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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
第三章 猫
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生きて。

 懐かしい匂いがする。

 目を開けた俺は、実家のリビングにいた。

 陽だまりと、雑然とした家具、台所の料理の匂い。しかし周囲にあるものは随分と型が古い。

「ここは……」

 見回しているうちにリビングのドアが開き、母が入って来た。かなり若く、まだ二十代のようだ。胸に赤ん坊を抱いている。

「ただいまぁ。ほぅら直哉、おうちですよ」

 腕の中の赤ん坊は静かに眠っているようだ。

 あれが俺なのか?

 それなら今は、俺が生まれた直後のことか?

「さぁおいでハナ。お母さんが返って来て嬉しいだろ?」

 やはり今よりもずっと若い父が入って来た。

 足元にじゃれつくゴールデンレトリバーは――ハナだ。

 母は腕に抱いた俺に気を付けながら、ソファに座った。ハナが母の腕の中を覗き込む。

「赤ちゃんよ。直哉ちゃん。あなたの弟ね。ハナはお姉ちゃんになったんだから、守ってあげてね」

 興味深げに赤ん坊の俺を覗き込み、匂いを嗅いでいるハナに、母がそんなことを言って笑う。


(私に、弟ができた)


 ふと、母のものではない若い女性の声が聞こえたのは、空耳ではあるまい。


(直哉。温めたミルクの匂いがする。薄く柔らかな皮膚、牙を立てたら潰れてしまいそうな手。これが人間の赤ちゃん。なんて、なんて脆い存在だろう。守ってあげなければ)


 直感のように俺は理解した。

 ハナだ。

 ハナの心だ。


(初めまして、直哉。大切な私の弟。産まれてくれてありがとう。私が守ってあげる。愛してあげる。命に代えても)





 瞬きする間に場面が変わった。

 相変わらず実家のリビングだが、周囲の家具や物の配置が少し変わっている。

 庭に続く窓際で、ハナが寝ていた。

「たっだいまー!」

 扉が勢い良く開き、ランドセルを放り出しながら小学校低学年の俺が入ってくる。

 途端、ハナが勢いよく起き上がり、俺に向かってまっすぐに飛びついていった。

「ハナ~! いい子にしてたか?」

 子供の頃の俺もまっすぐにハナに駆け寄り、その首筋に顔を埋める。

 そうだ。そうだった。この頃は、いつもハナが迎えてくれた。

 両親は仕事に出ていた間、一人になる家に帰って来ても俺が全く淋しさを感じなかったのは、ハナがこうして迎えてくれたからに他ならない。

 ハナが俺を舐め回し、俺はハナの身体を撫で回しながら笑っている。


(おかえり直哉。無事に帰ってくれて良かった。先生に叱られなかった? お友達と喧嘩しなかった?)

(ああ……この子が帰ってくると、世界がぱっと明るくなる。小さな両腕が私を抱き締めてくれる。可愛い直哉、私の宝物)


 子供の俺とじゃれ合うハナの心が、今の俺に流れ込んでくる。

 落ち着いた大人の女性の声だ。

 小学生の頃の俺にとっては、ハナは友達のような存在だった。

 しかしハナにとって俺は、守るべき弟のような、子供のような存在だったらしい。


(知らない子供たちの匂いがする。外の世界の匂いがする。この子の世界が広がって行くのが分かる。でもそれでいい。それでいいのよ。あなたが必ず無事に帰って来てくれるなら)





「よし、ハナ来い!」

 また場面が変わり、小学校高学年になった俺が何かを後ろ手に隠してハナを呼んでいる。

「じゃーん! 誕生日プレゼントだぞ!」

 穏やかに尻尾を振って近付いてくるハナを抱き締めて、子供の俺は持っていたものを広げて見せた。

 ピンクの首輪。同じ色の小さな鈴のついた、ピンクの首輪だ。

「良かったわねえハナ」

 台所から母が笑いながら出てきた。


 そうだ、あれはハナが十歳の誕生日だった。

 もう古くなった首輪の代わりに、ペットショップで見かけた新しいピンクの首輪を買ってやりたくて、家の手伝いをして溜めたお小遣いでプレゼントしたのだ。

 穏やかに尻尾を振ってお座りをしているハナは、首輪を取り換えながら嬉しそうだった。


(まぁ……あなたからプレゼントなんて。ふふ、長生きもしてみるものね)


 流れ込んで来たハナの心の声は、年配の女性のようだった。

 確かに――犬の十歳といえばもう高齢だ。

 外見はさして変わらないのに、内臓は確かに衰えていたのだ。

 あの時の俺は、気付きもしなかった。

 毎日側にいて分からないまま、いつの間にかハナと俺との時間は――こんなにも離れていたのか。

 

「ハナ、直哉はね、あなたのために毎日皿洗い頑張ったのよ。良く似合うじゃない」

 側に来た母がハナを覗き込んで笑う。

 茶色の毛並みに良く似合うピンクの首輪を付けて、ハナは嬉しそうだった。


(あらまぁ、なんてことでしょう。夕食の後に直哉が台所で何かしていたのは、私のためだったのね。大事にするわ。この首輪は、私の一部よ)




 また場面が変わり、家の中は暗くなった。

 冬の夕暮れは急ぎ足に訪れ、明かりのない部屋の中でハナが一人、床に伏せている。

 眠っているのかと思われたが、リビングのカーテンを鼻で押しのけて窓の外を眺めているようだった。

 時々、妙な咳をする。


(あの子ももう中学生。大きくなったものだわ……。もう、直哉には直哉の世界が出来上がりつつあるようね。どうりで私も年を取るはず)


 ハナの心の声が聞こえる。

 時計を見れば、まだ夕方の五時だった。

 そうだ。中学に入った俺はバスケ部に夢中になり、朝練と放課後練に明け暮れていたのだ。今頃は練習の真っ最中だ。

 知らなかった。

 まさかこんな時計の音しか聞こえない真っ暗な部屋で、ハナが一人で留守番していたことなんて。

 きっとそろそろ勤め先から帰ってくるだろう母も、知らなかったのだろう。

 ハナが一匹で待つ家の中が、こんなにも暗く、こんなにも淋しいなんて。


(あの子の世界は広がっていく。いつまでも私にばかり甘えていてもねぇ。だからこれでいい。……これでいいの。あの子が笑って元気にしていてくれるなら、それで私は十分)


「ハナ……ごめん」


 近付いた俺は、そっとハナの隣に膝を付き、その背に手を置いてみた。

 ハナは俺に気付くことなど無く、また咳をした。

 触れたはずの背の感触も温もりも、今の俺の掌には感じられない。


「ハナ……」


 呼び掛けた途端に目の裏が熱くなり、目の前の光景が滲んだ。


「気付いてやれなくてごめん……守ってやれなくてごめんな……」


 今の俺は、その咳の原因を知っている。

 当時、知識の浅かった父も母も俺も、ただの風邪だと思っていた、その咳の原因を――。




 涙を落とすように瞬きをした途端、俺は病院の診察室にいた。

 診察台の上にハナがおとなしく伏せ、医者は苦い表情でレントゲン写真を見つめ、母は口元を押さえている。

 中学生の俺は診察台の上のハナを撫でながら、ただ茫然と言葉を失っていた。


 よく覚えている。あれは中学三年の時だ。

 医者は僧帽弁閉鎖不全と言った。ステージは既に最終段階の四だと。

 早期発見していれば、薬で延命できるはずだったと。

 どこか責めるような口調を滲ませながら、そう言われたことも。


「ごめんなさい……ごめんね……」


 涙声でハナに謝る母の隣で、俺はただハナの瞳を見つめていたことも、よく覚えている。

 思春期だった俺は、こんな時さえも人前て感情を見せることができなかったのだ。


(いいのよ)


 覗き込む俺を見上げて、ハナは少し笑っているように見える。

 あの時には気付かなかったが、少し尻尾を振っていた。


(お母さんも、直哉も。自分を責めないで。もうおばあちゃんですもの。仕方のないことよ。――泣かないで、直哉)


 ハナは、分かっていたのだ。

 あの時の俺が、涙を流して泣くことができないほど、苦しい想いでいたことを。

 なぁハナ――。

 俺は、俺はさ……。





 突然、眩しい朝のリビングになった。

 家の中をハナが元気に走り回っている。まるで仔犬のように一階を走り回り、二階に上がる階段を駆け上がっては駆け降りる。

 満面の笑みで元気そうに。


「えっ、どうしたのハナ」

「薬が効いてるのかな?」


 起きて来たばかりの父も母も、不思議そうに、そして嬉しそうにハナを見ていた。

 

「なんだよ心配させやがってぇ」

 朝練に行くために支度を整えていた俺は、ハナを抱き締めて思い切り撫で回す。

 ハナも俺にじゃれつき、ベッドから玩具のボールを咥えてくる。

「おっ、遊びたいのか? まぁいいか。よし、今日はお前に付き合うよ」

 出掛けるために持っていた鞄を置いて、俺はハナと遊び始める。

 その様子に両親も笑いながら眺め、まるで奇跡が起きたような光景だった。


 そう――この朝の選択に、俺は今でも救われているのだ。


「よし、じゃあ行って来るからなハナ」

 登校時間までハナと遊んだ俺は、ようやく鞄を持って立ち上がった。

 玄関に向かう俺を見送るように、元気な足取りでハナがついてくる。

「俺、今日部活休むわ。帰ってきたら、また遊んでやるからな」

 満面の笑みのハナを撫でて、俺は玄関を出て行く。


(行ってらっしゃい。先生に叱られないように。お友達と喧嘩しないようにね。大好きよ――私の大事な、大事な弟)


 扉が閉まってもまだ尻尾を振って俺を見送ったハナが、ゆっくりと腰を落とした。


(ありがとう――直哉)


 そのままハナの身体が、ゆっくりと、ゆっくりと頽れていく。

 何かを察して玄関を覗きに来た母が、ハナの名を呼んだ。その声に父親が様子を見に来る。

 両親の身体に覆われて、今の俺からは倒れたハナが見えない。

 だがその顔は、今でも忘れることができない。



 学校から帰ってきた俺は、笑んだような安らかな顔で安置されているハナと対面することになった。

「直哉を心配させたくなかったんだよ」

 仕事を休んだ母が、泣きはらした目でそう言った。

「ハナ……ごめん……ごめんな! 気付いて……守ってやれなくて。もっと遊んでやれば、遊んでやれば……!」

 あんなに泣いたのは、後にも先にもこの時しかない。

 ちまきの時は、泣く余裕も無かったから――。


 泣きじゃくる中学生の自分を、ただ見つめている俺の足元を、ちりん、と何かが通り過ぎた。


「あ……」

 今のは――。





 思わず足元を見た次の瞬間、俺は白い光の中に立っていた。

 何処までも広がる純白の、決して眩しくない光。

 温かく、優しい気配が、空気の中にまで満ちている。遠くから微かに沢山の小さな鈴の音のような、或いは小鳥のさえずりのような音が聞こえる。

「ここは……」

 呟きながら見回した俺の耳元で、ちりん、と鈴が鳴った。

 ハッと目の前を見た、その瞬間。


(直哉)

(ナオヤ)


 満面の笑みでそこに立っていたのは、お揃いの首輪を付けたゴールデンレトリバーとキジトラの――。


「ハナ! ちまき!」


 弾かれたように駆け寄った俺に、ハナの大きな重い身体が圧し掛かる。ちまきの重くて身軽な身体が駆け上ってくる。

 直哉。ナオヤ。直哉。ナオヤ。直哉。ナオヤ。口々に俺の名を呼びながら。


「ハナ……ちまき……!」

 

 毛皮の匂いも、弾む息も、肉球の匂いも、温かなぬくもりも、生きている頃のまま両腕に抱き締めた。


「ごめんな! 本当にごめん! 駄目な俺でごめん!」


(直哉。いいのよ。もういいの)

 若い女性の声で、ハナが笑う。

(私はずっと、幸せだったから。あなたとのかけがえのない想い出があるから、私は最期までずっと幸せだったよ)


(もうちっとも痛くないし、怖くないんだよ)

 少女の声で、ちまきが笑う。

(正直、何をされたかも、もう覚えてないんだ。だからねナオヤ、ちまき、もう苦しくないんだよ。ほんとだよ)


「でも俺が、もっと早くにハナの病気に気付いてやれば……。あの時、ちまきを置いてコンビニに寄らなければ……」


(うるさい)

 ちまきの前足が、俺の口に当てられた。俺の腕の中から顔を上げて、生前よくそうしたように。

 あの頃と同じ、少しだけ気の強そうな目が、優しく俺を見上げている。

(ナオヤ、仕返ししてくれたもん。ちまきのために、みんなのために)

 白い光の中で、ちまきの尻尾がゆっくりと揺れる。

 その首元で、小さな鈴が、ちりん、と鳴った。


「……ちまき……」


(直哉、あなたは優しい子だから)

 ハナの大きな頭が、俺の肩に押し当てられた。

(もう、自分を責めなくていいの。そんなに自分を苛めては駄目)

 ふさふさの長い尻尾が、俺を慰めるように揺れている。

 その首元で、小さな鈴が、ちりん、と鳴った。


(だからね、ナオヤ)

(ちゃんと食べて)

(ちゃんと眠って)


 切実な二つの声が、乞うように重なった。


(生きてよ)


 胸の奥に、何かがすとんと落ちた気がした。

――私たちの分まで、生きてよ。

――私たちが見られなかった景色を、見せてよ。

 そう言われた気がして、息が詰まり、視界が滲む。


「……俺が?」


(そうよ)


 ハナが、静かに頷いた。

 大きな身体は変わらないのに、どこか軽やかで、穏やかだ。


(あなたは、ちゃんと生きて愛せる子。そして、これからも生きて、愛していくの)


 ハナの鼻先が、そっと俺の頬に触れる。

 俺が子供の頃に、泣いていると必ずそうしてくれたように。


(私たちはね、直哉の中に、ちゃんといるのよ)


 ちまきが、俺の胸の上に前脚を置いた。


(独りじゃないよナオヤ。これからも、ずっと)


 ちまきが俺の胸の上からスルリと降り、ハナの側に寄り添った。


「……行くのか?」


(ええ)

(でも、ずっと見てるよ)


 並んで立つハナとちまきが、少しずつ離れていく。


「なぁ!」


 堪らずに俺は叫んだ。

 彼女らに、ありったけの想いを込めて。


「大好きだ! 世界で一番愛してる! 愛してるよ!」


 二匹は顔を見合わせて笑ったようだった。

 恥ずかしかったが、最後に彼女らを笑わせられたなら、それでいい。


(行ってらっしゃい、直哉)

(ゆっくり来てね、ナオヤ)


 ちりん。

 最後に一度、二つの鈴が鳴った。

 白い光が、静かに溶けてゆく。

 まるで朝霧が陽にほどけるように――。






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