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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
第三章 猫
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あわいの道

「……あなたは、ここじゃない」


 何処か哀しげな声に、俺はしゃくり上げながら青年を見た。

 物言いたげに俺を見詰めていた青年が、ふと柔らかく微笑する。


「申し遅れました。僕はここの店主で神楽木花月と申します。どうぞ花月とお呼びください。……あなたの力になれたなら宜しかったのですが、あなたが抱えているものは甘味では癒せない」

「え……?」


 言われたことが、よく分からなかった。

 力になる? 甘味で癒す?


(なんだこの人……なんだここ)


 泣いたせいで酸素が足りない。頭がふわふわする。

 だが冷茶の薄荷の風味が喉の奥に広がり、かろうじてまともな意識を保てている気がした。


(そういえば、まともに飯も食ってなかったな)


 自分が自分でなくなりかけていた疲労が、一気に押し寄せてくる。


「何か召し上がりますか?」


 店主だという青年――花月さんの問い掛けに、俺は首を振った。

 空腹は感じない。空腹など、感じてはいけない。

 何も言わずに俺を見つめていた花月さんが、密かに吐息したように肩を落とした。


「なら――行きましょうか」

「え……ど、どこへ……」


 不意に立ち上がった花月さんに腕を取られ、鼻水を啜り上げながら問い返す。


「あなたが求める場所へ案内します。付いてきてください」


 有無を言わさぬ風情で、花月さんが微かに笑んだ。






 格子戸を抜けると、さっきまでの街が嘘のように静かだった。

 風もない。人もいない。変わらず立ち並ぶ店の看板だけが灯っている。

 空には驚くほど巨大な満月が浮かんでいた。


「あれ……?」

 なんで人がいないんだ。なんか空気が違う。

 言いたいことを言葉にするよりも前に、俺の腕を掴んだままの花月さんが、振り返らず言った。

 

「決して僕から離れてはいけませんよ。道の途中で何を見ても、呼ばれても、反応してはいけない」


 その言葉に、心臓が縮んだ気がした。


「ここは『あわい』の道。現実と、あなたの心の間にある境界です」

「現実と、俺の心の間の……?」


 思わず周囲を見回し掛けた俺の腕に、花月さんの指が食い込む。


「……ッ!」

「前だけを見て、何にも興味を持ってはいけませんよ」



 現実の繁華街と寸分変わらない無人の街を、花月さんに腕を引かれながら歩く。

 通り過ぎる店々の明かりの中で、賑わう人影が視界の隅に見える。

 しかしどれも人間の姿とは思えないものの気がした。

 興味を持ってはいけないと花月さんに言われているだけに、そちらに目を向けることはできなかったが、明らかに人間よりも大きな尖った頭の何かや、角の生えた何かがいる。

 商店の軒先に並んでいる物も奇怪だ。


「あの、何処へ……」


 先程から何も言わない花月さんに問い掛けたその時――背後でチリン、と小さな鈴の音がした。

(ちまき……!?)


「いけません。見てはいけませんよ」


 思わず振り返りそうになった途端、また花月さんの指が俺の手首をきゅっと強く掴んだ。


 ニャア、と声がした。

 チリンチリン、と鈴の音が追い掛けて来る。

 ちまきだ。ちまきの声だ。これはちまきの足音だ。


「ちまき……だよな? そこに……」

「違います」


 花月さんがはっきりと言った。


「本物は、こんな風に寄ってきません。……それは欲望や淋しさに付け込んで擬態しているだけの影です」


「バ レ たぁ」


 背後で、何かが笑った。


 にゃぁあ。

 くす、くすくす。

 きゃきゃきゃきゃ。


 猫の真似をしたような。細く高いねばつくような笑い声。

 人でもなく、獣でもない何か。

 それがすぐ後ろを付いてきている。

 おどけるように、或いは脅かすように、上体だけを大きく左右に揺らしている。背骨が無いのかと思わせるような、奇怪な動きをする影が路上に見える。

 時折、俺の背中を尖った爪がちょいちょいと掻く。


「あ、わ……わ」

 背筋が凍りつく。

「弱った心で目を合わせると……あれは形を得てしまいます。あなたの心を喰いたがっていますから――絶対に見てはいけません。影に心を喰わせる必要はありませんよ」

 花月さんが、俺の腕を抱えてくれる。

「何なんですか? マジで何なんですかここ?」

 こんな所を歩けるあなたは、何者なんですか?

 何も答えない花月さんの後頭部がなんだか淋しそうで、思わず喉まで出掛かった言葉を飲み込む。

 花月さんの袖に縋りながら、俺はみっともなく付いて行くしかなかった。



「ああほら、あそこです」

 暫く歩いた先に、洒落たビルの地下入り口にある看板を花月さんが指さす。

 その瞬間、付いてきていた背後の影に戦慄が走った気配がした。

 ギャッと悲鳴を上げた途端、逃げるように走り去ってゆくのが分かる。



「Abyss」


 

 黒地に銀で店名だけが書かれた立て看板は、一見してショットバーのようだった。

 その周囲だけ、何かが違う。

 看板に近付くにつれて、呼吸がしやすい気がした。

 

「行きましょう。もう安全です」

 漸く笑顔を見せた花月さんに促され、地下に続く階段を降りていく――。

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