長い旅の果てに
――菊緒さん、そうだったんだ。
夕日の中で徐々に影絵になっていく若い菊緒さんと、いま私の隣にいる年老いた菊緒さん。その両方を見詰めながら、私は思った。
施設で恍惚とした菊緒さんしか知らなかった頃には、彼女にこんな背景があったなんて想像もしなかった。
きっと施設にいる他のお年寄り一人一人も、語り尽くせない人生を背負っている。
もしかすると耐え切れない苦しい記憶を持つ人もいるだろう。
みんな黙って秘めているだけなのだ。
口にすれば想いが溢れてしまうから。言葉にしても詮無いから。
誰もが、そんな遣りきれない記憶を。
夕日がゆっくりと沈んでいく。
まるで風車が回るような風の音の中に甘い匂いが混ざった気がした途端、ふと視界が揺らいだ。
ふっと身体が浮くような感覚のあと、目の前に柔らかな光が広がった。
甘やかな香りと、白木のカウンター。
気づけば私と菊緒さんは、再び花月堂のテーブルに戻って来ていた。
「……お帰りなさい」
花月さんが、向かいの席で微笑しながらお茶を注いでいる。
甘ずっぱい花のような良い匂いがする。
傍らを見ると、菊緒さんがひどく穏やかな表情で湯飲みを手にしていた。
「花月さん……あの、いま……貴方がいて、全然変わらなくて」
私の問い掛けに、花月さんは微笑みながら何も言わず、私の前にもそっと湯飲みを差し出してくれた。
花のような匂いと思ったそれは、ピンクの紫蘇のお茶だった。
湯呑みを包むようにして一口お茶を飲んだ菊緒さんが、そっと微笑んで呟く。
「……あれからね、わたくしにもご縁がありましたのよ」
「ご縁?」
「ええ。主人の沢本勝文と」
懐かしむように湯気の向こうを見つめながら、菊緒さんは続ける。
「彼もね、戦争で婚約者を亡くした人だったの。やっとの思いで戦場から駆け戻ってきたら、最愛の女性は空襲で。同じ境遇の私たちは、同志のようにして一緒になったの」
「……それが、清三さんの望みでしたからね」
何処か私に対して念を押すように、花月さんが言葉を継ぐ。
「ええ」
菊緒さんは小さく笑った。
「菊の色をした星が見つかったなら、幸せに生きること。――沢本は清三さんとは大違いの、武骨で昔気質の男の人でしたけれど、むしろそれが良かったのかも知れないわね。清三さんを重ねずに済んだから。きっと沢本もそうなんでしょう。……それでも幸せだったのよ、わたくしたち」
何となく、菊緒さんと勝文さんの生活が見えるような気がした。
武骨で男らしい勝文さんは、きっと印象からは想像もつかない気遣いで、菊緒さんを大事にしてくれたのだろう。
菊緒さんもまた、細やかな心配りで勝文さんを支えていたに違いない。
同じ悲しみを分かり合える二人は、まるで互いの傷を庇い合う同志のように、しっかりとした家庭を築いてきたのだろう。
悲しみと覚悟の上に咲く幸福。それが、菊緒さんの歩んできた人生だった。
「そういえば――」
花月さんが、ふと手元の茶器を整えながら呟いた。
「そろそろ、お見えになる時間でしょうか」
「え? 誰か来るんですか?」
私が問い返し、菊緒さんが不思議そうに湯飲みを置いた、その瞬間だった。
「失礼しますよ」
カラカラと心地良い音と共に花月堂の戸が開き、涼やかな風が流れ込んで来る。
ゆったりと入って来たのは、背筋のすらりと伸びた、上品な老紳士だった。
グレーの帽子を取りながら、にっこりと微笑む。
「やぁ――待たせたね、菊緒さん」
「……ッ!」
弾かれたように腰を浮かせた菊緒さんが、息を呑んだ。
「ああ……あああ……あああ……」
言葉にならない声と共に、菊緒さんの双眸からテーブルに滴り落ちるほどの涙が溢れ出る。
「泣かないでおくれ、菊緒さん。僕はいつも、君を泣かせてばかりだ」
眉を下げて微笑した老紳士が、菊緒さんを迎え入れるように両手を広げた。
「清三さん……!」
まるで少女のような声でその名を呼んだ菊緒さんが、迷いもせず清三さんの腕の中に飛び込む。
「ああ……菊緒さん」
清三さんは危うげもなく菊緒さんを受け止め、胸の奥深くに包み込むように抱き締めた。
老紳士と老婦人。
清三さんと菊緒さんが、もし戦後に再会して何事もなく二人で年を重ねていたら、きっとこんなふうだっただろうと思わせる姿だった。
「随分と待たせてしまって済まなかった」
清三さんの胸の中で、菊緒さんが頭を振る。
「……でも嬉しかったよ、君が幸せに生きてくれたことが。僕はね、ずっと、ずっと君を見ていたんだよ」
清三さんを見上げた菊緒さんが、涙に濡れた顔に笑みを浮かべ、大きく頷いた。
「勝文さんもね、あちらで婚約者の方にお会いできたんだよ。僕の先生――君のご両親も、そして僕の両親も、皆で君を待っている。どうだい、これから皆で食事でもしながら、ひとつゆっくり思い出話でも語り合おうじゃないか」
その途端――。
二人の姿が淡い光に包まれ、二人は白いシャツにグレーのズボンの法学生と、ベージュのワンピースにおかっぱの女学生に戻っていた。
「清三さん」
「うん、行こう菊緒さん。皆がお待ちかねだ」
「はい!」
私たちのことなど忘れてしまったように、光に包まれた二人は、お互いをしっかりと見つめ合いながら手を繋ぐ。
生きていた時には一度もそんなふうに繋げなかった手を、柔らかく握り合って、寄り添って笑った。
そうして仲睦まじく見つめ合いながら、ゆっくりと店を出ていく。
二人の背を見送りながら、花月さんは立ち上がり、静かに頭を垂れた。
「……長い旅でしたね。どうぞ、安らかに」
花月堂の中に、穏やかな静寂が戻る。
私はただ、涙を堪えながら二人を見送った。
甘くて切なくて嬉しい、幸福な涙だった。




