5話
「侯爵様、お久しぶりです」
「ああ……彼か」
グレーの瞳が私から外れてエメさんに向けられた。一歩前に進んだエメさんは優雅に一礼する。さらりと金色の髪が肩から流れる姿がとても綺麗だった。
「お嬢様に助けていただいたエメ、と申します。ご挨拶に来るのが遅れてしまい申し訳ありません」
「いや、構わない。体調は大丈夫なのか」
「ええ、この通り。おかげさまでご挨拶に伺えるまで体力が回復しました」
「そうか。……ああ、座りなさい」
侯爵様はソファに座った。そして向かいのソファを私たちに勧める。
アンブロシアだったら、ここで座ると嫌味を言われるんだけど……大丈夫かな。
びくびくする私の手を引いたエメさんがソファに座った。侯爵様は何も言わなかったけど、テーブルに置かれたベルを鳴らす。すぐにコリーがやってきてお茶の用意を始めた。
「屋敷のメイドはどうした?」
「部屋の外で待っていましたら、手が離せないと言われたので私が代わりに」
「……そうか」
深くため息を吐いた侯爵様は眉間を揉んだ。
侯爵様は私と会うときはいつも眉間を寄せて、不機嫌そうにしている。多分嫌われてるんだと思うんだけど……。それでも、衣食住を用意してくれてるのは私が一応侯爵家の人間だからなんだろう。
森から出ない限りは、好きにさせてもらってるからいいんだけど……。
「……記憶が無いと聞いているが」
「ええ……自分の名前などはすっぽりと」
「はあ……そうか……」
「ですが、僕はお嬢様に危害を加える気は毛頭ない、とお伝えしておきます」
「……わかった」
じっとエメさんを見ていた侯爵様が不意に私に視線を移した。思わずびくりと肩が跳ねた私は悪くないと思う……。バクバクと脈打つ心臓を押さえて、おそるおそる侯爵様を見つめ返した。
な……なんだろう。
「……イーリス、お前はこの者をどう見る?」
なんだろうそのふわっとした質問は……。カップに満たされた紅茶を眺めながら、言葉を選びながら口を開く。
「悪い人ではないと思います」
「そうじゃない……お前自身、エメをどう思う」
「私自身……?」
「お嬢様が感じたままを侯爵様にお伝えください」
どう答えたらいいのかわからなくて、ぐるぐる考えこんでしまった私を見かねたコリーがそっと耳打ちをする。
私が感じたまま……それなら、簡単だ。
「えっと……とても優しくていい人です。エメさんが来てから毎日が楽しいです」
「そうか。……侯爵家に迷惑をかけないのなら好きにしなさい」
「それって……」
「……二度は言わない。エメ、お前も屋敷に近寄らないように」
「御意に」
「話は以上だ」
そう言い放った侯爵様はソファから立って、私たちに背を向ける。言葉の通りこれ以上話すつもりはないみたい。
エメさんと顔を見合わせ、ソファから立ちあがって扉に向かう。
「イーリスをよろしく頼む」
頭を下げて部屋を出る直前に、そう言う侯爵様の声が聞こえた気がした。
~~~~~~~
離れを有する森に夜の帳が下りた時間。いつもならぐっすりと眠れるはずの時間なのに、どうしても目が冴えて眠れない。
その理由を僕はわかっている、僕を助けてくれた太陽の様な少女の翳りを見てしまったから。
ベッドの上で何度も何度も寝返りを打つけれど、眠れない。足元で丸まっていたリオンもどこかへ行ってしまった。
数度目の寝返りで僕は寝るのを諦め、ベッドから降りる。年季の入った眼鏡をかけて、ベッドサイドに掛けた杖を手に部屋を抜け出す。身体を動かしたら疲れて眠気が来るに違いない。
大分、思うように動くようになった足を動かし廊下を歩く。こんな夜半では、いつも聞こえるイーリスちゃんの可愛らしい声も聞こえない。でも、どこからか物音が聞こえてきて、それに釣られるように階段を降りていく。
廊下の先から光が零れるのが見えた。あっちは確か食堂だったはず……。
光に魅かれるように廊下を進む。ドアを開けた食堂には人はいなくて、物音はその奥の調理場から聞こえることが分かった。
そちらに歩いていくと、タイミングよくカルヴィン君が調理場から顔を出す。まるで僕が来るのがわかってたみたい。……ううん、獣人である彼のことだから、僕が来るのは足音でわかっていたんだろうね。
「眠れねぇんですかい?」
「うん……お恥ずかしながら」
「……待っててくだせぇ」
僕を調理場に手招いた彼は開いている椅子を示して、背を向けた。
彼の不器用な優しさに思わず口元が緩む。カルヴィン君だけじゃなくて、イーリスちゃんもコリーさんも得体の知れない僕に優しくしてくれる。
「明日の仕込みをしていたの?」
「ご明察でさぁ……っとラム酒入りのホットミルクをどーぞ」
僕の前にホットミルク入りのカップを置いたカルヴィンくんは、向かいの椅子に腰を掛けた。どうやら僕に付き合ってくれるらしい。なんだか申し訳ないな。
ホットミルクに息を吹きかけ冷ました後に、一口飲む。身体の内側にじわりと染み入る温かさにほっと息を吐き出した。いつの間にか強張っていた筋肉がほぐれていく気がする。
「旦那が眠れねぇなんざ珍しいですねぇ」
「あはは……まぁね」
「……侯爵家からお嬢が受けてる扱いが気になりやすか?」
事も無げにさらりと図星突いてきたカルヴィン君は、胡乱気な深い青で僕を射抜いた。まるで僕の心の奥を見極めようとする視線。ならば僕はそれに真っ直ぐ向き合おう。それが彼女に救われた僕ができる数少ないことだから。
「うん……ずっと不思議だったんだ。侯爵家の次女だっていうイーリスちゃんが、お屋敷じゃなくて森の中にある離れに暮らしているはなんでかなって。それに、女の子一人とはいえ身の周りの世話をするのは二人だけなのもおかしいよね? 記憶がない僕でもそれが異常なのはわかるよ」
「そうでさあなぁ。しかも、お屋敷には腐るほど使用人がいる上に皆人族なのに、離れの俺らは獣人とあっちゃあ余計におかしな話ってな」
「……そこまで言ってないけどね?」
けらけらとカルヴィン君は笑うけど、自嘲的で見ていられなかった。
……お屋敷のメイドたちが聞こえがよしに囁いていた蔑みを思い出してしまい、気分が悪くなる。
獣くさいって言ってたけど、彼女たちの方が香水のにおいを振りまいてて鼻が曲がると思ったんだけど。
「お嬢の肌色、珍しいと思いやせんか?」
「ああ、健康的な褐色肌だよね。太陽に愛されているようで素敵だと思うよ」
「……お嬢が拾ったのがアンタでよかったと心底思いましたぜ。あの肌は純粋なアゴヤム国の人間では生まれないんでさぁ」
「侯爵様も白い肌だったね」
「ええ、お嬢は南にある砂漠の国、オドゥー出身なんでさぁ」
「その国のことは本で調べたよ。確か、人族とそれ以外の種族が手を取り合って暮らしている、珍しい国なんだっけ」
思い出しながら話した内容は合っていたらしくて、カルヴィン君はぱちぱちと軽い拍手をくれた。
イーリスちゃんにオドゥーのことを教えてもらった時に、とても心惹かれたんだよね。だから、あの後、自分でも色々調べてみたんだ。
そういえば本の中でもオドゥー国の人族は肌の色が濃いと書かれていたっけ。
そして、メイドたちが告げた『混ざりモノ』という言葉の真意をいやでも理解してしまった。
「……混ざりモノって、オドゥーの血が混ざっているから?」
「またまた正解。お嬢は正確には侯爵様の妹の子……姪っ子なんでさ。お母さま……イザベラ様はアワルフィ侯爵家の長女だったんすよ。んで、友好の証としてオドゥー国に嫁いだんでさぁ」
手中のカップに視線を落とすカルヴィン君の表情は、そのイザベラさんを懐かしんでいるようだった。
なんだか意外だ。今日あったアワルフィ侯爵家のメイドたちは排他的でコリーさんやイーリスちゃんを見下していたのに。使用人の価値観は主人によるものが大きいと思おうんだけど、そんな排他的な家から他国……それもおそらく見下しているであろう国に嫁がせるなんて。
「この家は元々ここまで人族至上主義じゃなかったんすよ? まあ、それは追々話すとして……。イザベラ様はオドゥーで子宝に恵まれて幸せに暮らしてたらしいんでさ。あの人は大らかで種族なんて気にせず誰とでも打ち解けるような方だったから、アゴヤムより過ごしやすかったんでしょうなぁ」
「イーリスちゃんはお母さんに似たんだね」
「ええ……見た目はお父様似らしいですが、中身はイザベラ様そっくりでさ」
ふっと微笑んだカルヴィン君の表情はとても朗らかで、初めて見るものだった。でも、すぐに悲し気に目を伏せてしまう。
「……でも、今から4年前、イザベラ様と旦那さんは帰らぬ人となっちまいやした。詳しくは聞かされてないんでさぁ。ただ、不幸な事故だったと……。まだご存命だった大旦那様がオドゥーで身寄りを無くしたお嬢を引き取ってきたんです」
「そんなことが……話の流れから察するに、イーリスちゃんが離れに追いやられたのは大旦那様……先代の侯爵様が亡くなったから?」
「ちょっと違いまさ。お嬢が離れで暮らしてるのは大旦那様の遺言でさ。大旦那様なりにお嬢を守りたかったんでしょうね。あのままお屋敷で暮らしてたら、奥様やアンブロシア様にどんな目にあわされていたことか……」
まだ会ったことはないけど、皆の話から察するに侯爵夫人とアンブロシアと言う少女は相当苛烈な性格をしているらしい。袖口から見えるイーリスちゃんの素肌に刻まれている痣や古傷は彼女たちのせいだとカルヴィン君に聞いた。
「侯爵は止めないの? 戸籍上では娘で、唯一妹の血を引いた子なんでしょう?」
「……奥様は公爵家の出身で、しかも聖女の血筋なんでさぁ。恋愛結婚だったらまだ御せたかもしれやせんが……あいにく、向こうの方が家柄も血筋も上で政略結婚とあっちゃねぇ……。平たく言うと旦那様ですら頭が上がらない相手ってワケなんでさぁ」
「ああ……。もしかしなくても、お屋敷のメイドたちが人族至上主義なのって……」
「奥様の影響でしょうなぁ……見知った顔の使用人たちは暇を言い渡されてやした」
「……ひどいね」
思わず零れた言葉にカルヴィン君は肩を竦めるだけだった。それはあんなひどい環境になるし、そんなところで育ったら価値観も歪んでしまいそうだね。
本音を言うとこれ以上聞きたくはないんだけど、メイドたちが言っていた言葉でどうしても気になる言葉があるんだ。
「『不吉な瞳』ってどういうこと?」
「……あのアバズレ共、余計なばかり囀りやがって」
眉間に皺を寄せて思い切り舌打ちをするカルヴィン君にちょっと驚いてしまう。いつも怠そうだったりするけど、こんなに態度が悪い姿は初めて見た。目を丸くする僕に気付いたカルヴィン君は咳ばらいをひとつしたけど、もう遅いよ?
「……この国の成り立ちは聞きやした?」
「勇者と聖女が魔王を退けた云々のやつだよね。イーリスちゃんから聞いたよ」
「ああ、お嬢あのお話好きっすもんね。んじゃ魔女の話は?」
「それは知らないな……賢者が死んだのは聞いたけど」
「なるほど……勇者一行って本当は4人だったんでさぁ。勇者と聖女と賢者と……魔女」
「魔女なのに勇者パーティだったの?」
「正式には魔法使いなんすけど……勇者を裏切って魔王に寝返ったから魔女って言われるようになったんでさ。裏切り者の魔女は国外追放されたんす」
「それがイーリスちゃんと何の関係が?」
魔女とか裏切り者とかイーリスちゃんから一番遠いところにある言葉だと思うんだけど。
話の流れが見えなくて首を傾げる僕にカルヴィン君は自分の目元をとんとんと叩いて見せた。
「その魔女の瞳は人を惑わすピンクベリルだったと言われてるでさ」
「……まさか、イーリスちゃんの瞳の色がピンクベリルだから……だからあんな蔑まれてるの……?」
肌の色とか、瞳の色とか……生まれ持った物であそこまで蔑まれなくちゃいけないの?
イーリスちゃんのおじい様は良かれと思ったんだけど、オドゥーで暮らしたほうがあの子は幸せだったんじゃないかな。
やるせない気持ちになってしまって、なにも言葉が続かない。
「それだけじゃねぇんすよ」
「まだ何かあるの!?」
「その気持ち、めっちゃわかるっすよー。ダメ押しになったのはお嬢の魔力判定の結果っす」
「本で読んだけど、7歳になったら自分の魔法属性を判定してもらう儀式があるんだよね?」
「そうっす。そこで出た結果が治癒魔法だったんでさぁ。本当なら希少な属性なんで、褒められることはあれど……蔑まれるなんてことはないんすけど……すでに聖女が居たら話は変わりまさぁな」
心底納得がいかないといった表情のカルヴィン君の様子と、イーリスちゃんが時折漏らす、私なんて義姉に比べたらという言葉が脳内で浮かんで、とある答えを導き出した、
……そうであって欲しくないと思いながら僕は口を開く。
「……まさかアンブロシア嬢も治癒魔法が使える?」
「はは、本当に頭の回転が速いっすね……その通り。アンブロシア様は治癒魔法を使えるんすよ。さっきも言った血筋のこともあって、すでに聖女に認定されてたんでさぁ。聖女様以外の治癒魔法は下級ポーション以下だと言われてるんでね。それにそもそも治癒魔法は聖女様しか使えない魔法……混ざりモノのお嬢の結果はなかったことにされてまさぁ」
そういって笑うカルヴィン君の表情は今にも泣きそうだった。
太陽みたいなあの子が見せる翳りの原因かこれだったんだね……。こんな本人ではどうにもできないことがたくさん重なって、しかもそれで虐げられるなんておかしいよ。
僕からしたら義妹を虐げるアンブロシアという子よりイーリスちゃんの方が聖女に思えるんだけど。
「カルヴィン、あなたは本当に口が軽いですね」
いつの間にか調理場にやってきたコリーさんがカルヴィン君の頭を叩いた。
確かに人のプライベートな話をべらべら話したらいけないんだろうけど……。
「コリーさん、カルヴィン君を怒らないであげて。僕が聞きたいって言ったんだから」
「……そうだとしても、けじめをつけないといけないでしょう?」
「姉さんいてぇ……」
「嘘おっしゃい。でも……イーリスお嬢様と共に暮らすのらいずれは知ることになるでしょうね。それも、おそらく悪意に満ちた言葉によって」
ああ、たしかにあのメイドたちならそれくらいしそうだなと思ってしまう。それくらい、彼女たちの目には悪意が宿っていた。
「そういえば、コリーさんたちはなんでイーリスちゃんと離れで暮らしているの?」
「私とカルヴィンはイザベラ様に拾われた身……我らが仕えるのは侯爵家ではなく、イザベラ様、ひいてはイーリス様お嬢様個人なのです」
「そーそー。それに、あんなギスギスしたところで働いてたら尻尾の毛が抜けまさぁ」
「それは一大ごとだねぇ」
「禿げたリス獣人の尻尾とかいやっしょ?」
いつもの調子を取り戻したカルヴィン君がにっと笑う。調子のいいカルヴィン君にコリーはやれやれとばかりにため息を吐いた。
呆れた顔を浮かべていたコリーさんだったけど、すっと僕を見つめてくる。とても真っ直ぐで、どこか祈るような視線に僕は居住まいを正した。
「私たちはお嬢様を幸せにしたいだけなのです」
「……その気持ちは僕にもわかるよ」
「……ありがとうございます。さて……そろそろ寝室にお戻りくださいませ」
「うん、カルヴィン君ホットミルクありがとう、お陰でよく眠れそうだよ」
「いーえー」
ひらひらと緩く手を振るカルヴィン君と柔らかく微笑むコリーさんに見送られながら、僕は自室に戻る。
途中、イーリスちゃんの自室の前で立ち止まり閉ざされたドアに触れた。
「……僕にできることは少ないかもしれないけど……君を守らせて」
目を閉じて小さく呟く。すると、ドアが開かれてリオンが顔を出した。
「どこに行ったのかと思ったら……いくら猫でもレディの部屋に入るのはどうかと思うよ?」
「にゃん!」
「はいはい、僕も戻るから」
リオンがズボンの裾を噛んで引っ張るままに僕は部屋に戻った。