あわいの道
「……あなたは、ここじゃない」
何処か哀しげな声に、俺はしゃくり上げながら青年を見た。
物言いたげに俺を見詰めていた青年が、ふと柔らかく微笑する。
「申し遅れました。僕はここの店主で神楽木花月と申します。どうぞ花月とお呼びください。……あなたの力になれたなら宜しかったのですが、あなたが抱えているものは甘味では癒せない」
「え……?」
言われたことが、よく分からなかった。
力になる? 甘味で癒す?
(なんだこの人……なんだここ)
泣いたせいで酸素が足りない。頭がふわふわする。
だが冷茶の薄荷の風味が喉の奥に広がり、かろうじてまともな意識を保てている気がした。
(そういえば、まともに飯も食ってなかったな)
自分が自分でなくなりかけていた疲労が、一気に押し寄せてくる。
「何か召し上がりますか?」
店主だという青年――花月さんの問い掛けに、俺は首を振った。
空腹は感じない。空腹など、感じてはいけない。
何も言わずに俺を見つめていた花月さんが、密かに吐息したように肩を落とした。
「なら――行きましょうか」
「え……ど、どこへ……」
不意に立ち上がった花月さんに腕を取られ、鼻水を啜り上げながら問い返す。
「あなたが求める場所へ案内します。付いてきてください」
有無を言わさぬ風情で、花月さんが微かに笑んだ。
◇
格子戸を抜けると、さっきまでの街が嘘のように静かだった。
風もない。人もいない。変わらず立ち並ぶ店の看板だけが灯っている。
空には驚くほど巨大な満月が浮かんでいた。
「あれ……?」
なんで人がいないんだ。なんか空気が違う。
言いたいことを言葉にするよりも前に、俺の腕を掴んだままの花月さんが、振り返らず言った。
「決して僕から離れてはいけませんよ。道の途中で何を見ても、呼ばれても、反応してはいけない」
その言葉に、心臓が縮んだ気がした。
「ここは『あわい』の道。現実と、あなたの心の間にある境界です」
「現実と、俺の心の間の……?」
思わず周囲を見回し掛けた俺の腕に、花月さんの指が食い込む。
「……ッ!」
「前だけを見て、何にも興味を持ってはいけませんよ」
現実の繁華街と寸分変わらない無人の街を、花月さんに腕を引かれながら歩く。
通り過ぎる店々の明かりの中で、賑わう人影が視界の隅に見える。
しかしどれも人間の姿とは思えないものの気がした。
興味を持ってはいけないと花月さんに言われているだけに、そちらに目を向けることはできなかったが、明らかに人間よりも大きな尖った頭の何かや、角の生えた何かがいる。
商店の軒先に並んでいる物も奇怪だ。
「あの、何処へ……」
先程から何も言わない花月さんに問い掛けたその時――背後でチリン、と小さな鈴の音がした。
(ちまき……!?)
「いけません。見てはいけませんよ」
思わず振り返りそうになった途端、また花月さんの指が俺の手首をきゅっと強く掴んだ。
ニャア、と声がした。
チリンチリン、と鈴の音が追い掛けて来る。
ちまきだ。ちまきの声だ。これはちまきの足音だ。
「ちまき……だよな? そこに……」
「違います」
花月さんがはっきりと言った。
「本物は、こんな風に寄ってきません。……それは欲望や淋しさに付け込んで擬態しているだけの影です」
「バ レ たぁ」
背後で、何かが笑った。
にゃぁあ。
くす、くすくす。
きゃきゃきゃきゃ。
猫の真似をしたような。細く高いねばつくような笑い声。
人でもなく、獣でもない何か。
それがすぐ後ろを付いてきている。
おどけるように、或いは脅かすように、上体だけを大きく左右に揺らしている。背骨が無いのかと思わせるような、奇怪な動きをする影が路上に見える。
時折、俺の背中を尖った爪がちょいちょいと掻く。
「あ、わ……わ」
背筋が凍りつく。
「弱った心で目を合わせると……あれは形を得てしまいます。あなたの心を喰いたがっていますから――絶対に見てはいけません。影に心を喰わせる必要はありませんよ」
花月さんが、俺の腕を抱えてくれる。
「何なんですか? マジで何なんですかここ?」
こんな所を歩けるあなたは、何者なんですか?
何も答えない花月さんの後頭部がなんだか淋しそうで、思わず喉まで出掛かった言葉を飲み込む。
花月さんの袖に縋りながら、俺はみっともなく付いて行くしかなかった。
「ああほら、あそこです」
暫く歩いた先に、洒落たビルの地下入り口にある看板を花月さんが指さす。
その瞬間、付いてきていた背後の影に戦慄が走った気配がした。
ギャッと悲鳴を上げた途端、逃げるように走り去ってゆくのが分かる。
「Abyss」
黒地に銀で店名だけが書かれた立て看板は、一見してショットバーのようだった。
その周囲だけ、何かが違う。
看板に近付くにつれて、呼吸がしやすい気がした。
「行きましょう。もう安全です」
漸く笑顔を見せた花月さんに促され、地下に続く階段を降りていく――。




