だから、生きていく。
朝の光が漏れるカーテンを思い切り開けると、透明な光が部屋いっぱいに差し込んだ。
あんなにも泣いたのに、胸の奥は驚くほど静かだ。
洗面所で顔を洗う間に、トースターの中でパンが焼ける匂いがキッチンに満ちていく。
じりじり、と小さく鳴る音が、妙に心地良い。
あれから、どうやって家に戻って来たのか覚えていない。
奇妙な「あわいの道」も、壮一郎さんのバーも、花月さんの店も覚えているのに、まるで一切が夢だったように目が覚めたら布団の中にいたのだ。
しかし夢じゃなかった証拠のように、俺の顔は涙でガビガビで、昨日来ていた服を着て、靴さえ履いたまま布団の中にいたのだから堪らない。おまけに口の中は妙に甘苦く、紫蘇の風味が微かに残っていた。
俺は、ちまきの影に導かれて花月さんの店に行った。
本来ならそこでハナが依頼した落雁を食べて、あの白い光の中で二匹に逢うはずだったのだろう。
だが。
それをするには、俺の心が壊れすぎていた。
壮一郎さんに呪いを依頼したことに、後悔はない。
例え壮一郎さんという人が、どんなものであったとしても。
人ではない何者かに、呪いを介して関わったことが、果たして良いか悪いかは分からない。
きっとこれからも、俺はこのことを考え続けるんだと思う。
でもそれでいい。
あの犯人は、放っておけばこれからますます沢山の命をいたぶり殺しただろう。
世界中に同じような奴は他に何人もいるかもしれないが、四十七匹以上をも殺しているような重度の常習犯が、せめて一人でも潰れてくれるなら、俺に後悔なんてない。
焼き上がった二枚のトーストにバターを塗り、コーヒーを淹れる。
淹れたてのコーヒーの深い香り。カップから立ちのぼる湯気に、久し振りにお腹が鳴った。
「……いただきます」
手を合わせ、ゆっくりとトーストを齧る。
外はカリッと、中はふわりと柔らかい。上手く焼けている。バターが少し溶けすぎたが、それがまた美味くて、自然と頬が緩む。
ちゃんと味がする。久しぶりに、ちゃんと「生きている味」がする。
食べながら涙が零れて、それを拭いながら、また食べる。
こんなふうに物を食べることが、随分と久し振りな気がした。
食べ終わり、身支度を整える頃には、身体の内側に小さな火が灯ったようだった。
どこか懐かしい、けれど新しい温もり。ここに、彼女らがいる。
鞄を肩に掛け、玄関に向かう。
靴を履きながら、部屋の奥へ振り返った。
「ハナ、ちまき。行ってくるぞ」
誰もいない部屋に向けて言ってみたが、不思議と淋しさも虚しさもなかった。むしろ、二匹がそこにいてくれるような気さえする。
これを習慣にしよう。あの白い世界での約束を、薄れさせないためにも。
「うおっ」
玄関のドアを開けると、冷たい冬の朝の風が頬に染みた。その透き通った空気を深く吸い込むと、身体の中まで洗われるようだ。
――私たちの分まで、生きてよ。
――私たちが見られなかった景色を、見せてよ。
ああ。
生きるよ。生きていく。
お前たちがくれた想いが、ここにあるから。
俺はこの世界で、ちゃんと、生きていく。
玄関の鍵を閉め、歩き出そうとした、その時――。
ちりん、と。
肩の辺りで小さな鈴の音が、ひとつだけ鳴った。
「……ッ!」
ハッと息を呑み、思わず肩に触れた。しかし当然のように何の温もりも気配もない。
その代わりに。
心の奥から湧き上がるような愛しさと共に、小さな笑みが浮かんだ。
「行くか、皆で」
俺の肩には、ちまきが。すぐ側にはハナが。
そんな想いを胸に、俺はしっかりとした足取りで朝の光の中へ歩き出した。
(第三章・完)




