白銀夜叉
瞬きのうちに時空を超えて、花月は数日後の帝の部屋にいた。
皇子が帝の御帳台の前で必死に何かを訴えている。
小さな手で御簾を掴み、泣きもせず、声を張り上げることもなく。
「お父様、聞いて。花月じゃないよ。花月は、そんなことしないよ。本当だよ」
帝は床に伏せたまま、目を閉じている。
返事はない。肯きも、否定もない。
その沈黙が肯定として扱われることを、皇子はまだ知らなかった。
「花月はね、僕が熱を出したとき、ずっと手を握ってくれてたんだよ。いろんなお話してくれたんだよ。鬼じゃないよ。とっても優しいんだよ。呪いなんて、そんなおそろしいことできる人じゃないんだ」
「さぁ、皇子」
女房の手が、やわらかく、しかし逆らえない力で肩に置かれる。
「帝はお休みになられます。皇子のお言葉は届いておいでですよ」
「でも……」
「さぁ」
諦めたように項垂れた皇子は、そっと御簾の向こうに声を掛ける。
「お父様、早く元気になってね。明日、また来るから。花月を助けて」
引き離される間際、皇子は縋るように御簾を振り返った。
そして父帝に訴え足りない想いを、傍らの女房に訴える。
「花月はいじめられてない? 花月に会いたいよ。会わせてよ」
(――皇子様)
目の前を光景を見つめながら、不可視の存在である花月は胸の中心を握り締めた。
(知らなかった)
知る由もなかった。
まさかあの小さい皇子が、こんなにも胸を痛めて、こんなにも必死に訴えかけていてくれたなどと。
自分のために、こんなにも小さな背中が必死に戦ってくれていたのかと。
(それを、僕は……)
苦い悔恨の中できつく目を閉じた、その瞬間、花月は蓮寿の部屋にいた。
◇
錦の屏風や几帳で絢爛に設えられた姫の部屋――。
千年越しに初めて見るその室内は、しかし部屋の華やかさとは裏腹な空気が流れていた。
「聞いておくれ。何かの間違いですよ」
そこにじっと坐していることも落ち着かぬ様子で、姫は女房たちに訴える。
声を荒げることも、命じることもない。
生来そのようなことをしたこともない姫にとって、それが精一杯であるという風情で。
「花月は皇子を治してくれた恩人ではありませんか。帝の御身に害をなすなど、理由がありません」
「はい、然様でございましょうね」
「そうですとも。わたくし共も姫様と同じ心持ちでございます」
優しい相槌は、子供の話を聞き流すような調子で取り付く島もない。
「お父様に、お会いしたいのです」
「まだ伏せておいででございます」
「ではせめて、花月を見舞わせておくれ」
「まぁ姫様! なんと恐ろしいことを!」
穢れがうつる、はしたない、そんな言葉が口々に姫を窘める。
「おまえたち、いつもそのようなことばかり……」
そびえ立つ屏風の向こうに進めない。そんな風情で蓮寿は膝の上で手を握り締める。
力を込めた爪が白くなるほどに。
何もできない。
声はあるのに、届かない。
――なぜわたくしは何もできないの。
言葉にせずとも全身から溢れ出す想いが見て取れる。
堪え切れずに零す涙が、震える小さな肩が、彼女の感じる圧倒的な無力を教えてくる。
(蓮寿姫……)
不可視のまま、花月はそっと姫の傍らに跪き、その髪に手を伸ばした。
遠い昔、触れることさえ叶わなかった指は、もはや記憶の幻となった姫に今もなお届かない。
それでも花月は、壊れ物に触れるように、蓮寿の頭をそっと撫でた。
(蓮寿……)
手触りは無くとも。応えはなくとも。
声を殺して肩を震わせ、身を縮めて静かに泣く彼女を、せめてこの時代の自分に代わり慰めるように。
(蓮寿……)
自分は、この健気な人を、殺してしまったのだ。
憎しみと絶望の淵で。
(僕は……罪人だ)
次々に零れ落ちる姫の涙を拭うことさえできず、花月は膝の上に顔を伏せた。
◇
花月が顔を上げた時、そこは晴れやかな空の下だった。
穢れた地と呼ばれる区画にも青空は広がり、陽光は降り注ぐ。
(ああ、この日だ)
誰に教えられるまでもなく、花月はこれがいつのことなのか分かる。
二度目の尋問が終わった翌日、帝の病状は急速に悪化した。
もはや回復の見込みはなく、床に伏せたまま意識も定かではないという。
その報せが宮中を巡ったとき、花月に対する詮議は、事実上の意味を失った。
三度目の尋問を待つ理由は、もうない。
真偽を究める必要も、黒幕を確かめる必要もない。
帝を呪ったとされる者は、もはや帝が崩れ落ちゆくことが避けられぬとされた中で、生かしておくには不吉すぎた。
――処刑。
それは誰の口からともなく決まり、誰も異を唱えなかった。
あたかも最初から、そうなる運命であったかのように。
花月がそれを知らされたのは、薄暗い牢の中だった。
知らせ、と呼ぶほど丁寧なものではない。
鍵の音と、短い命令。それだけだ。
「立て」
放免が乱暴に縄を引き、花月の身体を起こす。
だが花月の身体は、もはや立つことさえ叶わなかった。
片膝は既に砕け、歩くことができない。肋骨のいくつかは折れ、ままならぬ呼吸の合間に血を伴う咳が出る。折れた腕は枯れ木のように、あり得ない捻じれ方をしていた。
両側を担ぎ上げられる衝撃に気を失い、引き摺られる感覚に意識が戻る。歩けぬ脚が僅かな段差に触れるだけで、骨盤が割れるような痛みが走る。
それでも、花月は声を上げなかった。
声を上げるだけの体力が、もう残っていなかった。
向かう場所は、宮中からは勿論のこと、牢からも更に遠い。
処刑という最も穢れた行為がなされる地は、できる限り遠ざけられた場所で無くてはならなかった。
髪は乱れ、幾重にも絡まって蛇のように肩を覆い、かろうじて身体に巻き付いた布地は血と埃で色を失っている。身体中は打撲痕で奇妙な模様のように変色し、あちこちが腫れ上がっている。
落ち窪んだ眼窩に虚ろな目で、何も見えていないかのような花月の姿は、もはや「鬼」と呼ばれるにふさわしい形を与えられていた。
庭師や下働きの者など、偶然にも行き交ってしまった人々は、ただ見ないふりをする。
――鬼が正体を現した。
――あれが本来の姿なんだ。
――恐ろしい恐ろしい。
その囁きに、不可視の存在である今の花月は理解した。
自分はこの時、既に「処刑されるに相応しい姿」に仕上げられていたのだと。
そしてここから、最も見ていたくない場面に差し掛かるのだと。
穢れの地の最果て。
放免たちの詰め所を越え、さらに先。
宮中から最も遠く、最も人の記憶に残らない場所に、筵が用意されていた。
そこが斬首のための場所だった。
放免たちが筵の上に花月を座らせる。
しかし膝が砕けた花月は、もはや座っていることすらできない。
「これでは首が切れぬ」
見届け役の検非違使が言えば、放免が両側から腕を取って支えた。
その時。
道の向こうから、一人の男が歩いて来るのが見える。
朦朧とした風情で花月がそちらを見た途端、はっと息を呑んだ。
そんな過去の自分の姿に、今の花月は目を背ける。
見覚えのある歩き方。
無駄のない足運び。
腰に帯びた刀の白銀が、鈍く光る。
白銀夜叉。
(壮一郎……)
その姿を認めた瞬間、花月の中で、何かがほどけた。
張り詰めていた糸が、音もなく切れ落ちる。
(来てくれた……)
理由など考えられない。彼の役職さえ、朦朧とした思考から抜け落ちていた。
ただ、嬉しかった。
唯一無二の友が来てくれたのだと。
かつての自分の心が、今の花月には痛いほどに分かる。
流れ込む自分の感情と、これからの光景に、堪らずに俯いて耳を塞ぐ。
(きっと……無実を、晴らしてくれるんだ。そのために来てくれたんだ)
当時の自分の胸の奥には、ひどく幼い安堵が広がっていた。
痛みが、少しだけ遠のいた気がした。
ほんのわずかだけ、息が楽になる。歓びが胸の内に満ち、込み上げた感情が渇いた眼球をぶわりと潤わせた。
壮一郎がこちらへ向かってくる。
間違いなく、こちらへ。
(ああ……壮一郎、壮一郎、壮一郎)
呼びたかった。
いや、声にならない声で、名を呼んだ。
次の瞬間。
壮一郎の青すぎるほど青い双眸が、自分を射た、気がした。
大きな双眸が、息を呑むほどの怒りと侮蔑に燃えている。
「……ッ」
胃の底まで冷えるような本能的な恐怖に、花月の思考が途切れた。
どうして。
そんな目で僕を見るんだ。
これだろうか。この瞳に射すくめられる感覚に、罪人は気を失ったのだろうか。
待ってくれ、違うんだ。
訴える間もなく、白銀夜叉の大きな手で折れた腕を掴み上げられる。
どうして。
信じてくれないのか。僕を信じてくれないのか。
君が殺すのか、僕を。
躊躇いもなく、何も聞いてくれることもなく、そんな目で。
僕の首を落とすのか。
そのために来たのか、壮一郎!
一気に押し寄せてきた絶望に、花月の中で全ての世界が灼け落ちた。
目の前の光景がぐるりと回り、思考が白く霞んでゆく。
白銀夜叉の容赦なく振り上げた白刃が――陽の光を浴びてギラリと煌めいた。




