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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
第三章 猫
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だから、生きていく。

 朝の光が漏れるカーテンを思い切り開けると、透明な光が部屋いっぱいに差し込んだ。

 あんなにも泣いたのに、胸の奥は驚くほど静かだ。


 洗面所で顔を洗う間に、トースターの中でパンが焼ける匂いがキッチンに満ちていく。

 じりじり、と小さく鳴る音が、妙に心地良い。


 あれから、どうやって家に戻って来たのか覚えていない。

 奇妙な「あわいの道」も、壮一郎さんのバーも、花月さんの店も覚えているのに、まるで一切が夢だったように目が覚めたら布団の中にいたのだ。

 しかし夢じゃなかった証拠のように、俺の顔は涙でガビガビで、昨日来ていた服を着て、靴さえ履いたまま布団の中にいたのだから堪らない。おまけに口の中は妙に甘苦く、紫蘇の風味が微かに残っていた。

 俺は、ちまきの影に導かれて花月さんの店に行った。

 本来ならそこでハナが依頼した落雁を食べて、あの白い光の中で二匹に逢うはずだったのだろう。

 だが。

 それをするには、俺の心が壊れすぎていた。



 壮一郎さんに呪いを依頼したことに、後悔はない。

 例え壮一郎さんという人が、どんなものであったとしても。

 人ではない何者かに、呪いを介して関わったことが、果たして良いか悪いかは分からない。

 きっとこれからも、俺はこのことを考え続けるんだと思う。

 でもそれでいい。

 あの犯人は、放っておけばこれからますます沢山の命をいたぶり殺しただろう。

 世界中に同じような奴は他に何人もいるかもしれないが、四十七匹以上をも殺しているような重度の常習犯が、せめて一人でも潰れてくれるなら、俺に後悔なんてない。



 焼き上がった二枚のトーストにバターを塗り、コーヒーを淹れる。

 淹れたてのコーヒーの深い香り。カップから立ちのぼる湯気に、久し振りにお腹が鳴った。

「……いただきます」

 手を合わせ、ゆっくりとトーストを齧る。

 外はカリッと、中はふわりと柔らかい。上手く焼けている。バターが少し溶けすぎたが、それがまた美味くて、自然と頬が緩む。

 ちゃんと味がする。久しぶりに、ちゃんと「生きている味」がする。

 食べながら涙が零れて、それを拭いながら、また食べる。

 こんなふうに物を食べることが、随分と久し振りな気がした。


 食べ終わり、身支度を整える頃には、身体の内側に小さな火が灯ったようだった。

 どこか懐かしい、けれど新しい温もり。ここに、彼女らがいる。 


 鞄を肩に掛け、玄関に向かう。

 靴を履きながら、部屋の奥へ振り返った。


「ハナ、ちまき。行ってくるぞ」


 誰もいない部屋に向けて言ってみたが、不思議と淋しさも虚しさもなかった。むしろ、二匹がそこにいてくれるような気さえする。

 これを習慣にしよう。あの白い世界での約束を、薄れさせないためにも。


「うおっ」

 玄関のドアを開けると、冷たい冬の朝の風が頬に染みた。その透き通った空気を深く吸い込むと、身体の中まで洗われるようだ。


――私たちの分まで、生きてよ。

――私たちが見られなかった景色を、見せてよ。


 ああ。

 生きるよ。生きていく。

 お前たちがくれた想いが、ここにあるから。

 俺はこの世界で、ちゃんと、生きていく。



 玄関の鍵を閉め、歩き出そうとした、その時――。



 ちりん、と。

 肩の辺りで小さな鈴の音が、ひとつだけ鳴った。



「……ッ!」


 ハッと息を呑み、思わず肩に触れた。しかし当然のように何の温もりも気配もない。

 その代わりに。

 心の奥から湧き上がるような愛しさと共に、小さな笑みが浮かんだ。


「行くか、皆で」


 俺の肩には、ちまきが。すぐ側にはハナが。

 そんな想いを胸に、俺はしっかりとした足取りで朝の光の中へ歩き出した。

 




(第三章・完)

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