1話
首にずっと嵌められていた首輪がなんの前触れもなく外れて落ちた。
それと同時に、錆びついた音を立てて、鉄格子が開かれる。何が起こったが理解できていない私の前に、ランタンを持った子どもが現れて口を開く。
「逃げてください」
「な、ぜ……」
久しぶりに発した声はひどく掠れていて聞けたものじゃなかった。
「あなたが罪人だと思えないから。さあ、早く」
小さな手で私の腕を掴んだ子どもはお元気で、と朗らかに笑った。
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「これでよし……もう痛くない?」
「んにゃ!」
「うん、大丈夫そうだね。もう変なところに登っちゃだめだよ?」
私の膝の上で大人しく寝そべる黒猫のリオンが元気に返事をする。念のため後ろ足にハンカチを巻いていた手を止めると、リオンは身体を伸ばしお礼とばかりに私の鼻先にキスをした。ついさっきまで高い木の上から足を滑らせて落ちたとは思えないくらいに元気になっていて安心する。
私の言葉にリオンはわかってるとばかりに尻尾を揺らし、丸くなって眠り始めた。
木の幹に背中を預けて、大きく伸びをする。空を仰ぐと、視界に広がるのはたくさんの木々。
降り注ぐ木漏れ日を受けて、私は胸いっぱいに森の空気を吸い込んだ。
この森は私が身を寄せているアワルフィ侯爵家の敷地内にある。いくら街からちょっと外れた場所とはいえ、王都内に小さな森があるのは、初代の国王様がここを残す様にと言ったから、らしい。初代の国王様にとっては大事な思い出の場所だとかなんとか……。
そんな場所だけど、義母や義姉は服が汚れるから森に入るのを嫌う。でも、私はここが大好き。たくさんの動物もいるし、小川は綺麗だし、なにより温かいモノがたくさんいるから。
義母たちは私を本邸から追い出したと思ってるみたいだけど、街中が苦手な私からしたらここに住めるのは、とても助かることなんだけどな。
「ん~いい天気……でも、ふわふわさんがちょっと元気がない気がするけど……」
私の周りをふよふよと漂う温かいモノ……ふわふわさんの動きが心なしか鈍い。この子たちが何かわからないし、どうやら私以外には見えていないみたい。
「お母さんは『あなたを助けてくれるいい子たちなら問題ないと思うわ』って言ってたけど……」
「にゃー?」
「……まあ、わからないことを考えても仕方ないよね」
何一人で喋ってるんだと私を見上げるリオンの背を撫でていたら、急に髪を力任せに引っ張られる。
「きゃ……!」
「あなた、こんなところで何をしているの?」
無理やり木陰から引っ張り出された勢いのまま、私は地面に投げ捨てられた。視界の端に森に似つかわしくない豪奢なドレスが映って、反射的に頭を下げた。
イライラとした様子を隠さない少女はアンブロシア。御年14のアワルフィ侯爵様の長女で……私の義姉に当たる人だ。
「あ……アンブロシア様……お友達が怪我をしていて、それで……」
「ふん……汚らわしい混ざりモノはやっぱり獣と仲良くしているのがお似合いよね。全くなんでこんなのがアワルフィ家の一員なのかしら……」
「……」
「その髪色に肌の色……本当にアワルフィ家の血が流れてるか疑わしいものだわ」
「……」
「しかもよりによって、邪眼持ちなんて……本当に忌々しい」
アンブロシアは美しい顔を歪め、憎しみがこもった瞳で私を睨みつける。見るからにご機嫌は最悪らしい。
彼女の機嫌がこんなに悪い理由になにも心当たりがない。それどころか、ここ数日はアンブロシアには会っていないのに……。
なにを言われるのかと怯える私の視界には、地面と自分の褐色の手が映った。この国の人とは違う肌の色にくすんだ灰髪を見るだけで義姉と義母は顔をしかめる。だからこそ、私をこの森に追いやったんだろうけど。
「まあいいわ。オキセナモラ公爵家のご隠居が昨日亡くなったのはあなたも知っているでしょう?」
「は、はい……コリーに聞きました」
「それで今日はご隠居の葬儀があるの。わたくしたち一家は留守にするから、あなたは離れから出るなと言われているはずでしょう?」
「え……ご、ごめんなさい……。ごめんなさい……聞いてないです……」
「嘘おっしゃい! わたくしは確かに昨日、ハンナにあなたに伝えなさいと言ったわ。そして、彼女の口からあなたに伝えたと聞いたのよ」
「ええ、私はイーリスお嬢様に伝えましたわ」
呆然とする私の耳にメイドのハンナの冷たい声が響く。
そんなはずない、だって私は昨日ハンナに会ってすらいないのに……。
なんとか説明しないとと思って顔を上げた私は全てを察した。だって、意地悪く笑うアンブロシアとハンナが目に入ったんだもの。これでなにも察せない程、残念ながら私は鈍くない。
ああ、アンブロシアは私が離れから出るなと言われていないとわかってるのね。わかった上で私に罰を与えようとしてるんだ。
罰には深い意味なんてないんだろうな。ただ、日頃のうっ憤を私で晴らす口実が欲しいだけ。
「もうしわけ、ありません……」
もうすべてを諦めて私はアンブロシアの足元に伏せた。なにも抵抗せず、彼女の好きにさせた方がつらい時間が早く終わることを知っているから。
「ふん……汚らわしい混ざりモノでも学習能力はあるのね。ハンナ、扇子を」
「はい、お嬢様」
私に会うときには季節問わず、常に持ち歩いている扇子を受け取ったアンブロシアが大きく腕を振り上げたのを感じ身体を縮こませる。乾いた音と共に、背中に激痛が走った。何度も何度も襲う痛みにただただ耐えることしかできない。
……だって、汚らわしい混ざりモノである私を助けてくれる人はここにはいないんだもの。
大丈夫、大丈夫。痛いのもつらいのも、苦しいのも全部慣れてしまえばいい。アンブロシアやお義母様に虐められても、屋敷の使用人に蔑まれようとも、私にはお母さんとお父さんとの思い出があるから、大丈夫。それに、離れに行けば、私を愛してくれる人たちもいる……だから耐えれるの。
そう呪文のように心の中で唱え、この辛い時間が過ぎ去っていくのを待つしかできない。
殴打音と私の口から洩れる呻き声だけが響いていた森に、アンブロシアを呼ぶ声が混ざる。どうやらメイドがアンブロシアを呼びに来たらしい。
その声を聴いたアンブロシアはため息を吐き出し、私から離れた。
「今日はこれぐらいにしてあげるわ。さっきも言ったけど、これから葬儀に参列するの。あなたはさっさとあのボロ家に戻ることね」
「は……い……」
そういってアンブロシアは踵を返し、去っていく。二人の足音が聞こえなくなるまで私はそのまま蹲っていた。
前に、まだアンブロシアが去っていないのに顔を上げちゃったことがあったんだよね。その時はそれもう手ひどく『躾』をされたっけ。
なにがアンブロシアの逆鱗に触れるのかわかった物じゃないから……うかつなことはできない。
「……にゃん」
蹲ったままだった私の手をリオンが舐める。私を見上げるリオンの顔には心配ですと書かれていて、思わず頬が緩んだ。
「リオンまだいたのね。私なら大丈夫、だっていつものことだもの」
ゆっくりと顔を上げると、ぼたぼたと流れた血が地面を濡らした。あれ?と思うけど、じくじくと鼻が痛むことに気付く。
あちゃー、いつの間にか地面に顔をぶつけちゃったみたい。
「鼻血なんてレディが流すものじゃないのにね……ま、そもそも私はレディじゃないけど」
おろおろするリオンを落ち着かせるために軽口を叩きながら鼻を押さえる。
そう、この国の貴族としての教育を受けていない私はレディになんてなれはしないのだから。
鼻の奥がツン、として視界がじわじわと歪んでいく。
涙が出るのは鼻が痛いから、別にこの理不尽に今更嘆くつもりはない。だって、私には行く当てなんてないんだもの。
「……アンブロシア、なんであんなに機嫌が悪かったのかな」
「にゃ?」
「あー……そういえばこの間コリーから、今日はロラン殿下とお茶会の日だからアンブロシアは不在って聞いてたっけ」
なるほどなぁ、葬儀でその予定が無くなってしまったから八つ当たりされたんだ。
「うーん……いくら会ったことが無い人だからって、王家の血を引く方が亡くなったのにデートの邪魔をされたって思うのはどうなんだろうなぁ」
まあでも、アンブロシアは婚約者であるロラン王太子に執着心に似た恋心を向けてるってコリーが言ってたし、仕方ないのかもしれない……。いや、それは貴族以前に人として褒められたことじゃないのでは……?
「……アンブロシアの代わりというわけじゃないし、混ざりモノの私に祈られるのは嬉しくないかもしれないけど……安らかに眠れますように」
昔お母さんに教えてもらったように、両手を組んで私は会ったこともないご隠居に祈りを捧げる。
これくらいしかできないし、自己満足かもしれないけど……。
「……さて、そろそろ戻らなきゃね……いたた……」
本当は身体中痛くて動くのはおっくうだけど、アンブロシアの言いつけもあるから早く離れに戻らないと。
何とか立ち上がってゆっくりと歩き出す。私の足元にはリオンが心配そうについてきてくれていた。
やっぱり、人間より動物たちの方が優しいよ。
「あーでもその前に、小川によって血を落とさなきゃ……こんなに泥とか血がついてたらコリーとカルヴィンが心配するもんね」
離れで一緒に暮らす侍女とコックのことを思い出したら、思わず苦笑いが零れてしまった。私なんかを慕ってくれるのはとても嬉しいんだけど……。ちょっとむこうみずというか、猪突猛進というか、怖いもの知らずというか……そんなところがある彼女たちがこの状況を見たら何が起こるやら……。私の代わりに怒ってくれるだけならまだいいけど、姉弟揃ってアンブロシアに直談判するかもしれない。
私がアンブロシアに八つ当たりされるのはいいんだけど、2人がひどい目にあうのは嫌だなぁ。
そんなことを考えながら歩いていると、水の音が耳に入る。目的地が近いみたいでほっと一息ついた。
早く汚れを落として、せめてじくじくと痛むところを冷やしたい。
ぱっと視界が開けて、川辺の涼やかな空気が火照った頬を撫でる。木漏れ日が水面に反射してキラキラと輝いてとても綺麗。
急に明るくなって目を細める私の視界の端に、木漏れ日とは別の輝きが映った。
「うん……なに?」
視界の端に映ったものに目線を向けた私は、ソレに思わず目を丸くしてしまう。
「……精霊、様?」
ソレは小川のそばに倒れている人だった。
しかもなぜかその人の周りにはたくさんのふわふわさんが漂っている。まるでその人を心配して寄り添っているみたい。
伸ばしっぱなしの金髪が小川に揺蕩っているのが、輝いて視界に映ったらしい。
金色の髪が広がって、きらきらと光るふわふわさんはあまりにも幻想的すぎて、一瞬白昼夢でも見てるのかと思って何度か瞬きをした。でも、その人は消えることなくそこにて、まぎれもない現実だと理解する。