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花月堂夜想譚  作者: 翠川舞
二章 星空
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かつて封じられた言葉

 「万歳! 大日本帝国万歳!」


 ほんの瞬きの間に景色は変わり、私たちは昼間の街の表通りらしき場所にいた。

 快晴の空の下、路面電車の周囲に、無数の小さな日の丸の旗が翻っている。

 路面電車に乗り出征していく兵士を見送る人々が、それぞれ手に持った小さな日の丸旗を振りながら、口々に快哉を上げ、勇ましい軍歌を歌っている。

 勇ましい言葉や鼓舞する言葉があちこちから上がり、沢山の人垣の向こうに、路面電車に乗っている出征兵士たちの高く掲げた手が辛うじて覗けた。


 よく見えないが、あの中に清三さんがいるのだろう。

 見送る人垣はあまりにも多く、その中に紛れているはずの菊緒さんの姿を見付けることはできない。



「……この時は両親と一緒に清三さんを見送ったのだけれども、人目があったから、あまり言葉を交わすことはできなかったの」


 私と一緒に、人垣に囲まれた路面電車を遠い目で眺めながら、九十八歳の菊緒さんが教えてくれる。


「私はただ何も言わずに、電車の中から笑ってくれた清三さんを見つめていたんだわ」



 それはまるでドラマの一場面のように、私にも想像できた。


 人ごみの間から微動だにせずに、菊緒さんがじっと電車の中の清三さんだけを見つめている。

 清三さんも電車の窓から菊緒さんを見つめている。

 人前で言葉を交わせば、昨日の続きになってしまいかねない。本心を覆い隠せば、別れの言葉はありふれたものになるばかりだ。

 そんな二人の間に交わされているものは、雄弁な無言だった。

 恋人たちは言葉では追い付けない想いを、まなざしで交わしていた。

 やがて清三さんが唇を引いて微かに笑み、菊緒さんに向けて小さく敬礼して見せる。

 菊緒さんは胸の辺りを両手で掴み、言い尽くせぬ想いを込めて一つ頷く。

 これから行ってしまう彼を心配させたくない。そんな心遣いで。

 清三さんもそれを受け取ったように、一つ頷いて敬礼を解く。



 出発を知らせる警笛がもう一度鳴り、チンチンとベルを鳴らしながら路面電車が動き出した。

 歓声が大きく上がり、人垣も動き出す。

 ゆっくりと走り出した電車を見送るように追い掛けた人々が立ち止まり、歓声を上げながら旗を振り、万歳を唱する。



「駄目よ!」


 不意に隣から、歓声を裂くほどの大きな叫びが上がった。


「駄目よ清三さん、行かないで! 貴方は死んでしまうのよ!」



 菊緒さんだった。

 しかしこの時代の菊緒さんではない。

 私と一緒に過去の光景を見ていた、九十八歳の、菊緒さんだった。



「……菊緒さ……」


「行っちゃ駄目! 行かないで!」


 今まで聞いたこともないほどの大きな声を上げながら、菊緒さんは私の隣をすり抜けて路面電車を追って走り出す。


「菊緒さん!」

 

 私は追い掛けようとして、しかし足を止めた。

 私たちの姿はこの時代の人々には見えていない。菊緒さんの叫びも聞こえてはいない。

 ここでは私たちは幽霊のような存在なのだ。


「清三さん……清三さん……」


 施設で出会って以来、私たちに一度も走っている所など見せたことのない菊緒さんは、肉体があれば不可能と思われるほどしっかりとした足取りで駆けていく。

 遠い昔に愛した人を追い掛けて、おそらく追い付くことも引き留めることもできないと知りながら、それでもまっすぐに。

 好きにさせてあげたいと、思ってしまった。



「待って清三さん……清三さん……」



 電車を見送っている人垣の中へ、狂おしく菊緒さんが駆け込んでゆく。実態を持たない幽霊のように、人々の肉体をすり抜けて。

 その入れ替わりのように、人垣の間から、この時代の十七歳の菊緒さんがふらふらと出てきた。

 両手で口を押さえ、顔が真っ青だ。

 押さえた口からは、苦しげな呻き声が漏れている。

 過呼吸だろうか。


「行かないで! 清三さん、行かないで!」


 遥か未来の自分自身の声の中で、しかしその声を聞き取れるはずもないまま、十七歳の菊緒さんは苦しげに地面に膝を付いた。



 ――行かないで。



 ここで決して言ってはいけない言葉が、無言のまま彼女の全身から溢れ出している。

 見ているだけの私にさえ感じ取れるほどに。

 言えば非国民と糾弾される、彼女の本心からの悲痛な願いが、全身から溢れ出している。



「行かないで! 私の側にいて生きていてください清三さん! 死なないで!」



 その想いを代弁するように、年老いた菊緒さんの声が聞こえる。


 逆に懸命に口を覆って込み上げる言葉を堪えている若い菊緒さんの喉から、言葉にできない呻きが微かな笛のように漏れ出てきた。



 ――行かないで。



 彼女の胸の内で、その言葉が嵐のように激しく、張り裂けるほどに暴れているのだ。

 今この時から、約八十年もの間を秘め続けねばならなくなった、悲痛すぎる叫びが。



「清三さんを連れて行かないで! もうこれ以上私から大切なものを取り上げないで! 私の大切な人を殺さないで!」



 少しでも気を抜けば溢れてしまうその言葉を抑え込むように、身を捩り背を折り曲げ、必死に言葉の出口を両手で覆っている。

 やがて彼女は、地面の上に髪を乱すように額づいた。


 死出の旅を送り出す民衆の万歳の唱和が。

 恋人を乗せて戦地へと遠ざかっていく電車の音が。

 蹲る十七歳の少女の上に火の粉のように降り掛かり続けていく。




 なんという、時代なのだろう。

 なんという――

 



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