔によって脆く砕かれている。
「ガランさんって、本当に冷静で素敵よね。どうしたらそんなに落ち着けるの?」
「ねぇ、私たちの髪飾り、そろそろ見栄えがしないと思わない?見て見て〜!」
「この香水の銘柄、どこで手に入れたの?」
矢継ぎ早に飛んでくる質問に、私はすべてに答えねばならない。
それが執事の流儀だ。
だが、心の中は阿鼻叫喚。
胸の内で私は叫ぶ。
お嬢様の側へ行かせてくれ!
今夜が勝負だ!
だが、口元は笑っている。
これが我ら執事の職業病か、あるいは業が深いだけなのか。
一応表向きは冷静を装っている。
ワイングラスを丁寧に拭き、屈託のない微笑を浮かべ、会話の合間に「それは良い趣味です」だの「お似合いです」だのと、温度計のような返答を差し挟む。
だが実際は内心が大洪水である。
私が首尾よく実行に移すはずだった一連の仕掛けは、複雑なタイミングと精妙な配置が必要だった。
舞踏の間にシャンデリアや明かりを全て停電させて気づかれぬようにその隙に事を為す。
だが今、ここにいる彼女たちが私の周りを埋め尽くし、私の腕に花飾りだの、スカーフの結び方を質問だのと、無限の小ネタを浴びせる。
確かに嬉しい。
褒められることは私の職務の報酬の一つだ。
だが今では、それが毒にも思える。
彼女達が、私の予定を全部食べ尽くしてしまう。
私は頭の中で、遂行手順を逆算し、可能な抜け道を探る。
だが口には出せない。
ここで「申し訳ありません、お嬢様方、少し失礼して」などと立ち去れば、紳士の礼節を欠くことになる。
しかも私が急に去れば、噂好きな者たちの想像力は暴走する。
「あの執事、誰かと密会かしら?」とね。
そうなればアザミール嬢が危うくなる。
アザミール嬢を殺すのは私なのに。
私はジレンマに挟まれているのだ。
すると一人の令嬢が私の膝元の皿を見た。
「そのクッキー、秘伝のレシピでしょ? 教えてくれない?」と甘えるように囁く。
正直なところ、このレシピは私の秘伝のレシピようなもので、私が簡単にばらすわけにはいかない。
だが今は「教えて」と言われるだけで時間が進む。
クッキー一枚をめぐる短い遣り取りが、次の一手を詰める何分間を一気に奪う。
私はプロの執事としての名に恥じぬ、微妙なバランスで応じ続けた。
思い出話を一つ、ちょっとした裏話をふわりと差し出すだけで、彼女たちは満足して話題を変える。
それが私の持ち味でもある。
が、満足=解放ではない。
すぐに別の令嬢が新たな攻勢を仕掛けてくるのだ。
髪型、香水、舞踏の所作、婚約話、噂話、そして私の過去の武勇伝(注:無い)まで。
質問の波状攻撃は途切れない。
その間にも、脳内では私の暗殺計画が「進行形」で劣化していくのが分かる。元は緻密に織られた絵図だった。
だが私の予定していたタイムテーブルは、女性の一言で書き換えられてしまうのだ。皮肉なことに、私は「人気者」であるが故に動けない。誉め言葉の鎖が私を繋ぎ止める。
ここで客観的に言おう。計画そのものはまだ完全に失われてはいない。可能性はある。だがその可能性を取り戻すためには、今私が取っているこの「親切の舞」を即座に切り上げ、さりげなく(しかし断固として)その場を離れる必要がある。しかも、周囲に不審を抱かせずに。だが現実は残酷だ。令嬢の一人が私のネクタイの結び方に関心を示し、両手で私の袖を掴んで離さない。別の者は私の肩に手を乗せ、今年の舞曲の評判を問う。逃げる隙がない。
私は内心、天を仰ぎ人知れず小さく呻く。『なんという皮肉だ。今では私の見事な礼節が、私の最大の足枷になっている』と。仕方ないので、私は一度冷静を取り戻し、次の手を考える。微笑み、片手で扇を優雅に回し、そこに言葉巧みに「お詫び」を混ぜる。
「申し訳ございません。皆様のお話、実に興味深い。だが本日は控えの任務が多数ありまして、これにて失礼を........」
それでも手は離れない。皆、面白がって「ガランさん、私たちと一緒に写真を撮ってください」とか「ガランさん、私に舞い方を教えて」などと催促する。私はここで写真に応じてしまえば、肖像として後世に残るかもしれないという奇妙な恐怖まで覚え、なおさら動けなくなる。ならばいっそ、あたかも「主に仕える者としての責務」を果たすために、人々の要望に全て応えたふりをして、その総仕上げに「急用のため失礼」を言い放つのだ。だが、そのためには一瞬でも「演技」を続けられる精神的体力と、やや過剰な忍耐が必要だ。私にはその二つがあるが、今は心細い。
最終的に私は、あっけらかんとした案を思いつく。ある程度のオーラを放って「儀礼的な退席」を演出するのだ。言葉は優雅に、動作はさらに正確に。全員のハートをくすぐるような一言を添えれば、彼女たちは満足し、手を離してくれるだろう。私はそのために深く息を吸い、最上級の執事スマイルを装着する。
言葉は柔らかく、だが効果は薄い。私の巧みな口上は、次の「お願い」を引き寄せるだけだ。ああ、どうしてこうも人は弱いのか。私の計画は、彼女たちの好奇心という、意外な名の怪物に喰われている。
それでも私は諦めない。人体は諦めない限り動く。舞踏のいくつかの小節が切れた瞬間、私は軽やかに一礼し、女性たちの間を抜け始めた。抜け方は芸術だ。肘を使わず、視線で道を開く。だが最後の最後、隣の令嬢が私の名を呼び、私はそこで一瞬立ち止まる。その一瞬が運命を左右する。私は歯を食いしばり、深呼吸してから笑顔で振り向く。そして言った。
「もしよろしければ、今夜の舞についての感想を、後ほど私宛に手紙で頂戴できますか。必ず拝見し、返事をいたします」
手紙という魔法の言葉が効く。女性たちは急に満足げな顔をして、私の腕を離した。やった。私はその瞬間を逃さず、まるで影のように回廊へと消えた。心の中で小さくガッツポーズ。だが胸の奥ではまだ冷たい計算が踊る。アザミール嬢の側へ辿り着けるか? 計画は再び軌道に乗るのか?
執事という仕事は“完璧”であるが故に、時に自分自身の首を絞めることもある、ということだ。今夜の教訓として、それを胸に刻んでおこう。ひとまず戻る。舞台は続いている。私は背筋を伸ばし、唇を引き締めて、次の一手に備える。私の顔には、またいつもの冷静が戻っている。しかし内心では、まだ慌てている。ああ、なんという滑稽な悲喜劇。でも、これが私の仕事だ。
私の懐中時計の秒針は左回りを続け、時間が、流れる。私が非常に欲している時間が。




