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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
第三章 猫
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Bar Abyss

 一息に話したせいで、息が上がってしまった。

 五日ほど水とスポーツドリンクだけで過ごしていたせいだろうか。こんな程度を話しただけで耳に響くほど動悸がする。

 仕事も同じだった。出社はしているが、頭の中に霞が掛っているように、何をしていたか何を話していたか、まるで思い出せない。

 夜は家にじっとしていられず、朦朧とした頭で、ふらふらと街を徘徊していた。

 きっと身体はとうに限界なのかもしれない。

 


「腹なんか減っちゃいけねえ……か」


 カウンターに両手をついたまま俺の話を聞いてくれていた壮一郎さんが、低く呟いた。


「――なんか食わせてやらなかったのか、お前の店で」


 少し離れた壁際に立つ花月さんに問い掛ける。


「いらないと仰るので」


 花月さんは視線を伏せたまま答えた。

 その仕草が、ほんの一瞬だけ、悔しそうにも見えた。


「……お前らしくねえな」


 責める調子もなく言いながら、壮一郎さんがカウンターの下からグラスと緑色の瓶を取り出す。


「ええ」


 花月さんは短く答えただけだった。

 だがそれだけで、二人の間に何かが共有されたのが、俺にも分かった。



 そのやり取りを眺めながら、俺はスマホに視線を落とした。

 待ち受けにしたちまきの写真が、俺を見詰めている。

 

 ややあって、俺の目の前に湯気の立つグラスが置かれた。

 何やらハーブのような甘い良い匂いがして、黄金色の炭酸の気泡が弾ける音がする。

 空腹を覚えた訳でもないのに、その匂いを嗅いだだけで何故か腹が珍妙な音を立てた。


「温めたジンジャーエールにエルダーフラワーのシロップを入れてある。まずはあんたの身体の余分な毒素を落とした方がいい」

「エルダーフラワー……」

「毒素を流す作用があるハーブだ。昂った神経を鎮める効果がある」

「……ありがとうございます」


 壮一郎さんに会釈しながらグラスを取り、少し口に含む。

 爽やかなハーブと生姜の香りと、酸味のある爽やかな甘さに、舌がきゅっと縮まった。

 飲み込むと、優しい温かさが身体の中を流れ落ちていく。

 胸の奥で絡まっていたものが、ゆっくりほどけていく気がした。

 美味い。

 そう感じた瞬間、途方もない罪悪感が胸の奥から込み上げてくる。

 俺は、美味いなんて感じちゃいけない。

 こんなものを飲む資格はない。

 それなのに止まらなかった。一口、また一口と、貪るように飲んでしまう。

 飲む度に目の裏が熱くなり、涙が溢れてはみっともなく頬を流れた。


 

「すみません」


 飲みながら、そんな言葉が口をついて出た。


「長々と……取り乱して」


「いい」


 壮一郎さんが、短く言った。


「話せるところまでは、話したんだろ」


 その声は優しかった。


「……はい」


 子供のように頷いた時、呼吸が少し楽になっていることに気付いた。

 さっきまで、息を吸うたびに胸が痛んでいたのに。


 壮一郎さんは俺から目を離し、バーの中を見回しながら、ゆっくりと体を起こす。

 その動きと共に――青い照明の色が、またひときわ濃く沈んだ気がした。


 整う。


 そんな言葉が浮かんだのは何故だろう。

 俺はグラスを持ったまま、スツールに深く腰掛け直した。

 心臓の音が、ようやく一定の速さに戻っている。


 ふと花月さんを見遣ると、彼は黙ったまま腕を組んで壁に凭れていた。

 静かに俺を見守ってくれている視線が、僅かに笑んで揺らいだ気がした。




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