1億円おじさん
「月が綺麗だね」
「あー、それ知ってる! アイラブユーの和訳でしょ?」
「フフフ……ユミちゃん、良く知ってるね」
「そんくらい知ってるし!」
「まあ、一番綺麗なのはユミちゃんだけどね」
「もー! ケン君ったらー!」
「「アハハハハハ」」
展望台で星空を眺めるカップル。その背後に、怪しい影が忍び寄ります。
「フッヒッヒッヒッヒッヒ!」
不気味な高笑いにカップルは思わず振り返ります。
影の正体は、どでかいスーツケースを二丁引っ提げた恰幅の良いおじさんでした。彼の引き攣った口角の尋常でない悍ましさに、若い男女は思わず身構えます。
「何だあんた!」
「私、1億円おじさんという者です」
「ケン君……こいつキモいし怖い……」
「安心しろ。ユミは俺が守る」
「うん……」
彼女を庇う様に立つ彼氏に向かって、1億円おじさんと名乗った男は肩をすくめてみせました。
「フヒッ! どうかご安心ください。私は怪しい者でも何でもありませんし、悪人でもありません。むしろいい人なのです」
「いい人だと?」
「ええ。そうです。ちょっとした慈善活動をやっておりましてね。出会った方に1億円を差し上げているのです」
「はぁ?」
「嘘だと思うならこのスーツケースの中身をご覧ください」
スーツケースには、分厚い万札の束がびっしりと敷き詰められていました。
カップルは口を開け広げて唖然とするばかりでした。
「丁度1億円でございます。折角なのでこのスーツケースを一つずつ、あなた方に差し上げましょう」
「マジで言ってんの!?」
「ウチも欲しい!」
「……ただし、条件があります」
目を輝かせる二人に、念を押すように1億円おじさんは言いました。
「お二人には別れて頂きたい。金輪際会わないで欲しいのです」
「はぁ!? 何でだよ!?」
「――決まってんだろ! おめーらみたいなイチャイチャカップル見てるとイライラすっからだよ! ……おっと失敬。とにかく条件は変更いたしかねます。なにとぞご検討ください」
「「…………」」
沈黙は間もなく破られました。
「ケン君、別れよっか」
「……ああ」
そしてカップルは別れ、おじさんは最高にいい気分になりました。
「ふひひひひひひひひひひひひひひ! っひっひひいひぃひひひひひ!! ひっひっひっひひひひひ! ひっひっひっ!」
1億円おじさんの引き攣った哄笑が、夜の展望台にこだまし続けました。
◇
それからも1億円おじさんの慈善活動という名の悪趣味なゲームは続きました。
1億円おじさんは……
絶賛レビューを罵倒レビューに書き換えさせました。通り縋った人同士をセックスさせました。ミミズを食べさせました。アルミホイルをカミカミさせました。小便を一リットル飲ませました。チャックを一日中開けさせました。1時間土下座させました。
公園で哲学書を読んで深淵な事を呟いている男すらも、1億円を目にした途端に豹変し、「ワンワン! 一億円欲しいワン!」とイヌのマネをして1億円おじさんを大いに楽しませました。
誰もが1億円を貰う為に、1億円おじさんの言う通りにしました。
そのたびに1億円おじさんは大喜びしました。
「ひっひっひっ! どいつもこいつも、みんな私の言いなりじゃないですか! 馬鹿ですねえ! ふひっひっひっひひ!」
やがて噂を聞きつけ、沢山の人達が1億円おじさんの元にやって来ました。
「1億円おじさま! 見てください私の土下座を! あなたの為に徹夜で練習してきました! どうか……! どうか1億円の御慈悲を!」
「ゥワン! ゥワンワン! クゥーン! クゥーん! クウウウウン!!」
「お願いですうううううう!! 俺は何でもやります!! うんこだって食べますし骨折だってします! 俺は完全にあなた様の言いなりです!!」
1億円おじさんは嗤い転げました。
「ひいいいいいいいいいいい! ひいいいいいいいいいいいいいい! ひっひっひっひっひっ!」
丸一日土下座を鑑賞し、人犬の散歩を愉しみ、ティッシュを100枚食べさせ、1億円おじさんは有頂天でした。
◇
ある日、一億円おじさんは海に来ていました。
「…………」
やつれた初老の男が波打ち際に立って、じっと海を眺めています。
1億円おじさんは男をターゲットに定めました。
「こんにちは!」
「…………」
「私、1億円おじさんという者です」
「そうかい」
「私、ちょっとした慈善活動をやっておりましてね。出会った方に1億円を差し上げているのです」
「それは結構なことだ」
どうも男の食いつきが良くありません。
1億円おじさんは眉をひそめましたが、気を取り直してスーツケースを開いて見せます。
「丁度1億円でございます。折角なのであなたに差し上げましょう」
「……いらねぇよ」
「今何と?」
「いらねぇっつってんだよ。金なんか」
予想外の言葉に、1億円おじさんの表情から笑みが消えました。
「何故です!?」
「他にもっと欲しい物があるんだ。金なんかどうでもいい」
「1億円をどうでもいいとは……! あなたは何が欲しいというのです!」
「命だよ」
「命?」
「俺は余命1年でな……」
「そ、そうですか」
「死にたくねえ……死にたくねえよ……頼む……頼むから助けてくれ……」
「……うっ」
「金なんか要らねえ……何でもする……だから助けてくれ……」
男の縋りつくような目は、1億円を求めて媚びへつらう人々の目とは全く違っていました。
彼の目は痛々しいほどに切実で、その奥底には死に向かいながらも禍々しく輝く生命の鼓動が静かに潤んでいるのでした。
1億円おじさんは、何も言えなくなってしまいました。
何も言えないまま重いスーツケースを引きずって、一人海を後にしました。
その日から1億円おじさんは、悪趣味な1億円贈呈ゲームをパッタリと止めてしまいました。
そして1億円を拒絶した初老の男の事を、事あるごとに思い出すようになりました。
彼の瞳の輝きが心を横切る度に、1億円おじさんは一人部屋の隅に座り込み頭を抱えました。1億円おじさんの鼓動は死に向かって一歩ずつ脈打ち続けていました。




