篁壮一郎という男
グラスの中で、氷が一つカランを音を立てた。
琥珀糖を食べて過去へと戻っていった花月を見送った壮一郎は、カウンターに座ったまま「寂火」を巻いていた。
指先に葉を取り、器用に巻いていく。一つずつ丁寧に、ざわめく心を鎮める儀式のように。
今、花月はどのあたりの出来事を見ているのだろう。
どこまで、見ているのだろう。
想いを馳せれば行き着くのはあの処刑の日だ。
白銀夜叉として幾多の罪人の首を落として来た頃、罪人の名前さえも知らされることは無かった。
どのような罪状で、どのような経緯で斬首となるのか、一切は伏せられたまま処刑当日に呼ばれる。
命じられるがまま、目の前の罪人に白銀を落とす。
そのことに不満を感じたことはなかった。
前もって経緯を知ってしまえば、どうしても罪人の背景を考えてしまい、手元が狂う。
いかにして苦しませずに死なせてやれるか。ただそれだけを考えて、淡々と首を落としていく。それで十分だった。
思えば自分という存在は、生まれた時から死と穢れが染みついていたように思う。
初めて殺したのは、自分を生んでくれた母だった。
鬼に孕まされた娘が一夜にして臨月となり、翌朝には内側から裂かれた腹の上に座っていたという幼い自分。大人たちは「鬼の子」と呼んだ。
その時のことを、壮一郎は今でも思い出せる。
恐怖と絶望と狂気に満ちた暗い場所から、必死に手を伸ばした。そこから出たいと願ったその先が、何処までも血塗られた道だったのだ。
不気味な鬼の子を忌み嫌い恐れた村人たちは、二束三文で人買いに売り渡した。
力の強さを買った大道芸人の元で、道端で掛け試合のようなことをしながら日銭を稼いでいた。
初めて花月に出会ったのは、そんな頃である。
あの年は疫病が流行し、あちこちで人が死んだ。
病を治すための薬も買えない、祈禱をも受けられない貧民たちは、まるで野ネズミのようにバタバタと死んでいったものだ。
そんな時、貧民窟を訪れる少年がいたのだ。
細い身体。年の頃は同じぐらいか、彼の方が幾つか下だろうか。
柔らかそうにうねる桜の色の髪。一見して人ではないと分かった。同族であると、気配で分かった。
それでも彼が手を翳せば、病人の顔色がみるみると回復していく。
少年は何の謝礼も受け取ろうとせず、手を合わされることさえ恥じらうように逃げていく。
(俺はあの時に――こんな綺麗なことが世の中にあるのかと思った)
それから自分は腕の強さを聞き付けた男に誘われ、宮中へ上がった。
上がったとはいえ、そこは穢れの地と呼ばれる下級役人たちの詰め所だ。
元犯罪者だという男は、罪人の尋問や拷問を手伝う、放免という役職の最下級役人だった。
年を取って引退を控えた首切り役の代替わりとして、連れて来られたのである。
まさかそれから数年後、貧民窟で見かけた少年が青年となり、宮中に召し上げられてくるとは思いもよらぬまま――。
◇
初めての出会いは、程なくしてやってきた。
月の明るい夜だったと壮一郎は記憶している。だがそれは記憶違いかもしれない。
どこをどう歩いてきたものか、道を間違えた花月が紙垂の揺れる一画まで歩いてきたのだ。
「戻りな。――ここから先は、あんたが来るところじゃねえ」
闇の中から声を掛けた壮一郎に、花月は驚かなかった。
「そうかな。懐かしい感じが――するんですけど。導かれたんじゃないかな」
その一言だけで、全てが分かってしまった。
「いや。似合わねえな。あんたには」
「……そうでしょうか。あなたも、本当はここにいてはいけない人ですね」
その言葉の温度が、壮一郎の胸の奥にじわりと染み入って来た。まるで凍てついた冬の日に、温かな火に手を翳すように。
◇
それからどれだけの友誼を築いてきたことだろう。
(俺を信じきれていなかったのは、お前の方だぜ花月――)
巻き上がった寂火を一つ一つ箱に並べながら、壮一郎はきつく顰めた眉の下で瞼を伏せた。
だがそれを責める気はない。
あんなにもボロボロにされ、徹底的に尊厳を奪われて、何もかも信じられなくなっていたのだろうから。
いつから捕らえられていたのか。どれだけの日々を苛まれ続けたのか。
何も――何も知らなかった。
毎日のように来ていた花月が、ふと訪れなくなった。最初は皇子の世話に掛かり切っているのだろうと思った。
皇子は身体が弱いと聞いている。きっとまた病に伏せ、それを治しているのだろうと。
十日以上を過ぎた時、嫌われたのかと思った。
お互いにとはいえ、自分は随分と遠慮のない物言いをしていたし、花月はそれを黙って胸の内に秘めていたのかもしれないと。
それ以上を過ぎた時、ふと、不穏な心持ちがした。
何かあったのかと。
だが花月は帝と皇子のお気に入りだ。それほどの後ろ盾があれば、何が起こるはずもあるまい。
それよりも、他にもっと心が休まる相手が見つかったのかもしれないと思ってしまったのは、自分の引け目だろうか。
できれば花月は、こんな穢れた地ではなく、きれいな場所で、想い人の美しい姫と恋をしていて欲しい。
美しい姫君と花月が抱き締め合う姿を思い描き、絵画のような美しさに恍惚とした。
処刑の日に引き出されてきた罪人が――乱れ切ったあの桜色の髪が、花月だと理解するまでは。
遠目から、信じられない想いだった。
もっと近くに行って確かめたいと脚を速めた。
ついこの前まで、庭の切り株に腰掛けて軽口を交わしていた姿が、目の前に差し込まれるように思い浮かぶ。
別人のように変わり果てた、壊されきったその姿に、震えるほどの怒りが湧いた。
それを当然のような顔で引き立てている役人たちに、心の底から侮蔑が湧いた。
権力に媚び諂う汚らしい顔が、汚らしい手が、花月を取り囲み抑え付けている。そう思った瞬間、はっきりと思った。
(花月に触るんじゃねえ)
こいつをここに置いていてはいけない。
罪人が――花月が、こちらを見て笑った、気がした。
助けを求めているのだ。
ああ当然だ助けてやる。ここにいる全員を呪い殺しても、お前を抱えて逃げてやる。
だがその前に、お前をこんなふうにした放免たちだけは。
こいつらだけは、絶対にこの手で斬り殺す――。
花月の腕を掴んだのは、助けるための演技だった。
あの一瞬のうちに、振り上げた白銀が放免たちの頭を刈り取るように地に転がした筈だったのに。
過去に戻るでもなく、あの日の光景は目を閉じれば鮮やかに瞼の裏に甦る。
花月の全身から、凄まじいまでの力が溢れ出し、辺り一面を一瞬で飲み込んだ。
鬼の力の暴走。
限界まで至った絶望が、全てを破壊する光となって渦を巻いて広がってゆく。
「止せ、花月――!!」
留めようとしたその手は眩いまでの光に阻まれ、踏みしめていた地が激しく揺れる。
だがその感覚も覚束なくなった。
検非違使たちを呪い殺そうとした壮一郎の呪いの力と、無意識の花月の呪いの暴走が、拮抗して強力な磁場の歪みを作り出したのだ。
皮肉なことにその中心にいる二人だけが、力の暴走から守られていた。
遠くから大勢の悲鳴や激しく何かが壊れる物音が聞こえる。
「花月!!」
必死に呼んだ声も地場の歪みに掻き消えてゆく。
もはや花月自身も自分の暴走を止められないのだろう。
止めてやらなければ。
こいつは、花月は、花月だけは、きれいなままでいなければ。
その瞬間、何か大きな掌に掬い上げられるかのように、フッと磁場が整った。
同時に、辺りが深い深い暗闇に包まれたのだったか――。
◇
青い照明に、葉巻の煙がけぶる。
まだ花月は戻らない。
会えたのだろうか――渡したい言葉は、渡せたのだろうか。
呪いが全てを巻き込み、宮中にいた者たちばかりでなく、その地場全てを跡形もなく消し去ったあの時。
自分を花月を世界から切り離したのは、一体何だったのかは分からない。
その存在に既存の呼び名を容易く当てはめることを、壮一郎はしたくなかった。
その存在は、声なき声で花月に贖罪を命じた。声を聞いた訳ではないが、魂の奥底に確かに命じられたのだ。
殺した数だけ、人間の苦しみを一つずつ丁寧に解きほどき、心を救えと。
そして自分には、花月を見張ることを。
目が覚めた時には、世界は変わっていた。
元いた帝の治世は別の帝の治世として上書きされ、全てが無かったこととして歴史から抹消されていた。
この世は時折、そういうことが知らぬ間に起きている。
「……笑えねえ話だ」
独り言ちながら、唇の端から細く煙を吐き出す。
誰に言われずとも、花月がそうして生きていくなら、幾らでも付き合うつもりだった。
だが――。
もう一度繰り返された平安の世から現在に至るまで、もはや十分に花月は人々の苦しみを紐解いてきた。もう十分に贖罪は成されたはずだ。
それでも甘味処を畳まないのは、許されるのが怖いからなのだろう。
否、許される資格がないと思っている。一方で、許されたいとも願っている。
自分のための菓子を何度も作り直しては懐に大事に隠している。それが全てを物語っているではないか。
だからこそ、背中を押したのだ。
過去に戻り、許されて来いと。きっと皇子も蓮寿姫とやらも、花月が愛した人間ならば、もう恨んではいるまい。
「……行っちまえ」
もう楽になればいい。
あの日の誤解など、永遠に解けなくていい。
解けてしまえば、あの優しい花月はまた、本当は助けようとしていた友人を千年も恨み続けていたことを、酷く引け目に感じてしまうだろうから。
恨み続けてくれていい。
構わないからそのまま、美しい人たちに導かれ――赦される場所へ還って行けばいい。




