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名前などない

愛などない

作者: ようこ


 カラー剤の匂いが鼻をつく。

 狭苦しいバスルームの浴槽に頭をもたせかけて、めぐが目を閉じている。

 彼女の出来のいい小さな頭は、いまシャンプーの泡で覆われていた。

 まだ駆け出しの僕は、勤め先のヘアサロンでアシスタントをやっている。

 そういえば、めぐと僕とは幼馴染だけれど、こうして彼女の髪を触るのは初めてのような気がする。

「よかったの?染めちゃって。カレシ、黒い髪が好きだったんでしょ」

「ん。いいの」

 遼平はシャンプーするのがすごくうまいね。

 目を閉じたままそう言う彼女が、泣いていないかと心配だったが、こうして見る限りでは普段と変わらない態度に思える。

 彼女の「カレシ」というのがろくでもない男だということは、とっくの昔に知っていた。

 そして、その男にはめぐのほかに女がいて、更にはそちらの方が本命らしいことも。


 そんな馬鹿らしい恋愛を他の誰でもなく、小さなころから真面目一辺倒なめぐがしてしまっているのだから、人って分からないものだ。





 いつだったかそんなようなことを、彼女に言ったことがある。

 彼女が6本1箱のチューハイを手土産に訪れた、寒い冬の日のことだ。

 数日前から厳しい冷え込みで、隙のない化粧をしたローカル局のアナウンサーがこのあたりでは今年初めての積雪になるでしょう、と言った日の晩だった。

 一人暮らしのくせに僕の狭苦しいアパートに土鍋がきちんと置いてあるのは、めぐが冬になると頻繁に鍋を食べにくるからだ。

 水炊きと言うには少々バラエティに富んだ具材の入った鍋を、じっとめぐが眺めていた。

 鍋からあがる湯気が、くるりとカールしためぐの睫毛をかすめていた。

『恋愛ってさ、ひとつも思うようになんかいかないよ』

 やめておいた方がいいような奴を好きになって、どう頑張っても嫌いになれない。

 恋愛事には昔から淡白に思えためぐがそんなことを言ったものだから、今でも覚えている。

『自分でも馬鹿だってのは分かってるんだけど、こればっかりはねえ』

 そう言って困ったように笑った。


 きっと彼女がその日僕の部屋を訪れたのは、バイトだか学校だか、僕にはなんだか分からないが、とにかく何かとても嫌なことあったからに違いなかった。

 でもそういうもやもやを話すことはできずに、ただ誰かにぎゅっと抱きしめて慰めてもらいたくて家を出た。

 めぐの「カレシ」がそう簡単に彼女に会ってやるとは思えないから、彼女は結局僕の部屋へ足を運ぶことになる。

 僕の顔を見ても、もやもやはちっとも晴れないと知っていながら。




 シャンプーを二度して、その後シャワーを終えた。湿った髪を大きなタオルで拭いてやると、めぐはくしゃくしゃと頭を撫でられた猫のように目を眇めている。

 狭い洗面所にふたりきり。ドライヤーのコードを前に座るめぐにまわすと、さっさとコンセントに突っ込んだ。

 音が静かだという売り文句の割に、ゴーゴー唸りをあげているドライヤー。なんだかなあ、と思うが、まあ使いやすくて便利なので未だに愛用している。

 ショートカットにしたせいで、いままで黒髪で覆い隠されていたうなじがあらわになっていた。

 白く、細い首筋。今までに一度だけ、ここに赤い痕が残されているのを見たことがあった。めぐは当然ながらそういうところはきちんとしているので、気づいていたとしたら決して僕の所へはやってこなかっただろう。

 だから、あの男がわざとめぐに分からない場所につけたのだと分かった。

 こうして見ると、確かにその気持ちはよく分かる。

 あの時、ふつりと湧き上がった、怒りにも似た感情は、時折ふとした拍子に蘇る。

 男と会う約束をしていた日の夜中に「カノジョが来るって言うから」と申し訳なさそうに彼女がうちにやってきたときだとか、男に縁日ですくってもらったという金魚を目に入れてもいたくないぐらい大事に世話しているのを知ったときだとかに。




 髪を乾かし終わったときには、すでに目を閉じかけていた。

 今にも眠りそうな彼女の肩をそっとゆすると慌てて背筋を伸ばした。

 髪はめぐが言うところの「きれいな茶色」、カラー剤のパッケージによるとピンク系のアッシュにちゃんと染まっていた。めぐが髪を染めるのは初めてだから、きれいに色が出ないんじゃないかと心配していたが、杞憂だったようだ。




「はい、お待たせしました」

「おおー、さすが。ありがとね」

「いや、別に俺は大したことしてないけど」

 僕はそういって、彼女の頭をさらりと撫でた。

 あの男は知らないだろう。こうして彼女に触れる男が他にもいることを。


「それで、めぐの出発はいつだっけ?」

「来月の半ば。ごめんね、いろいろ慌ただしくて」

「いや、全然」

 じゃあ、その前にどっかちゃんとしたとこにメシでも食いに行こう、と言って笑った。

「アーロンはどうすんの。長いこと留守にするのに、ほったらかしはまずいでしょ。俺が預かってもいいよ」

 アーロン。彼女の、最愛の金魚。まるで金魚らしからぬ名前だが、彼女は気に入っているらしい。


 ぺらぺらと嘘は口をついてでた。

 あの男からもらったという金魚を僕が預かったりしようものなら、あっという間に死なせてしまうだろうことは分かりきっていたが、そんなことはおくびにも出さなかった。


「いいの。アーロン、死んじゃったから」


 ぱちぱちと瞬きをしていった彼女の台詞に一瞬固まった。

 なぜかは知らない。だけど、嘘だ、と思った。

 アーロンが既にこの世にいないのはきっと事実だろう。

 でも、それはめぐの手によるものではないか、と何の根拠もないのにそう思った。

 彼女があまりにも透きとおって冷めた目をしていたからかもしれない。


「そういえば遼平のカノジョ、この間見かけたよ。黒髪ロングの和風美人って感じだね」

 私が留学する前に、いっかい紹介してよ、ね?

 そう言って笑う彼女に僕も笑い返す。


 カノジョとはじきに別れることになるかもしれないな、と思った。

 だってめぐはもう黒髪でもロングヘアでもなくなってしまったから。



 玄関まで出て、彼女を見送る。

 めぐはこれから「カレシ」に会うのだと言って、口元を綻ばせていた。


 何年も何年も見守って来た。

 そのろくでもない男なんかより、僕のほうがずっとめぐを大事にしてあげられるのに。



 ああ。ああ。

 けれど、僕と彼女との間に、愛なんてひとかけらもありはしないのだ。



 The End

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