第2話
職員会議から数日後の生徒指導部会では、当然このリボンの色の件が話題に出された。
指導部長の佐々木は、「落城」ということばを使った。最後まで許可することを渋っていた校長と幸阪ラインの城を陥落させたという意である。
そして次に落とさねばならないのが「傘城」だと言った。
この前の職員会議で校長から、規定の傘以外の傘を見つけたら、その場で取り上げるようにとの通達があった。そのことに関し佐々木はたいへん怒っていた。
生徒指導部を経由しないで、いきなり全職員に通達したからだ。
「だいたい、性格によって取り上げられる人と、取り上げられない人がいるんですよ」
梅澤も憤慨して言った。取り上げられない性格の人には、 幸阪は「教師失格」のレッテルを貼ってしまう。
前に創作ダンスの発表ということで全校生徒が午後、体育館に集まっていた。その時幸阪がそっと亮太に耳打ちした。
「校舎を見回ってこい。教室にひそんでいるやつがいるかもしれないからな」
さすがに亮太もムッとした。
“命令系統が違う。俺を動かしたかったら指導部長を通せ”と、よほどそう言いたかったが、なにしろ相手は学園一の実権者だ。しかたなく体育館を出たものの校舎を巡回する気にはなれず、校庭をぶらぶらと歩きまわって亮太は体育館に戻った。
亮太は生徒指導部という立場にはいるが、校則には納得いかないことが多かった。しかし抗うには、幸阪の圧力は大きすぎる。
それに何といっても重荷なのは、自転車通学担当という係だった。毎週二、三件は二人乗りの報告が他の教員からなされる。狭い田舎町だから、ちょっと町を歩けばすぐに生徒の姿を見かける。自転車二人乗りの生徒も、すぐに見つけてしまう。
だが、見つけた教員は生徒指導部の自転車係の亮太に報告すればそれで終わり。その生徒を呼び出して指導するのは亮太の役目だ。
時には逆ギレして怒る生徒あいる。もう頼むから二人乗りなんか見つけないでくれと、報告があるたびに彼は思う。
それだけでなく、その指導のやり方が甘い、もっと恐く叱れとまわりの教員は言う。
冗談じゃない、というのが彼の本音だった。恐く叱れば生徒も言うことをきくだろう。しかし外面だけ従順さを装っていても、内心不平不満が渦巻いていたら何になるかという持論が、彼にはあった。
それでも幸阪などは、「恐がらせてでも言うことをきかせるのが教育だ」などと馬鹿なことを言っている。
事実、幸阪はどの生徒からも恐がらねている。幸阪の言い分では、生徒を恐くれないのなら、 これまた「教師失格」ということだ。
もっとも、その二人乗りの件で呼び出して叱ったのが瑠璃だった。その時、亮太の心の中で彼女に対して何かがはじけたのだ。
それから二人は、急速に接近した。
本当は生徒とは禁じられている連絡先の交換もした。若い亮太はまだ担任を持っていない。瑠璃は亮太が授業を担当しているクラスの生徒に過ぎない。
もっとも担任でも把握しているのは家の固定電話か、それがない家庭は親の携帯番号だけだった。
亮太はすべての生徒を友人と思い、自分と同レベルに見ていた。少なくとも子供とは思っていなかった。
そこに他の教員とのギャップが生じてくる。事実、今、琉璃を愛している。彼としては本気だ。
もちろんこのことを知ってい教員も生徒もいない。知られることを恐れている。
別に彼に妻子がいるわけではなく、独身だ。二十六歳の亮太と十八歳の瑠璃は、年齢にしても八歳しか離れていない。
それなのに生徒と恋愛をしたら教師失格、教師だから生徒を好きになってはいけない、そんなことは理不尽なことにしか思えない。
たまたま自分の職業が教師だっただけで、八百屋や靴屋などと同じレベルのひとつの職業だ。
八百屋の店員が客の娘と恋におちたとて、誰もとがめないだろう。男と女の出会いを教師と生徒だからといってあれこれいうのは、どう考えたって理不尽だ。
このことにしても校則のことにしても、理不尽で世の中は固められている。自分は教師である前に、一側の人間なのだと彼は叫びたかった。
亮太は学校で他人の耳がある時以外は、琉璃に自分を 「先生」とは呼ばせなかった。自分は「先生」と呼ばれるほど偉くないと思っていた。できればすべての生徒からも「先生」とは呼ばれたくなかったのだ。
だが、他の教師は違う。
月曜の朝には週一回の全校朝礼で校長が話をするが、ある時一度だけ幸阪が話をしたことがあった。内容は「勉強しろ、勉強しろ」の繰り返し、生徒の列の後ろで聞いていた亮太はうんざりしていた。
週の始めのすがすがしい朝に、なぜこんな話題で生徒の心を暗くしなければならないのかと腹立たしくもあった。
職員室……心が見えない大人たちがいる。心を見せるのがいけないと、誰もが思っている世界。笑顔の形の孤独。
すべての教師同士の会話が、亮太の頭の上を飛んでいく。
建て前、虚飾、すれ違い、空虚、他人の目に対する気遣い。 そして使命感(何に対する使命感なのか、亮太にはわからない)。それらをすべて正しいと思っている大人たちの世界……。
そんな職員室の席で小テストの点数を控えるため、亮太は教務手帳を開いていた。
琉璃のクラス。左端に印刷された生徒名簿が切り貼りされている。
その並んでいる名前のひとつ……「田村瑠璃」の四文字が突然輝きだす。
琉璃の笑顔が目に浮かぶ。
しかしふと現実に帰った時、その四文字はたくさんの名前の列のひとつに戻ってしまうのだ。