2話
まるで絵画のような美しい光景に見惚れてしまっていたけど、足元でリオンが鳴いたことで我に返った。
「だ、大丈夫!?」
ばしゃばしゃと小川に入り、その人の元に駆け寄る。靴が濡れるのとか気にしていられない。
倒れている人の横に膝をついて、顔を覗き込む。顔に掛かる髪を払うと、その人が男の人だということが分かった。
ひどく痩せたその人はとても苦しそうに顔をゆがめているし、額に脂汗も浮いてて全然大丈夫じゃないのが一目でわかった。
それに呼吸も浅くて苦しそう。大きな怪我はなさそうだけど、ひどく弱っているみたい。
ついてきたリオンも心配そうに男の人の周りをうろうろする。
「……怪我しているように見えなくても、頭を怪我しているかもしれないから動かしたらダメだってお父さんが言ってたよね」
あいかわらず、ふわふわさんは男の人の周りに集まっている。まるでこの人を助けてと言っているみたい。
……うん、これなら大丈夫だよね。
さっきみたいに手を組んで、目を閉じる。目を閉じても周りのふわふわさんを感じることができるのを確認して口を開く。
「ふわふわさんこの人を助けたいの、お願い力を貸して」
私の声に応えるように、暖かいモノが身体を包んだ。暖かいモノが手に流れてくのを感じ、男の人に掌をかざす。私の手を伝い暖かいモノは男の人の体を包んで消えた。
目を開けて男の人の顔を再度覗き込む。さっきまで苦しそうだった呼吸は落ち着いて、表情も柔らかくなっていて安心する。一気に気が抜けて、その場に座り込んでしまった。
「はー……よかった……」
すうすうと寝息を立てる男の人をぼんやり眺める。さっきは必死でこの人のことを全く観察する余裕がなかったね、そういえば。
ひどくやつれているし、汚れているけど整った顔立ちなのが手に取るようにわかる。こんなに綺麗な人っているんだなぁ。
目元に刻まれた皺から、40代くらいのおじさまに見える。さっき治したから傷はないけど、ボロを纏っている上にひどく痩せてるんだよね。どこかでひどい扱いを受けて逃げ出してきたのかな。
あまり人に近寄ったりしないふわふわさんが懐いているみたいだから、悪い人じゃないと思うんだよね。
そっと男の人の顔にかかる前髪を払う。やつれてるけど、本当に綺麗な人。
「このまま放って置くわけにはいかないよね……おじさま、起きて」
数度肩を揺するけど起きる様子がない。
どうしたものかと悩む私の手にリオンが頭を擦り付ける。あ、そうだ。いい方法があるじゃない。
「リオン、離れにいるコニーとカルヴィンを呼んできてくれる?」
「にゃん!」
任せろとばかりに一鳴きしたリオンは離れに向かって駆けだした。その後ろ姿を見送った私は、小川に来た本来の目的を果たすことにした。顔を洗って土と血を落として、じくじくと痛む腕を小川で冷やす。
痛みが引くのをぼーっとしながら待っていると、ふわふわさんが私の周りに集まってきた。ふよふよと漂いながら私とおじさまの間を行き来する姿はまるでお礼を言われているみたい。
「お礼言ってくれてるの?私はできる事をしただけだよ」
いまだに眠り続けるおじさまを見て、ふわふわさんにダメもとで聞いてみる。
「ふわふわさんはこの人誰か知っているの?」
当然答えなんて返ってくるはずもなく、ふわふわさんはただただ漂うだけだった。
「お嬢様ー!」
「お嬢ー!」
遠くから足音と私を呼ぶ声が二人分近づいてくる。声がした方に目を向けると、もふもふした大きな尻尾を揺らしコリーとカルヴィンが駆け寄ってきているのが見えた。メイド服が汚れるのも構わず、コリーは膝をついて私を抱きしめる。
強く私を抱きしめるコリーは小さく震えていた。何度も何度も私の頭を撫でるコリーはアンブロシアにされた全てを知ったのだと察してしまう。
「お嬢様、アンブロシア様が離れの方へいらっしゃいました……『躾』をしたと……これのどこが躾なんでしょう」
「コリー……私は大丈夫だから」
「いいえ、今度こそ旦那様へ抗議致しましょう!あなた様がこんな不当な扱いを受けるのは間違っています。お嬢様はアワルフィ家の次女なのですよ!?」
怒りのあまりコリーの手入れされた尻尾の毛が逆立っているのが見て取れる。このままだとお屋敷の方に突撃しかねないコリーの腰に抱き着いて必死で止めた。
「コリー、私なら大丈夫だから!ね、落ち着いて!」
「大丈夫なわけがありましょうか!」
「姉さん頭に血が上りすぎですぜ。今行ったところで、旦那様達は葬儀に参列してるんでさぁ」
「それはそうですが……」
「それに、まだ屋敷を出てなかったとしてもアンブロシア様に『リスならリスらしくクルミを齧ってなさいな』って言われてクルミを投げつけられるだけでさぁ」
「待って、そんなこと言われたの!?」
「あ、やっべ……いや昔の話ですぜ?昔の」
倒れているおじさまの様子を見ていたカルヴィンが気怠そうに声を掛けてきたことでコリーは落ち着いたらしい。それはいいんだけど、今さらっとひどいことされた事言わなかった?
やべーやべーと口を手で覆うカルヴィンをじっと見るけど、目を逸らされる。頭上のリス耳が落ち着かなく動いてるのを見ると、本当に言うつもりはなかったらしい。……一旦それは置いておこうか。
「あなたはなんでそんなに口を滑らせるのですか」
「は……はは、姉さん顔がおっかねぇっすわ……」
二人はよく似た顔に全く別の表情を浮かべている。コリーとカルヴィンの顔がよく似ているのは当たり前なんだよね。だって二人は双子なんだから。
双子の姉は離れの雑用を一手に引き受けている頼れるメイドのコリー。双子の弟はとても料理の腕が立つんだけど、いつも気怠そうにしている料理人のカルヴィン。二人はリスの獣人で、私を家族のように愛してくれる大切な人たちだ。
私がどんなにアンブロシアや義母に虐げられても、笑っていられるのは二人のお陰。
「……ごほん、それにしてもお嬢。またえらいモンを拾いやしたねぇ」
「拾ったというか……ここに倒れてたんだけど……」
「この方、エルフでさぁ」
「エルフ……?」
「ほれ、この通り耳が特徴的でさぁ」
そういってカルヴィンはおじさまの髪をかき分けて耳を晒した。あらわになった耳は確かに私の物とは違って長く尖っている。無意識に自分の耳を触りおじさまの物と比べてしまう。うん、私の耳は丸いね。
「エルフは深き森に住まう精霊と共に暮らす種族でしょう?なぜ王都なんかに……」
「さあ……でも、ロクな扱いを受けていなかった事だけはわかりまさぁな」
「……そうね。とりあえず、離れに連れていきましょう。空き部屋で休んでいただきましょう」
「あ、怪我は一応治したよ」
「さすがお嬢ー」
「ふわふわさんが助けてって言ってるみたいだったから……」
「ふわふわさんが、ですか?」
「うん、たくさんのふわふわさんが集まってたんだ。そんなの初めて見たよ」
「エルフだからとかって関係あるんですかねぇ」
よっこいせとおじさんくさい声を上げながらカルヴィンはおじさまを背負う。カルヴィンの年齢は知らないけど、そんなおじさんくさい事いう歳じゃないのはわかるよ?ああほら、コリーも呆れた顔してる。
いくら痩せていると言っても重いはずなのに、軽々と背負っちゃうカルヴィンってすごい……意外と鍛えてたりするのかな。
私はコリーに手を引かれて、離れに帰り道を進む。
「お嬢様、痛むところはありませんか?」
「歩けないほどの痛みはないから大丈夫だよ。カルヴィンは重くないの?」
「あー食材入りの箱の方がまだ重いでさあなぁ」
「カルヴィン、お客人を寝かせる用意ができたら何か消化がいい物を作って貰えますか?」
「あいさー」
離れに戻ってカルヴィンについていこうと思ったら、コリーに止められた。そして有無を言わんせぬ笑顔で自室へと連行されてしまう。
服を脱がされて、濡れタオルで体を拭かれる。痛くないようにと優しく体を拭いてくれるコリーだけど、表情がとても険しくて思った以上に背中が酷いことになっているのを察した。
「後から軟膏を塗りましょうね」
「うん、お願いね……私が自分の怪我も治せたらいいんだけどね……やっぱり『混ざりモノ』だから……」
「そんなことありません!私もカルヴィンもお嬢様に何度助けられたことか……私の方こそ、少しでも魔力があればこういう時にすぐお風呂に入っていただけるのに……」
「ううん、毎晩水を汲んできてくれてありがとう」
私より辛そうな顔をするコリーをぎゅっと抱きしめる。獣人は身体能力が高い代わりに魔力を持たない者が多い。それはコリーとカルヴィンも例外じゃない。
人間至上主義で魔法が使えて当たり前のこの国はどれほど二人にとって生きづらいことだろう。『混ざりモノ』と虐げられる私なんかよりもっと大変な目にあったんだろうなと思う。
それでも、そんなことを微塵も私に見せないでいつも笑顔でいる二人を尊敬する。
「おーじょー、入りやすぜ」
「どうぞー」
ノックの音の後にカルヴィンがドアを開けて部屋に入ってきた。
「客人は今寝かせてまさぁ。ご本人には申し訳ねぇですが、勝手に身体を拭いて俺の服を着せてます」
「そっか……ねぇコリー、おじさまが起きるまでそばにいてもいい?」
「ええ、構いませんよ。アンブロシア様にも外に出るなと言われていますし、ちょうどいいと思います」
「姉さん言葉の端々に棘が……」
「おほほ……何のことかしら?カルヴィン、お嬢様を部屋に案内して差し上げて。私はお飲み物を用意してきます」
「あいさー、んじゃお嬢いきやしょうか」
「うん!」
カルヴィンに手を引かれておじさまが寝る部屋に向かう。
「ねえカルヴィン」
「なんでしょ?」
「私の勝手なイメージなのかもしれないけど……エルフって若い人ばかりだと思ってた」
「あーそれ俺も思ってやした。おじさんのエルフっているもんなんすねぇ」
「そこらへんもそのうち聞けたらいいね」
よかった私の勝手なイメージじゃなかった、ホッと胸を撫でおろしていると部屋に着いたらしくドアを開かれた。
空気を入れ替えるために開けれた窓から心地よい風が吹く。中央に置かれたベッドの上ではおじさまが眠っていた。そしてその足元にはリオンが丸くなって寝ている。
「あ、こいつ姿が見えねぇと思ったら」
「おじさまの事気にったのかな」
「まあ邪魔になってねぇしいいか……」
ベッドに近づいて、おじさまの寝顔を覗き込む。すうすうと規則正しい寝息を立てるその顔はとても穏やかで、最初見たときの苦し気な様子が無くて安心する。
「お嬢、ここに椅子置いときやすんで」
「うん、ありがとうカルヴィン」
「失礼します。お嬢様お飲み物をお持ちしました」
椅子に座ったタイミングを見計らったようにコリーが部屋に入ってくる。サイドチェストの上に置かれたお盆の上には飲み物の他に、私が大好きな本があった。さすがコリー、おじさまが起きるまで手持無沙汰にならないようにしてくれたんだね。
「それでは私は通常業務に戻ります」
「俺も晩飯作りに行くんで、客人が起きたらそこのベル鳴らしてくだせえ」
「うん、わかった」
二人は一礼して部屋を出ていった。
おじさまの様子を見たいのを我慢して、コリーが持ってきてくれた本を手に取る。
ここアゴヤム王国が建国の伝承を子供向けの冒険譚にしたこの一冊は、何度読んでも心躍るんだ。魔王の手から世界を救った勇者様と聖女様のお話は、この国に暮らす人なら誰でも知っている。
何度も読んだせいで擦り切れた表紙を開くと、すぐ物語に引き込まれた。
「う……んん……」
ひどく掠れた声が耳に届く。本を閉じて慌ててベッドに目を向けると、おじさまがぼんやりと天井を見つめていた。起きたばかりでとろんとした瞳は、とても透き通った新緑のようでまるで宝石みたいだと思ってしまう。
「大丈夫?どこか痛いところとかない?」
「あい……りす……?」
おじさまの顔を覗き込んだら、視線が私に移った。小さな声で、誰かの名前を呟くのが聞こえたけど……アイリスって誰だろう?
おじさまは起き上がろうとするけど、うまく腕に力が入らないみたいで慌てて背中を支えた。ゆっくりと体を起こして背中をヘッドボードに預けたおじさまはゆっくりとあたりを見回す。
「ここは……?」
「アワルフィ侯爵家の離れだよ。私はイーリス、ここで暮らしてるの」
「イーリス……いい名前だね」
そういっておじさまは柔らかく微笑んで私を見た。その笑顔があまりにも優し気で、思わず見とれそうになる。いけないいけない……そんなことより、おじさまの名前とか聞かないと。
「おじさまの名前を教えてくれる?」
「名、前……?」
不思議そうに首を傾げたおじさまは、数度瞬きをする。そして、眉間に皺を寄せたかと思うとこめかみを押さえて小さく呻いた。
「おじさま、大丈夫!?」
「わからない……」
「え?」
「わからないんだ……僕は……一体誰……?」