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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
第四章 花月
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白銀夜叉

 瞬きのうちに時空を超えて、花月は数日後の帝の部屋にいた。 



 皇子が帝の御帳台の前で必死に何かを訴えている。

 小さな手で御簾を掴み、泣きもせず、声を張り上げることもなく。


「お父様、聞いて。花月じゃないよ。花月は、そんなことしないよ。本当だよ」


 帝は床に伏せたまま、目を閉じている。

 返事はない。肯きも、否定もない。

 その沈黙が肯定として扱われることを、皇子はまだ知らなかった。


「花月はね、僕が熱を出したとき、ずっと手を握ってくれてたんだよ。いろんなお話してくれたんだよ。鬼じゃないよ。とっても優しいんだよ。呪いなんて、そんなおそろしいことできる人じゃないんだ」


「さぁ、皇子」


 女房の手が、やわらかく、しかし逆らえない力で肩に置かれる。


「帝はお休みになられます。皇子のお言葉は届いておいでですよ」

「でも……」

「さぁ」

 諦めたように項垂れた皇子は、そっと御簾の向こうに声を掛ける。

「お父様、早く元気になってね。明日、また来るから。花月を助けて」

 

 引き離される間際、皇子は縋るように御簾を振り返った。

 そして父帝に訴え足りない想いを、傍らの女房に訴える。


「花月はいじめられてない? 花月に会いたいよ。会わせてよ」


(――皇子様)

 目の前を光景を見つめながら、不可視の存在である花月は胸の中心を握り締めた。

(知らなかった)

 知る由もなかった。

 まさかあの小さい皇子が、こんなにも胸を痛めて、こんなにも必死に訴えかけていてくれたなどと。

 自分のために、こんなにも小さな背中が必死に戦ってくれていたのかと。

(それを、僕は……)

 苦い悔恨の中できつく目を閉じた、その瞬間、花月は蓮寿の部屋にいた。



 ◇


 

 錦の屏風や几帳で絢爛に設えられた姫の部屋――。

 千年越しに初めて見るその室内は、しかし部屋の華やかさとは裏腹な空気が流れていた。


「聞いておくれ。何かの間違いですよ」


 そこにじっと坐していることも落ち着かぬ様子で、姫は女房たちに訴える。

 声を荒げることも、命じることもない。

 生来そのようなことをしたこともない姫にとって、それが精一杯であるという風情で。


「花月は皇子を治してくれた恩人ではありませんか。帝の御身に害をなすなど、理由がありません」


「はい、然様でございましょうね」

「そうですとも。わたくし共も姫様と同じ心持ちでございます」


 優しい相槌は、子供の話を聞き流すような調子で取り付く島もない。


「お父様に、お会いしたいのです」


「まだ伏せておいででございます」


「ではせめて、花月を見舞わせておくれ」


「まぁ姫様! なんと恐ろしいことを!」

 穢れがうつる、はしたない、そんな言葉が口々に姫を窘める。


「おまえたち、いつもそのようなことばかり……」


 そびえ立つ屏風の向こうに進めない。そんな風情で蓮寿は膝の上で手を握り締める。

 力を込めた爪が白くなるほどに。

 何もできない。

 声はあるのに、届かない。

 ――なぜわたくしは何もできないの。

 言葉にせずとも全身から溢れ出す想いが見て取れる。

 堪え切れずに零す涙が、震える小さな肩が、彼女の感じる圧倒的な無力を教えてくる。


(蓮寿姫……)

 不可視のまま、花月はそっと姫の傍らに跪き、その髪に手を伸ばした。

 遠い昔、触れることさえ叶わなかった指は、もはや記憶の幻となった姫に今もなお届かない。

 それでも花月は、壊れ物に触れるように、蓮寿の頭をそっと撫でた。

(蓮寿……)

 手触りは無くとも。応えはなくとも。

 声を殺して肩を震わせ、身を縮めて静かに泣く彼女を、せめてこの時代の自分に代わり慰めるように。

(蓮寿……)

 自分は、この健気な人を、殺してしまったのだ。

 憎しみと絶望の淵で。

(僕は……罪人だ)

 次々に零れ落ちる姫の涙を拭うことさえできず、花月は膝の上に顔を伏せた。





 花月が顔を上げた時、そこは晴れやかな空の下だった。

 穢れた地と呼ばれる区画にも青空は広がり、陽光は降り注ぐ。

(ああ、この日だ)

 誰に教えられるまでもなく、花月はこれがいつのことなのか分かる。 



 二度目の尋問が終わった翌日、帝の病状は急速に悪化した。

 もはや回復の見込みはなく、床に伏せたまま意識も定かではないという。

 その報せが宮中を巡ったとき、花月に対する詮議は、事実上の意味を失った。


 三度目の尋問を待つ理由は、もうない。

 真偽を究める必要も、黒幕を確かめる必要もない。

 帝を呪ったとされる者は、もはや帝が崩れ落ちゆくことが避けられぬとされた中で、生かしておくには不吉すぎた。


 ――処刑。


 それは誰の口からともなく決まり、誰も異を唱えなかった。

 あたかも最初から、そうなる運命であったかのように。


 花月がそれを知らされたのは、薄暗い牢の中だった。

 知らせ、と呼ぶほど丁寧なものではない。

 鍵の音と、短い命令。それだけだ。


「立て」


 放免が乱暴に縄を引き、花月の身体を起こす。

 だが花月の身体は、もはや立つことさえ叶わなかった。

 片膝は既に砕け、歩くことができない。肋骨のいくつかは折れ、ままならぬ呼吸の合間に血を伴う咳が出る。折れた腕は枯れ木のように、あり得ない捻じれ方をしていた。

 両側を担ぎ上げられる衝撃に気を失い、引き摺られる感覚に意識が戻る。歩けぬ脚が僅かな段差に触れるだけで、骨盤が割れるような痛みが走る。

 それでも、花月は声を上げなかった。

 声を上げるだけの体力が、もう残っていなかった。

 向かう場所は、宮中からは勿論のこと、牢からも更に遠い。

 処刑という最も穢れた行為がなされる地は、できる限り遠ざけられた場所で無くてはならなかった。


 髪は乱れ、幾重にも絡まって蛇のように肩を覆い、かろうじて身体に巻き付いた布地は血と埃で色を失っている。身体中は打撲痕で奇妙な模様のように変色し、あちこちが腫れ上がっている。

 落ち窪んだ眼窩に虚ろな目で、何も見えていないかのような花月の姿は、もはや「鬼」と呼ばれるにふさわしい形を与えられていた。


 庭師や下働きの者など、偶然にも行き交ってしまった人々は、ただ見ないふりをする。


 ――鬼が正体を現した。

 ――あれが本来の姿なんだ。

 ――恐ろしい恐ろしい。


 その囁きに、不可視の存在である今の花月は理解した。

 自分はこの時、既に「処刑されるに相応しい姿」に仕上げられていたのだと。

 そしてここから、最も見ていたくない場面に差し掛かるのだと。


 穢れの地の最果て。

 放免たちの詰め所を越え、さらに先。

 宮中から最も遠く、最も人の記憶に残らない場所に、筵が用意されていた。

 そこが斬首のための場所だった。

 放免たちが筵の上に花月を座らせる。

 しかし膝が砕けた花月は、もはや座っていることすらできない。


「これでは首が切れぬ」

 見届け役の検非違使が言えば、放免が両側から腕を取って支えた。

 その時。

 道の向こうから、一人の男が歩いて来るのが見える。


 朦朧とした風情で花月がそちらを見た途端、はっと息を呑んだ。

 そんな過去の自分の姿に、今の花月は目を背ける。


 見覚えのある歩き方。

 無駄のない足運び。

 腰に帯びた刀の白銀が、鈍く光る。


 白銀夜叉。

(壮一郎……)


 その姿を認めた瞬間、花月の中で、何かがほどけた。

 張り詰めていた糸が、音もなく切れ落ちる。


(来てくれた……)


 理由など考えられない。彼の役職さえ、朦朧とした思考から抜け落ちていた。

 ただ、嬉しかった。

 唯一無二の友が来てくれたのだと。

 かつての自分の心が、今の花月には痛いほどに分かる。

 流れ込む自分の感情と、これからの光景に、堪らずに俯いて耳を塞ぐ。


(きっと……無実を、晴らしてくれるんだ。そのために来てくれたんだ)


 当時の自分の胸の奥には、ひどく幼い安堵が広がっていた。

 痛みが、少しだけ遠のいた気がした。

 ほんのわずかだけ、息が楽になる。歓びが胸の内に満ち、込み上げた感情が渇いた眼球をぶわりと潤わせた。


 壮一郎がこちらへ向かってくる。

 間違いなく、こちらへ。


(ああ……壮一郎、壮一郎、壮一郎)


 呼びたかった。

 いや、声にならない声で、名を呼んだ。


 次の瞬間。


 壮一郎の青すぎるほど青い双眸が、自分を射た、気がした。

 大きな双眸が、息を呑むほどの怒りと侮蔑に燃えている。


「……ッ」

 胃の底まで冷えるような本能的な恐怖に、花月の思考が途切れた。


 どうして。

 そんな目で僕を見るんだ。


 これだろうか。この瞳に射すくめられる感覚に、罪人は気を失ったのだろうか。

 待ってくれ、違うんだ。

 訴える間もなく、白銀夜叉の大きな手で折れた腕を掴み上げられる。


 どうして。

 信じてくれないのか。僕を信じてくれないのか。

 君が殺すのか、僕を。

 躊躇いもなく、何も聞いてくれることもなく、そんな目で。

 僕の首を落とすのか。

 そのために来たのか、壮一郎!



 一気に押し寄せてきた絶望に、花月の中で全ての世界が灼け落ちた。

 目の前の光景がぐるりと回り、思考が白く霞んでゆく。

 白銀夜叉の容赦なく振り上げた白刃が――陽の光を浴びてギラリと煌めいた。





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