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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
第三章 猫
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狂気――喪われた愛猫と心

 眠れない夜が、何日続いただろう。

 いま自分がどこにいて、どれくらい歩いたのかさえ、もう分からなかった。

 晩秋の夜風は冷たいはずなのに、額からは途切れず汗が流れている。

 胸の奥が焼けるように痛い。呼吸が浅い。

 身体の感覚が所々抜け落ちている。

 道路の白線が波打って見える。

 足裏の感覚はあるのに、地面を踏んでいる実感がなかった。


 「あれ」のせいだ。


 頭の奥で、あのダイレクトメールの画像が何度も再生される。

 天井を見上げても、瞼を閉じても、こうして歩きながら眺めている景色の上にさえ、あの「作品」の光景が焼き付いて離れない。

 どれだけ心が拒絶しても、網膜に印刷されてしまったかのように消えてくれない。


(……ちまき……)


 声にならない声が喉の奥で潰れた。

 つい最近まで、呼べば返事をしてくれた声がまだ耳の奥に残っている。

 一年前に雨の夜に拾った、茶色いキジトラの猫だった。

 アパートの駐輪場に倒れていた子猫。

 座ると小さな三角形になる後ろ姿が「ちまき」のようで、ちまきと名付けて娘のように可愛がっていた大事な家族。

 俺のせいだ。

 あの三分を許した俺のせいだ。全部、全部――。

 俺はまた、大事な存在を救えなかった。


 

 立ち止まることも出来ず、宛てもなく歩き続ける。

 狂いそうで、狂い切れなくて、ただ前へ進むしかない。

 すれ違う人々の顔を見ては、どうしても睨み付けてしまう。犯人ではないのかと疑ってしまう。

(こいつじゃないのか? 意外とこんな奴がやるのかもしれない……殺してやる……殺してやる)

 見ず知らずの人間に、行き場のない憎悪をぶつけようとする自分に吐き気がした。


 誰か。

 誰か助けてください。

 空を見上げながら、誰かに向けて、何度目かの救いを求めた、その時だった。



「ナーン」

 可愛い鳴き声と共に、視界の端を小さな影が横ぎった。


 猫だ。


「……ちまき……?」


 息が詰まり、心臓が跳ねる。

 そんなはずはない。だってちまきは。

 でも――でも。


 影は振り返ることもせず、すいと路地の奥へと入り込む。

 俺もそれを追って角を曲がった。


「おい、おい、ちまき!」


 影は角を曲がった先にある、立派な構えの店の中へと入って行った。

 

 夜の闇の中にぽつりと明かりが灯り、達筆で「花月」と染め抜かれた白い絽の暖簾が揺れている。

 まるで京都などにある老舗の割烹か甘味処のようだ。

 夜風に揺れる暖簾が、まるでこちらを誘う手のようだ。

 何処からか甘い花のような香りがする。

 さっきの影は、あの店の猫なのだろうか。


 そう思った途端。

 チリンと、鈴が鳴った気がした。

 ちまきの首輪に付いていた、小さなピンクの鈴。


 俺は躊躇う暇もなく、その暖簾をくぐった。





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