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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
第三章 猫
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寂火

 空にしたグラスをカウンターに置いた瞬間、喉の奥が灼けつくほどに熱くなった。

 アルコールを飲んだ時とは全く違う酩酊感。

 いま飲み干したばかりの熱が、まるで全身の血管の中に染み込んで身体中を巡っていくようだ。

 俺の骨にまで滲む、怒りと怨みを一つずつ拾い上げているように。

 一瞬のうちに脳まで廻ったかに思えた瞬間、首の後ろから鉄板が焼けるようなジュッという音がして何かが出て行く。

 何が出たのかは分からない。だが確かに何か激しいものが身体から出たような感覚だけがあった。

「っ……!」

 息を呑んだ俺の前で、壮一郎さんがゆっくりと細い葉巻を取り出す。

 カチ、とライターの音と共に、深海のような青に照らされて、微かな炎が揺らいで壮一郎さんの顔の陰影を深くした。

 甘く、どこか清浄な薫りを含んだ煙が、ふわりと立つ。

 その匂いを吸い込んだ瞬間――なぜか視界がぐにゃりと歪んだ。


「今、呪いが出て行った。奴へ向かって、まっすぐにな。あんたの恨みに濁りが無かったということだ。一滴もな」

 青紫の煙の中で、壮一郎さんの影が言う。

「向かいましたね、まっすぐに。寂火の煙に迷いが無い」

 壁際で花月さんが、煙を片手で受けるように呟く。

「呪いはね、嘘の匂いを何より嫌うんです。僅かでも感じ取れば、その瞬間、まるで蛇のように飲み手の魂に喰らい付く。……深山さんの話は、筋が通っていたということです」


 二人の言葉を聞きながら、意識が急速に沈んでゆく。

 足元からほどけていくようだ。

 海で波打ち際に立つ時に、脚の裏の砂が波に引いて行く時のような、あの感覚――。

 意識だけが身体から離れ、青い海の底に引き込まれていくような感覚だけが残る。


「問題ねえさ。呪いがどんなものか見届けてえだろう?」


 遠くで壮一郎さんの声が響いた気がした。

 低く、深く、海の底から届く声のように。


「そのまま落ちていきゃいい。大丈夫だ」


 煙の匂いが胸の奥まで入り込み、 頭の中の境界がゆっくり曖昧になる。

 ああ――抗えない。

 そう思ったところで、意識がすうっと青い闇に落ちた。

 


 次の瞬間、俺は個人宅の広めの駐車場のような場所に立っていた。

 コンクリートの壁と床、シャッターが下りている。照明は蛍光灯のような明かりが一本、天井に備え付けてある。

 敷地の半分にはワンボックスカーが停めてあり、もう半分が不自然に空いていた。

 もう半分には机のような台のようなものがあり、所々錆び付いて小汚い大きなハサミやハンマー、ペンチなどの工具が乱雑に置いてある。


「……なんだここ」

 周囲を見回しながら呟いた途端、ふと背後に人影を感じ、ビクリと飛び退いた。

「あ、違うんです、俺は……」

 怪しいものじゃないと言い掛けて、ドクンと大きく鼓動が打った。


 そこにいたのは、眼鏡をかけた中年の男だった。

 よれたシャツ、せり出した腹、たるんで脂ぎった顔と眼鏡。

 片手には息絶えた血塗れの、丸裸になるまで羽を毟られた鳩らしき死骸を逆さまに掴んでいる。

 男の血走った目には俺の姿が見えていないようだ。

 目だけを血走らせた無表情のまま、男は地べたにしゃがみ、そこにある針金を乱暴に鳩の死骸に巻き付けて何かを作り始める。

 

(こいつか。こいつなのか)


 一瞬のうちに目の前が真っ赤になった。

 ちまきを殺した犯人。

 こいつが、ここで、こんなふうに。

 おそらくあの台の上にある工具は拷問器具なのだ。

 こんな場所に連れて来られて。

 こんなふうに物みたいに、いや、物以下のように扱われて。


 獣のような咆哮が俺の喉から出た。

 こんな声が自分から出るのかと驚く間もなく、俺が男へ掴み掛かろうとした、その時だ。

 

 死んでいたはずの鳩が頭をもたげ、一声可愛らしく鳴いた。

 血塗れの身体が見る間に豊かな羽毛を取り戻し、男の手をすり抜けて、天井をもすり抜けて飛び立ってゆく。

 キワキワと音を立てて飛んで行った鳩を、しゃがんだままの男が驚いたように見上げている。

 その瞬間。


 ――現れた。


 天井から垂れ下がるように、巨大な「手」が。

 皮膚は黒くひび割れ、長い爪が鉤爪のように曲がっている。

 明らかに人間のものじゃない手が、男の身体を掴み上げた。

 悲鳴が上がる。

 骨が軋む音が、はっきりと聞こえた。

 骨が砕ける生々しい音。

 肉が裂ける湿った音。


 俺は、見ていた。


 男が、ちまきにしたのと同じように扱われていくのを。

 叫び、もがき、息を詰まらせる様を。


 足が折れる。

 爪が剥がれる。

 意識が途切れ、戻り、また奪われる。

 その度に男は何度も虚空に向けて問い掛けた。


「なんで!? なんでだよお!?」


 自分をいたぶる手に必死の形相で問い掛けている。

 なぜ自分がこんな目に遭っているのかと問い掛けている。


(なんで、だって?)

 お前、本当に分かんねえのかよ。自分が何をしたか分かってねえのかよ。

 ふざけんなこの野郎。


 ふと気付けば、周囲には幾つもの動物たちの姿があった。


 猫。

 犬。

 鳥。

 うさぎ。

 ハムスター。

 虫までいる。


 全員が、じっと男を見ている。

 表情もなく、ただ「見ている」。

 みんな、この男に殺された動物たちなのだろう。

 四十七匹よりも、ずっと多かった。

 「作品」にされたものよりも、ずっと多くの命をこいつは殺してきたのだろう。

 きっと子供の頃から。

 

 

「なんでぇ!?」


 引き裂かれていく男の悲鳴を聞きながら、俺は思った。

 これは、男に殺された動物たちの心なのだと。


 なんでこんなことするの。

 なんでこんな目に遭うの。

 なんで?



(ああ――いい気味だ。てめえにお似合いの最期だよ。皆そう思ってたんだ。ちまきも、お前にそう問い掛けながら殺されたんだよ!)

 

 理不尽に問い掛けながら殺された動物たちの想いに気付いた瞬間、俺は正直そう思った。

 こんなクズ野郎は同じ目に遭えばいい。

 胸の奥に溜まっていたものが溶けて、瞼に溜まっていく感覚があった。


 これでいい。

 これで、やっと――。


「た……すけ……!」

 犯人が伸ばした手を、誰も掴まない。


 だが。

 次の瞬間、闇がパリ、と割れた。


 瞬き一つする瞬間に、俺は見知らぬ家の寝室にいた。

 きれいな一戸建ての家の寝室だ。

 目の前のベッドから、勢いよく男が起き上がる。

 今しがた駐車場で裁きに遭っていたはずの男だった。


「え?」


 不本意なことに、俺と男が同時に声を上げた。

 やはり男には俺の姿が見えていないらしく、汗まみれの顔で部屋の中を見回している。

「……夢か」

 傷も痛みもない、つやつやとたるんだ頬の裏でチッと舌打ちをした男は、何事も無かったように布団に潜り込む。

 


「っ……は……!」

 青い光が瞼に滲み、俺はカウンターに突っ伏していた上体をガバリと身を起こした。

 壮一郎さんが、カウンターの向こうで葉巻をくゆらせている。

 振り向けば、花月さんも腕を組んだまま壁際で此方を見ている。


「……お帰りなさい」

 どこか含みのある声で、花月さんが言った。

 壮一郎さんがカウンターの向こうで煙を吐く。螺旋を描いて巻き上がる煙が、青い光に溶けた。

「気分はどうだ?」


 どういうことだ。

 夢? 呪いって、あれだけか?

 

「……は?」


 思わず声が漏れ、俺は勢いよく立ち上がった。

「ちょっと待ってください! これが……強い呪いって……こんなもんなんですか!?」

 思わず怒鳴っていた。

「ぜんっぜん足りない……! 足りねえ、足りねえよあれじゃ!」

 壮一郎さんは葉巻をくわえたまま、唇を歪めて笑った。


「まぁ待ちな」


 青い瞳が、ぞくりとするほど愉しそうに光る。


「呪いってのはな――強ければ強いほど、じわじわ効いてくるもんだ」






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