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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
第四章 花月
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花月の過去

 花月は暫し立ち竦んでいた。 

 腕を掴んでいる壮一郎の掌の熱は、千年前から変わらない。自分を裏切った男の、どうしようもなく温かい掌だ。


「……離せよ、壮一郎」

「離せば逃げるだろうが」 


 低く呟く声に、花月は観念したように笑った。


「逃げませんよ。逃げたところで、千年追い付かれ続けたんですから」


 壮一郎はその言葉に微かに眉を寄せたが、何も言わず手を放した。

 何処か観念したように再びスツールに腰掛けた花月は、懐に指を滑らせ、小さな白い和紙包みを取り出した。

 青いカウンターライトに照らされたそれは、どこか「供物」めいた気配を帯びている。


「本当に、君はなんでもお見通しですね」

「お前が隠せない性分だからだろ」

「……かもしれません」


 カウンターの縁に和紙を置き、丁寧に開く。

 白い梅の花を模すように、丁寧に作った琥珀糖。

 作っては食べることができずに破棄し、また作り直しては懐に入れ――それを何度も何度も、百を重ねる歳月を繰り返してきた。


「これも、もう棄てようと思っていた所だったのに」


 目の前のものは、一か月ほど前に作ったものだ。

 既に表面の糖分が内側の寒天を浸食し、飴と化しているそれを見つめながら、花月は呟く。


「怖いんです、これ」

「ああ、知ってる」

「食べたら……何を言えばいいのか分からない。戻って……もしあの人の前に立てなかったらと思うと」

「立てるさ」

「根拠もなく……」

「根拠もなく、だ。そんなもんだろ。何かをする時ってのは」


 壮一郎の言葉の裏にある温度を掴みあぐねて、花月はひとつ息を吐き、琥珀糖をつまむ。


「……じゃあ、食べますよ。千年ぶりに、戻る覚悟をします」

「ああ。行ってきな」


 花月は、そっと目を閉じた。

 琥珀糖を唇の間に押し込む。

 カラカラと風車が回る音がする。

 ザクリと噛めば、まだ始まらない春の味がした。淡く、乾いた甘さが、胸の奥に沈んだはずの何かをそっと揺らす。重く閉ざされた箱の蓋に、ひびが入るような音がする。

 目を閉じた暗闇の奥から、光が広がってくる。

 このまま身を委ねれば、戻れると花月は知っていた。

 千年前に――自分が作り出した術だ。

 やわらかい陽の匂い。 自分を呼ぶ声。名前を、優しく、愛おしそうに呼ばれた日々の匂いがする。

 目の前に御簾が翻り、満開の梅の枝が見えてきた――。





 瞼を開けた花月が立っていたのは、広大な寝殿造りの屋敷の一画だった。

 広大な渡り廊下に、玉砂利の庭が広がっている。美しく設えられた木々の緑が、抜けるような青空に映えるようだ。

 振り仰げば懐かしい、平安と呼ばれた時代の景色が広がっている。

 

「それでは、また明日参ります」

 自らの声に振り向くと、薬師を表す白い直垂に烏帽子を被った当時の自分が、そこにいた。

 御簾の前で平伏し、音を立てずに後ずさる。

 室内から、花月をねぎらう小さな男児の声がした。

 その途端、辺りの空気がわずかに変わる。


 回廊を進むにつれ、決して好意的ではない空気が濃くなった。

 通りすがる人々は扇の陰から花月に横目で笑みをくれ、すっと逸らされる。

 ひそひそと交わされる囁きは、言葉になる前に形を失い、それでも確かに、棘を含んで漂っていた。


 ――鬼の血を引くそうな。

 ――人ならぬ力で病を治す。

 ――どのように帝に取り入ったものやら。


 聞こえぬように、或いはわざと聞こえるように、人々は噂する。

 涼しい顔で歩いていくかつての自分の後について歩きながら、花月は改めて彼らの顔を見つめた。

 彼らの表情の上には、明らかな恐怖がある。

 まだ何も解明されていない時代。あらゆるものは全てが目に見えぬものの仕業とされていた。

 国を動かす政はおろか、日々の行事や、入浴するか洗髪するかさえ占いに頼り、全てが迷信にがんじがらめにされた時代である。

 未知のものに対する恐れが、そのまま「鬼の子」と呼ばれた花月にも向けられるのは、当然のことだった。

(当時の僕には分からなかったけれど……)


 そしてこの時代。

 確かに、人と人でなきものの境界が、今よりもずっと危うかった。


 自分が生まれた日のことを、花月はありありと思い出すことができる。

 とある山の大きな桜の木の根元。

 近くの神社に住まう巫女が、満開の夜桜に目を奪われていたその時、木の裏に潜んでいた鬼に襲われた。

 巫女の血に鬼の精の混ざった桜の木の根元。そこに、幼児の姿で現れたのである。

 死んだ巫女の肉を喰らいながら、父たる鬼は息子に「花月」という名を付けた。

 その背後には、大きな月と、満開の桜が物の怪のように枝葉を揺らしていた。その光景を、ありありと思い出すことができる。

 もとより恨みはない。

 母の顔も知らぬ。母とはいえ育てられたことも声を掛けられたこともない、初めて見た姿が肉塊であった女性を、どう恋い慕うことができるだろう。

 父とはそれきり会うこともなかった。付いて来いとも言わず、会いに来ることもない父をもまた、恋い慕うことなどできない。鬼という化け物の心など、そんなものだろうと思うばかりだ。


 一人で街まで彷徨い歩いていた所で、優しい僧侶に拾われた。

 寺で育てられた日々が、最も幸福だったかもしれないと花月は思う。

 下働きをし、雑務をこなし、僧侶たちの行を座敷の下から学ぶように見上げながら暮らしていた。

 

 風向きが変わったのは、十七歳の頃。酷い流行り病が蔓延した頃からだ。

 僧の祈禱を受けるにも布施が間に合わない下層の人々は、穢れとして一ところに集められ、ただ死を待つ他に無い運命だった。

 それを放ってはおけなかった花月は、使いとして街へ行く度に貧民街へと脚を伸ばし、その一角に集められた人々の額に手をかざし、祈りを捧げた。

 寺で教えられた祈りではない。

 そもそも花月は、自分が人ではないことを知っている。

 特別な力があることは分かっていた。それをどう扱うべきかまでは、よく分かっていなかったが。

 病に苦しむ人々を見た途端に、心が「治せる」と確信した。心のままに祈れば、人々の熱は引いていた。

 奇跡だと拝まれ、噂は瞬く間に広がった。


 その噂を辿って、役人が来たのも無理からぬことだろうと、当時を振り返りながら花月は思う。

 帝の皇子が長患いをしている。皇子を救えるならと、半ば強引に宮中へと連れて来られた。

 陰陽部とも医療部ともつかぬ立場に置かれ、どちらからも距離を置かれる存在となった。

 そして今、皇子は快方へ向かっている。

 皮肉なことに、それが花月の心証をさらに危うくしていた。


「花月」


 柔らかな声に呼ばれて足を止める。

 振り返れば、御簾の影から一人の姫が姿を現した。


(蓮寿姫……)

 片時も忘れたことのない面差しに、かつての自分の背後で、花月は息をひそめた。

 まだ少女の面影を残し、しかし目の奥に静かな知性を宿した姫君である。


「今しがたの皇子のご様子、いかがでしたか」

 問われ、この時代の花月が膝を折る。

「穏やかに眠っておられます。今夜は、熱も上がらぬでしょう」

「……そうですか」


 それだけで十分だというように、蓮寿は安堵の息をついた。

 そして周囲を一瞥し、声を落とす。


「……この辺りは、落ち着きませんね」


 花月は小さく笑った。


「姫には、すべてお見通しですか」


「分からぬふりをするほど、幼くはありません」


 身分の差は、二人の間に確かに横たわっている。

 越えるつもりも、望むつもりもない。

 それでも、花月にとって蓮寿姫という人は、この場所で唯一、心がほどける存在だった。


「弟を治してくれてありがとう。お気を強くお持ちなさい。……花月」


 その声に、花月は深く一礼を返す。

 それ以上は、互いに踏み込まない。

 廊下の角を曲がる時、何気なく振り向いた花月は、蓮寿がまだこちらを見ていることに気付いた。

 気付かれた蓮寿が、小さく笑んだ。

 その笑みに頭を下げる当時の自分の、甘く締まる胸の内が、今の花月にも痛いほど分かる。



 自室へ戻る途中、花月は足を逸らした。

 向かう先は――穢れの場。宮中でも最も忌まれた区画であり、今もその記述が遺されない場所である。


 当時の武官である検非違使の最下層には「放免」がある。犯罪者が罪を許され、拷問官として雇用された役職だ。

 それらの更に下層とされた首切り役。

 死と血を扱う最も穢れた役職とされたその男は、首を斬る巨大な刀の白銀にちなみ、いずれともなく「白銀夜叉しろがねやしゃ」と呼ばれていた。

 彼の前に引き出され、その青すぎるほど青い双眸を見た途端、罪人の中にはそれだけで気を失い、そのまま還らぬ者もいたと噂される。 

 人では無きもの――あれは夜叉の化身であると。


 だが、それゆえ夜叉の住まう場所に粗末さはなかった。

 きちんと整えられた敷地、頑丈に雨風を凌げる屋舎。深い竹林で遮られた静謐さ。なに不自由なく暮らせるだけの捧げ物。

 当時の人々は、災いなすものを恐れ、丁重に扱うことで祟りを避けようとする向きがあった。

 


 竹林には、魔除けの紙垂が幾つも張り巡らされている。それは白銀夜叉を穢れの場へ封じ込める意味合いを持つ、宮中の人々のための結界である。

 竹の葉と紙垂がサヤサヤと音を立てるそこを抜けた奥の庭先で、白銀夜叉――壮一郎は日の光に煌めく刀を黙々と研いでいた。

 花月の気配に、顔を上げる。


「……よう」

「ああ」


 それだけで通じる。

 余計な挨拶も、立場を確かめ合う言葉もいらなかった。



 供された菓子を膝に、花月は庭先の切り株に腰を下ろし、研がれていく白銀を眺めていた。

 規則正しい音。

 この音を、どれほど長く聞いてきただろう。


「宮中は、相変わらずか」

「ええ。皆様元気ですよ。とてもね」


 花月の皮肉に、壮一郎は笑った。


「帝に気に入られるってのも、楽じゃねえな。帝というよりは、皇子様か」

「皇子様はお可愛らしい方なんですけどねぇ。あと蓮寿姫」

「ほう」

「……ところでこのお菓子、すごく美味しいんですけど何ですか?」

「俺に聞くな。奴らが勝手に置いていくんだ。気に入ったなら全部持って行きゃいい」

「食べないんですか?」

「甘いものには興味がねえ。酒の方がいい」

「食わず嫌いは良くないですよ。ほら、一口でも。ほら」

「食って好かねえから言ってんだ」

「あ。君、一応は食べてるんだ」

「食ってみなきゃ分かんねえだろ。気に入ったらお前には出さねえ。一人で全部食う」

「ははは、なんだいそれ! ……僕はいつか宮中を下がったら、こういうものを作って暮らしたいと思うんだ」

「いいじゃねえか。買いに行ってやる。甘すぎねえ美味い菓子作れ」


 やがて刃が止まり、壮一郎は刀を布で包んだ。


「……そろそろ日が傾く。ここにいるのが見つかると、もっと嫌われるぜ。土産を持ってくるから待ってな」

「もう十分に嫌われてるよ。……また来ます」


 家に戻り掛けて立ち止まった壮一郎が、花月の言葉に振り向いて、眉を寄せて笑った。

 その何処か淋しげな微笑を受け止めるように、花月が笑む。

 

 

 屈託のない遠く懐かしい空気。

(この頃は……)

 かつての自分と友を眺めながら、今の花月は僅かに瞼を伏せる。

 息詰まるような暮らしの中で、壮一郎と過ごす時だけが、花月が自分自身でいられる時間だったのだ。

 それは壮一郎も同じだったのではないかと信じたい気持ちを、いまだ花月は捨てられない。

 白銀夜叉と呼ばれた彼もまた、事実、鬼が人間の女に産ませた子だったのだから。

 たった二人きりの、強い絆だったのだから。






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