6畳半、夏、そよ風
このお話は現在制作中の漫画作品の小説版となります。人が頑張ろうと思うきっかけは人との出会いももちろんですが、物との出会いもあるかもしれません。貴方の部屋にある物たちもきっと貴方のことを応援していますよ!
『夏が来ました、今年もよろしく千恵ちゃん』
どうも、「そよ風扇風機」の愛称で親しまれている僕が、六畳半の千恵ちゃん宅にやって来て、早四年。僕の風に当たりながら涼む千恵ちゃん。見てよ、この幸せそうな顔。今年も僕大活躍。
「ちーえー、何でこの家、エアコン無いの」
なんだ失礼な奴。
「あ、俊ちゃん、もうシャワー終わった?」
俊ちゃんが千恵ちゃんに纏わりつく。
「エアコン代高いし、買った後も光熱費高くつくし」
「ごめんね、うちのバイト代が安いばっかりに」
暑いのなら離れたら良いのに。俊ちゃんは千恵ちゃんのバイト先の店長だ。
「違う違う、そう意味で言ったんじゃないよ」
「冗談だよ、千恵はそんな嫌味言う奴じゃないもんなー」
千恵はという言い方に僕は引っかかった。
「うちにはこの子がいるじゃない」
千恵ちゃんは誇らしげに僕を見た。
「私もシャワー浴びて来る」
千恵ちゃんがシャワーを浴びに行くとき、買い出しに出るとき、俊ちゃんは決まって電話をかける。そして電話口の相手に嘘をつく。
「もしもし京ちゃん?今は実家、うん母親が飯食いに来いってうるさくて。うん、今夜ね、予約したよーもちろん窓際の席。じゃあまた後で」
俊ちゃんが帰ったすぐ後、千恵ちゃんが二人分の食器を洗っている所にインターホンが鳴った。勿論モニターなんか付いていない。千恵ちゃんは直接扉を開ける。不用心だよ千恵ちゃん。
「どしたの?俊ちゃん忘れ物…」
どん。扉が開いた瞬間、千恵ちゃんに抱きついて来た女の子、広香ちゃんだ。
「千恵ちゃん、宿題見てー」
お隣さんちの広香ちゃんは、母親と二人暮らし。母親の仕事が終わるまで千恵ちゃんちで宿題をしながら過ごす。
僕は二人に優しく風を送る。
「すごい、千恵ちゃんの説明で分かった!鈴木先生のは分かんなかったのに」
千恵ちゃんは広香ちゃんの為に、色々参考書を買って夜遅くまで予習をしている。けれどそのことを千恵ちゃんは決して言わない。
「聞いてよ千恵ちゃん、鈴木先生にね、分数の割り算ひっくり返してかけるの意味分かんないって言ったら、そういうルールだからそう覚えろって、そんなの変じゃない?」
広香ちゃんは時折、妙に確信めいたことを言う。千恵ちゃんは暫く黙ってしまった。
「千恵ちゃん?」
「…広香ちゃんは凄いね、私は何も考えずに先生の言う通りにしてたかな。」
「えー、嫌じゃないの?」
「嫌…だよね」
宿題を終え寛ぐ二人。僕に向かって「我々は宇宙人だー」なんて言っている。そうこうしていると、広香ちゃんのお母さんが迎えに来た。部屋は静かになった。
そんな日々を送りあっという間に八月に入った。僕が今年稼働を始めて二ヶ月ほどが経っていた。夏も本番だ。
七、八、九回…僕は千恵ちゃんがマスカラを塗る回数を数えていた。俊ちゃんとシフトが同じ日、千恵ちゃんの睫毛は蜘蛛の脚みたいになる。髪は一つ結びを途中何箇所かゴムで縛って膨らみと絞った部分を作って、まるで芋虫だ。
「行ってきます」
あ、千恵ちゃん今日の夜は雨だよ、傘!僕の声なんか届くはずはない。千恵ちゃんを見送った後、僕はしばし眠る。今日も千恵ちゃんが元気に帰ってきますようにって祈りながら。
私のバイト先はパチンコ屋だ。近所なのと、時給が高めだから選んだ、それだけだ。音と煙草の煙にはもう慣れた。
「千恵ちゃん、休憩入ってー」
イヤホンから俊ちゃんの声が聞こえる。
「了解です」
私はこの声が好きだ。
二階にある休憩室に入る。お昼休憩を取っている人、バイト終わりで寛いでいる人、四人ぐらいがテーブルを囲んで談笑していた。その中に、見慣れない人がいた。
「京子さん、差し入れありがとうございますー」
「バイトの皆んなで食べてね、店長の分は残さなくていいから」
テーブルの上にシュークリームが沢山載っていた。人だかりから離れた所で、私はコーヒーを飲む。マグカップは俊ちゃんに貰った物だ。バイト仲間の一人が声をかけてきた。
「千恵ちゃんもシュークリーム貰いなよ。美味しいよー」
私はそれには返事をせずに尋ねた。
「あそこに居る人誰?凄い綺麗な人だね」
「あ、京子さん?そっかー千恵ちゃんは被ってないか。前にここでバイトしてたんだよ。今はどっか大手の受付やってるんだってー。店長の彼女だよ。付き合い長いみたい。」
私は持っていたマグカップを落としてしまった。床に叩きつけられたマグカップは盛大に割れ、中身のコーヒーも飛び散った。
「ちょっと!千恵ちゃん大丈夫?」「どしたどしたー?」「雑巾どこだっけ」皆んなの注目が集まった。私はしゃがんでマグカップの破片を集めようとした。顔を上げられない。俊ちゃんの彼女だという人の視線が痛かった。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私は何に謝っているのか分からなかった。破片で人差し指を切ってしまった。
「これ使って」
俊ちゃんの彼女は私に絆創膏を渡した。顔を上げられず、絆創膏を見つめていた。そんな私に彼女は呟くように言った。
「気をつけて。跡、残んないと良いね」
そう言った彼女はどんな表情をしていたのだろう。私はついぞ顔を上げられずにいた。
深夜零時を回った。モニター室に私は俊ちゃんと二人でいた。ホールで清掃のおばちゃん達が気だるそうにモップ掛けをしている様子が、カメラに映っていた。
「今日彼女さん、来てましたよ」
言いたい事はいっぱいあったはずなのに、それだけ言うと次の言葉が出てこない。
「あー、ね。どうする、有給消化する?明日から使ってもらっても大丈夫だけど。」
この部屋こんなに寒かっただろうか。小学校のプールを思い出した。私はいつも唇が青くなる子だった。そんな事を思い出していたら俊ちゃんが続けた。
「嫌でしょ?もう俺と一緒に働くの」
唇が青くなっても、どんなに寒くてもプールから出たいですが言えない子供だった。あれはなぜだったのだろう。
「そうですね」
広香ちゃんだったらこんな時なんて言うんだろう。そんな情けない事を思った。
遅いな。僕は千恵ちゃんの帰りを待っていた。外は大雨だ。千恵ちゃん大丈夫だろうか。
玄関が乱暴に開けられた。明かりがついた。「千恵ちゃん!」良かった、帰ってきた。でもずぶ濡れだ。そのせいで僕は最初気付かなかった。千恵ちゃんが泣いていることに。千恵ちゃんが僕の前に座る。スイッチを押して、弱風に変更した。その指には絆創膏が巻かれていた。途端、千恵ちゃんは慟哭した。こんな千恵ちゃんを初めて見た。
どれくらい経ったろう。僕はふっと畳を見た。千恵ちゃんが最近、よく手に取ってはため息を付き、捨てられずにいるチラシがあった。それは自宅で学習塾を開く先生を募集していると言うものだ。千恵ちゃんは子供が好きだし、教えるのも上手だ。でもきっと自信が無いんだと思う。相談する人も後押ししてくれる人もいない。でも僕がいるよ。千恵ちゃんがどれだけ頑張り屋なのかずっと見てきた僕がいる。千恵ちゃんならできるよ。そしてそれを伝える術が、僕にはたった一つだけある。
千恵ちゃんの涙を吹き飛ばせたらいい。心に風穴を開けられたらいい。
僕は出せる限り最大の風を畳めがけて送った。チラシは勢いよく舞い、千恵ちゃんの正座された膝に落ちた。
千恵ちゃんは一瞬何が起こったのか分からないようだった。そりゃそうだ。弱風に設定してあるのにこんな強風が吹いたんだ。千恵ちゃんはチラシを手に取ると、僕を見て言った。
「私にやれっていってるの?」
千恵ちゃんの涙は止まっていた。
一年後、この六畳半の部屋に子供達の声が響き渡る。
「千恵先生、できましたー」
そこには広香ちゃんの姿もある。髪をショートにした千恵ちゃんが子供たちに微笑む。エアコンも取り付けられた。それでも僕は変わらず、今日も風を送る。
読んでいただきありがとうございました!誰かの背中を押すそんな作品をこれからも書いて(描いて)いきたいです。