狂気――喪われた愛猫と心
眠れない夜が、何日続いただろう。
いま自分がどこにいて、どれくらい歩いたのかさえ、もう分からなかった。
晩秋の夜風は冷たいはずなのに、額からは途切れず汗が流れている。
胸の奥が焼けるように痛い。呼吸が浅い。
身体の感覚が所々抜け落ちている。
道路の白線が波打って見える。
足裏の感覚はあるのに、地面を踏んでいる実感がなかった。
「あれ」のせいだ。
頭の奥で、あのダイレクトメールの画像が何度も再生される。
天井を見上げても、瞼を閉じても、こうして歩きながら眺めている景色の上にさえ、あの「作品」の光景が焼き付いて離れない。
どれだけ心が拒絶しても、網膜に印刷されてしまったかのように消えてくれない。
(……ちまき……)
声にならない声が喉の奥で潰れた。
つい最近まで、呼べば返事をしてくれた声がまだ耳の奥に残っている。
一年前に雨の夜に拾った、茶色いキジトラの猫だった。
アパートの駐輪場に倒れていた子猫。
座ると小さな三角形になる後ろ姿が「ちまき」のようで、ちまきと名付けて娘のように可愛がっていた大事な家族。
俺のせいだ。
あの三分を許した俺のせいだ。全部、全部――。
俺はまた、大事な存在を救えなかった。
立ち止まることも出来ず、宛てもなく歩き続ける。
狂いそうで、狂い切れなくて、ただ前へ進むしかない。
すれ違う人々の顔を見ては、どうしても睨み付けてしまう。犯人ではないのかと疑ってしまう。
(こいつじゃないのか? 意外とこんな奴がやるのかもしれない……殺してやる……殺してやる)
見ず知らずの人間に、行き場のない憎悪をぶつけようとする自分に吐き気がした。
誰か。
誰か助けてください。
空を見上げながら、誰かに向けて、何度目かの救いを求めた、その時だった。
「ナーン」
可愛い鳴き声と共に、視界の端を小さな影が横ぎった。
猫だ。
「……ちまき……?」
息が詰まり、心臓が跳ねる。
そんなはずはない。だってちまきは。
でも――でも。
影は振り返ることもせず、すいと路地の奥へと入り込む。
俺もそれを追って角を曲がった。
「おい、おい、ちまき!」
影は角を曲がった先にある、立派な構えの店の中へと入って行った。
夜の闇の中にぽつりと明かりが灯り、達筆で「花月」と染め抜かれた白い絽の暖簾が揺れている。
まるで京都などにある老舗の割烹か甘味処のようだ。
夜風に揺れる暖簾が、まるでこちらを誘う手のようだ。
何処からか甘い花のような香りがする。
さっきの影は、あの店の猫なのだろうか。
そう思った途端。
チリンと、鈴が鳴った気がした。
ちまきの首輪に付いていた、小さなピンクの鈴。
俺は躊躇う暇もなく、その暖簾をくぐった。




