転生した悪役令嬢って強すぎる。
不定期化しそうになってる。
2週間ペースになったら申し訳ない.....
廊下を包む沈黙は、まるで息をしていなかった。
壁に吊るされた燭台の炎が、かすかに震える中でガランがそこにいた。
完璧な姿勢。
黒い燕尾服の縫い目ひとつ乱れず。
笑みは礼儀に満ちていて、氷よりも冷たかった。
空気が、重たい中で視線が交差する。
ガランの右手が、滑らかに、流れるように動く。
彼の仕草はいつも優雅で、完璧で、そして恐ろしく静かだった。
銀色の光がかすかに反射した。
ナイフ。
世界が一瞬、止まるのを感じた私は覚悟を決めて目を閉じた。
さようなら、私の悪役令嬢ライフ.....
でも、次の瞬間。
身体が、勝手に動いた。
裾が翻り、靴の先が石畳をかすめる。
刃が、風を切る音を立てた。
血が滲むかと思ったが、何もなかった。
近い。
息が喉に詰まる。
逃げる、というより、ただ距離を取った。
ガランは一歩も動かない。
ただ、空振りしたナイフを静かに見つめていた。
その表情には、焦りも怒りもなかった。
何のつもりよこの男.....!
そして、微笑んだ。
何かが壊れたような、儚い微笑み。
「やはり、貴方様は.....」
口元から、ゆっくりとした声が零れる。
まるで、昔から私を知っているかのような声色だった。
胸の奥で血が脈打つ音がする。
ガランの靴音が、ゆっくりと近づく。
その音は静かで、正確で、まるで時を刻む音だった。
「申し訳ありません。手を滑らしてしまい.....」
声が、柔らかく届く。
絶対故意じゃないでしょあんた。
あの執事特有の、完璧な音程と抑揚。
だがその裏には、熱を持った何かが滲んでいた。
それは、狂気にも似たもの。
呼吸を整えようとするが、肺が拒絶する。
喉が痛く、声が出ない。
夢の時のあの感覚よりも落ち着いてはいる、いるのだが.....
ガランが一歩近づくたびに、空気が沈む。
灯りが消え、蝋燭が息絶えるように落ちていく。
ガランの唇が動いた。
声は低く、祈りのように。
「貴方は、私の主です。そして、私のものです。」
その言葉が、ナイフよりも深く刺さる。
心の奥で、何かが軋む。
怖い。
けれど、その声の中には、微かな哀しみがあった。
それが、余計に怖かった。
優しい声が、底なしに冷たい。
その声に、足が震え、恐怖が、皮膚の下を這い回る。
「さて、と。私は少し用事を思い出しましたので.....」
その声が、雷鳴に掻き消され、足音が、闇に吸い込まれていった。
屋敷の廊下は、しんと静まり返っていた。
風が通り抜けたような気配だけが、わずかに空気を揺らしている。
壁に掛けられた燭台の火は、さっきの雷でひとつ消えてしまっていた。
そのせいか、廊下の片側は闇の帯に沈み、まるで別の世界へと繋がっているように見えた。
光は、彼の瞳だけを残して消えた。
そこに映るのは、私だけ。
この屋敷で、誰よりも美しく、誰よりも孤独な存在。
私は冷たい壁に背を預けた。
息がうまくできなかった。
胸が上下するたび、喉の奥から焦げたような音が漏れる。
ナイフが通り抜けた瞬間の感覚が、まだ皮膚の裏に残っている。
刃の風。
あの一閃が、ほんの少しでも遅れていたら。
でもそれ以前に考えるべき事がある。
どうして、あの刃を避けられたのだろう。
考えた瞬間、背筋が冷たくなった。
息がまた浅くなる。
あれは、偶然?
違う。あの一撃は速すぎた。
風のような一瞬だった。
目で追えないはずの動きを、身体が勝手に、動いていた。
「........どうして。」
声が出た。
かすれていた。
自分の声が、まるで別人のように聞こえる。
足元に視線を落とすと、裾が破けている。
裂け目の中の白い布地が、まるで古傷のように痛々しい。
そう。
まるで古傷のように。
そう思った瞬間、胸の奥に鈍い違和感が走った。
まるで、知らない記憶が、血の底で疼いたようだった。
「........あの時も、こうやって。」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
腰の角度、肩の向き、視線の高さ。
どれも戦闘の構えそのものだった。
呼吸が整う。
心臓の鼓動が、まるでリズムのように規則正しく刻まれる。
恐怖ではない。
それは、冷静さだった。
研ぎ澄まされた静寂が、体の中に広がっていく。
まるで"慣れている"かのように。
意識の表層では、ただ恐怖を感じているだけ。
「なんで、私........」
呟いた声は、震えていなかった。
ただ冷たく、乾いていた。
廊下に立てかけてある鏡の中に映った自分の顔。
それは私の見間違えだったのだろうか。
軍服のような衣装。
鋼鉄の装具。
赤いスコープが片目に輝き、頬には血がついている。
無表情のまま、誰かを見下ろしていた。
息が止まる。
背筋を電流が走るような感覚。
瞬きをすると、鏡はただの鏡に戻っていた。
私はアザミール・ヴァルモント公爵令嬢。
何の変哲もない、美しい悪女。
けれど、指先の中にはまだ、鉄の匂いが残っていた。
なにかが、自分の中で眠っている。
それが、目を覚まそうとしている。
私は唇を噛むと血の味がした。
けれど、その痛みが妙に心地よかった。
自分が生きている証のように思えた。
何故、こんなにも冷静でいられる?
何故、恐怖が引かない?
何故、動けた?
頭の中に浮かんだ問いは、どれも掴めなかった。
まるで霧の中に手を伸ばすように、すり抜けていく。
けれど、答えは確かにどこかにあった。
今はまだ、思い出せないだけ。
記憶の奥に閉じ込められた「前の世界」。
銃声、血煙、指揮コード、戦闘命令。
それらの断片が、私の中で微かに共鳴している.....ような気がする。
「........ふふ、私........何を考えてるのかしらね。」
笑った。
けれどその笑いは、どこか引きつっていた。
「避けたのは偶然。そう、偶然よ。私はただの令嬢だもの。」
言い聞かせるように呟く。
けれど、言葉が空気に溶けていくとき、微かに胸が痛んだ。
そしていきなり、あの映像が脳裏に過る。
荒れ果てた都市。
崩れた鉄骨。
赤い空の下で、誰かが笑っている。
銃を構える自分。
黒い装甲服に包まれた手。
視界の端に、燃える街と.....任務完了という、冷たい電子音。
息が止まる。
胸を押さえる。
痛みではなく、違和感。
まるで、何かが"今"この世界で目を覚ましたような。
けれど私は、ただその感覚を押し殺すように目を閉じた。
「........違う。私はアザミール。悪役令嬢、ただの女。」
そう言い聞かせて、立ち上がる。
おかえり。
その声が、誰のものかを知るのは、もう少し先のことだった。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ってからもう一度、何故、と自分に問う。何故咄嗟に、あの冷たい銀の刃を躱すことができたのか。
ガランの笑みのあとの、あの一連の動きが目に焼き付いている。
刃をためらいなく、流れるように突き出したその所作。
執事としての仕草の美しさが、そのまま殺意の優雅さになっていた。
完璧さの裏に、どうしても許せないものが隠れている。
近未来で身につけていた何かが、覚醒しようとしている。
それだけでは説明がつかない。
脳が計算する前に体が動いた。
計算の余地を与えず、反射が先に立った。
私は昔から、無駄に鋭敏だった。
街灯の下の影の濃淡、夕暮れに落ちる人の横顔、耳に残る一拍のズレ。
これらが私の感覚を細く研ぎ澄ませていた。
その研ぎ澄ましは、悪役令嬢として生き残るための武器にもなった。
庭で受け取った花の籠が、部屋の空気を埋め尽くしていた。
花弁の柔らかさ、棘の鋭さ、そしてその香りの甘苦さ。
だが生き残るということは、単に刃を躱すことでは終わらない。
刃が刺さらなかった後に襲ってくるのは、別の重さだ。
安堵ではない。
心の中で小さな裂け目が拡がり、そこから後悔や恐怖、そして奇妙な空虚が溢れ出す。
そのすべてが、私の中でぐるぐると渦を巻く。
生きているときの痛みと、死んだ者が残していった静けさとが、混じり合って私の胸を重くする。
ガランが立ち去ったあとも、足先の震えは消えず、胸は重く、没入していた時間の温度が次第に下がっていく。
廊下には刃の跡と私の足跡と、散らばった花弁の痕だけが残る。
私はしばらく、動けず、少しずつ晴れていく外の様子を見ながら社交会への不安を感じた。




