三月三日、あなたはこの日が嫌いだった
あなたはひな祭りが好き?
いえ、おそらく好きではないのでしょう。
あなたはずっとひな人形を飾るのをめんどくさがってやらなかったし。
それに、三月三日はあなたにとって、いい思い出がない日だろうから……
二月の中旬頃のこと。
朝、リビングであなたはひな壇に人形を並べていた。
「今年もかざるんだな」
と今起きたところらしい、あなたの父――家田康成がひな壇の傍まで来て、言う。
「うん」
「今までめんどくさがってやろうとしてなかったのに」
「お母さんが、私と一緒にやりたがってたから」
「ああ、そうか、そういえば、美衣奈と毎年飾りたいとか言っていたっけ……」
「うん……去年までは、お母さんが一人で飾ってたけど、私も手伝えばよかったな」
そう言って黙々と壇にひな人形を置いていくあなたを悲しそうに見ていた康成は、ふと何かに気づいたようで、目を少し大きくして、あなたの胸を指差した。
「それ、お母さんからもらったお守りだよな?」
「うん、去年の初詣の時に、買ってもらったやつ」
「今日はなんで首から下げてるんだ?」
「こうしているとね、なんだかお母さんと一緒にいるような気になれるの」
そう言ってお守りに片手で触れるあなたを見て、康成は柔和に微笑んだ。
「そうか、じゃあ父さんも手伝うよ」
「仕事、遅刻しない?」
「大丈夫、まだ余裕はある、ちょっと手伝うだけだから」
と言うが、康成はその後、飾りつけにのめり込んでしまい、遅刻しそうになっていた。
時は流れ、三月三日、ひな祭りの日。
朝、あなたは段に並べられたひな人形を十秒くらい眺めた後、行ってきます、と言って家を出た。
あなたは学校に着き、教室に入ると、教卓の周りにクラスメイト達が集まってこんな会話をしていた。
「今日はひな祭りの日なんだってさ」
「ねぇ、みんなのうちはひな壇飾る?」
「あたしんちは二年前から飾ってない、お父さんもお母さんもめんどくさがっちゃって」
「うちは去年からかざってないなぁ」
「俺んちはかざったことないなぁ」
あなたは話に加わりたそうだったけど、内気な性格なため、その集団を通り過ぎ、一番後ろの自分の席へ向かった。
椅子に座って、ランドセルから教科書やノートを机の中に入れた後、なにもせずに教卓の方を見ているあなたに、エールを送る。
(ほら、なにしてるの、勇気を出して、話しかけるのよ、友達欲しいんでしょう? ファイト!)
突然聞こえてきた声に驚いたのか、あなたはきょろきょろと顔を動かしだした。
(ああ、もうそんなことしてると、変な子だと思われるわよ)
案の定、その様子を見ていたらしい女生徒があなたの元へ来た。
「家田さん、どうしたの?」
と言う利発そうな顔の女の子は、たしか藤倉さんだっけ。
「あ、その、えと……な、なんでも、ないの」
「なんでもないのに、きょろきょろしてたの? ふふ、変なの、面白いね、家田さんって」
「あ、はは、そう、かな」
「あ、そうだ、今さっきね、皆でひな祭りについての話をしていたんだけどね、家田さんちはひな壇をかざる?」
「うん、毎年かざってる……お母さんが去年までずっとひとりでやってたんだけど……今年は私がかざってるんだ、お父さんも手伝ってくれたの」
「へぇ、そうなんだ、素敵なお母さんだね」
「え、な、なんで?」
「ひな人形はね、女の子の幸せを願ってかざられるものなんだよ、だからね、家田さんはお母さんにすごく大切に思われているんだなって気がするの」
「そ、そっか、お母さんが、そんなに私のこと……」
あなたは涙をぽろぽろと流し始めた。
「え、どうしたの、急に、私、なんかひどいこと言った?」
「ううん、違うの、そういうわけじゃないの」
「なら、いいけど……あ、ハンカチ、いる?」
「うん、ありがと……」
涙をハンカチで拭うあなたを見ながら、藤倉さんは言う。
「私、家田さんのお母さんに会ってみたいな、ねぇ、今度さ、家田さんちに遊びに行ってもいい?」
「家に遊びに来るのはいいけど、でも、お母さんには、会えない」
「え、どうして?」
「お母さん、去年のこの日に交通事故に遭ったの、一緒に買いものに行ってるときに、信号のない横断歩道で、車にひかれて……私の目の前でそれが起きて……それから意識が戻らなくて三日後に死んじゃったの……」
「あ、そっか、そうだったんだ、その、なんか、ごめんね」
「ううん、いいの……その、お母さんはいない、けどさ、遊びに来てくれたら、嬉しいな」
「うん、行くよ、遊びに」
「え、へへ、やった」
それから、あなたは学校が終わるまで浮かれ気分だった。
いえ、終わった後も……か。
あなたはステップしながら、帰り道を進んでいた。
(よかったわね、友達ができて)
「と、友達、なのかな?」
(友達よ、家で遊ぶんだもの)
「え、ヘヘ、友達、初めて、できた……」
(これで満足せず、たくさん作るのよ)
「うん……て、さっきから、何なんだろう、この声。私にしか聞こえていないっぽいけど……」
(今更そこ疑問に思うの……)
「まぁいいや」
友達ができたことがとにかく嬉しいらしいあなたは、今は細かいことはあまり気にならないみたいだ。
機嫌良さそうに、好きなアニメの歌を歌いながら、あなたは歩いている。
そのうち、歌ったことでのどが渇いたのか、唐突に立ち止まり、ランドセルから水筒を取り出して、お茶を飲みだした。
シャアアアッ――
そのとき、こちらの方に自転車が向かってくる音が聞こえてきた。
マウンテンバイクが左方からあなたの方へ迫ってきているのを、私は視界の端で捉えた。
自転車に乗っている人はスマホの画面を見ていて、あなたに気づいていないようだ。
(危ない!)
と言うが、あなたはお茶を飲むことに意識を割いているせいか聞こえていないようだ。
(もう、しかたないわね……)
●
「え?」
と私は思わず声を出してしまう。
首から下げていたお守りのひもが急にちぎれて、お守りが地面に落ちて、前の方に転がっていった。
私は拾おうと前へ出ると、直後、すぐ後ろをものすごい音を出しながら、自転車が通りすぎていった。
「あ、あぶなっ」
去っていく自転車を見ると、乗っている人はスマホを見ていた。
運転するときはしないでほしいなあ……。
あ、そうだ、お守り!
と思ってそれがある方へ向くと、通りがかった人たちに、お守りはどすどすと踏まれまくっていた。
「ああ!」
慌てて駆け寄るが、ぼろぼろになっていた。
踏んだ人たちをむっとにらんでしまうけど、思い直す。
いや、あの人たちだって悪気があったわけじゃないし……。
それにしても……。
もしかして、お母さんが、私を守ってくれたのかな?
私はお守りをギュッと握りしめた……
* * * * *
あれからもう五年が経ったのか……。
リビングに飾られたひな壇を見て、あの日のことを思い出す。
お母さん、ありがとう、あのとき、お母さんが私を助けてくれたんだよね?
ねえ、時折聞こえたあの謎の声ってお母さんの声だったんでしょう?
あれ以来、もう声は聞こえなくなったけど、まだ私のこと、どこかから見守ってくれているって信じてるから。
私、昔は、お母さんが事故に遭った日だからこの日が好きじゃなかったんだけど、今は好きだよ。
だって、お母さんが私を助けてくれた日だから。
お母さん、私、あれから毎年ひな人形を飾っているよ。
将来、結婚して、もし女の子が生まれたら、毎年その子のために、ひな人形を飾ろうと思うの、お母さんが私のためにしてくれたみたいに。
「私、お母さんのおかげで毎日、幸せだよ、友達もね、たくさんできたの。ありがとう、お母さん」
あの日、ぼろぼろになってしまったお守りに、私はそう語りかけた。