僕達は手を取り合って暮らしていくんだよ
拓海は大事な指を突き指した。
あの鹿角に殴りかかったのだそうだ。
また、イマムラ氏の手術が終わった後で良かったと、思わず言ってしまった人にも拓海は殴りかかりそうになったそうで、俺は拓海を押さえてくれた兵頭には一生頭が上がらないだろう。
それから、俺の左足は俺の目論見通り、何をしようと一生杖無しでは無理な足となった。
「君の思考回路でこの行動は理解できない。」
拓海の声に視線を動かせば、俺のベッドの横のパイプ椅子に拓海は座っており、彼の左手の指先には白い包帯が巻かれていた。
「あなたの行動にこそ、ですよ。ただ、ちゃんと利き腕は使わない判断はされたようでほっとしました。」
「僕の利き腕は左だよ。矯正して右を使っている。僕のピアノ習得は、最初は右手を動かす訓練のためだけだった気がするね。」
「今はあんなにもピアノがお好きなのに。不思議ですね。」
「人は変わるんだ。変わるから美しくて楽しくて、だからとっても愛おしくて、そして、理解できないときには無性に腹が立つ。」
「申し訳ありませんでした。でもアンリが俺に出た時、あなたを襲う事を考えたら怖くて、それで――。」
俺のくどくどした言い訳が拓海のどこに響いたのか、さらに神経を逆なでたのか、怒っていたはずの拓海が、ハハっと乾いた笑い声をあげた。
「そうか、理解できた。理解できたが大馬鹿者だ。君がアンリの時には左足を動かせると知れば、アンリはその足の制限を解いたはずだ。君はろくでもない浅はかな考えで、大事な自分の体を台無しにしたんだよ?」
俺こそハハハと笑い声をあげた。
嘘を拓海に吐いていたと気が付いたそこで、拓海が制限といったそこで、俺こそ足を壊したかった本当の理由に思い当たったのである。
アンリは俺の頭が作ったものじゃない。
夜中の二時に俺に憑依しているだけなのだ。
そう信じるために足を駄目にしたのだ。
伝説の勇者が俺に憑依したのならば、それでもきっと俺の足は動くはずだ、と。
だってそうだろう?
アンリが俺の頭の中で作られた人格でしか無いならば、俺は誰にも愛されていない人間だと、一人ぼっちだと、認めるしか無いんだ。
「晴君、君の気持ちは想像がつく。あの鹿角。一生許さない。君を傷つけるためだけの映像の編集をしていた。君を手に入れる目的だからこそ、絶対に許せるものじゃない。」
「違いますよ。あいつは俺を自殺させようとしたんです。人殺しが許せない人なんですよ。どうして必死に助けたのかわかりませんけれど。」
俺の目元に温かな指先が乗った。
その指は俺の目元の涙を軽く拭い、俺が馬鹿だと囁いた。
「君に出会って君を殺せる人などいない。特別な君を自分が育てたいと望んでしまうんだ。失った夢を君で叶えられる気がするんだよ。」
俺は何も答えなかった。
特別と言われた事は虚しいばかりで、だけど、特別でいれば拓海に捨てられる事は無いとほっともしていた。
「君という君はどこにもいない。君を知りたいと君と過ごすうちに僕は君が特別になってしまった。みんなもそうだよ。藤君も兵頭君も、君が可愛くて仕方がない。君だって僕と過ごすうちに、単なる素っ頓狂な教授から特別な拓海先生になったでしょう?」
はふ。
俺の胸は自分の吐息で溺れたのか?
息が吸えない。
「晴君?」
「すいません。ありがとうございます。」
「ああ本当に許せない。僕は絶対に鹿角を許さない。また君がこんなにも頑なになってしまっている。これは君のアンリ像を彼が汚したからだね。僕が知って語り合って来たアンリはね――。」
「いいえ、大丈夫です。それに、アンリは俺の代弁者でした。」
「代弁者?違うよ。単なる親ばかだよ。」
俺は拓海を見返した。
すると、拓海は微笑みを俺にしっかりと見せつけると、俺の耳から何も聞こえなくなる言葉を吐いた。
だって、俺が見た映像では、アンリは拓海を殺したがっていた。
親友になった?
「フフフ。どうしたのかな?晴君は。ああ、もう他人行儀に君は止めるね。藤君だって君をハレと弟みたいに呼んでいるんでしょう。だったら僕こそ父親な気持ちで君を呼びたい。いいでしょう?」
「もちろんですよ。好きに呼んでください。」
「じゃあ、晴純。君は鹿角編集でも僕が言っていた台詞は覚えてるよね。愛情は一つだけじゃない。受け取るのも差し出すのもいくつだっていいんだよ?」
「ありがとうございます。」
「もう!頑固者はアンリ譲りか。彼と分かり合うのも時間が必要だった。だけどね、彼は僕が君のもう一人の義理の父になることを歓迎してくれた。ピアノを弾く事は絶対に嫌だと拒否されたけどね、最近では僕の弾く曲を鑑賞してくれる程になったんだよ。」
「……うそ。」
拓海は立ち上がり、呆然と拓海を見上げる俺にかがみこんだ。
拓海の右手は俺の枕元のナースコールに伸びており、彼はナースに俺の移動のために車椅子を持ってくるようにと指示していた。
それだけだ。
え?
拓海の右手は俺の頭を撫でるようにして俺の首元に差し込まれ、俺を自分に抱きかかえるようにして俺を起き上がらせて俺の体の向きも変えていた。
「さあ、車椅子の移乗は君ももう少し協力して動こう。」
「は、はい。あの、車椅子で、あの、どこに?」
「指をケガした僕はしばらく手術から解放されたんだ。そういう時こそ家族サービスするものでしょう。これから僕の部屋に行ってね、君が聞きたいと望んだカノンをグランドピアノで奏でてあげるよ。」
俺は再び声を失っていた。
胸だって空っぽだ。
息だってどうやって吸っていいのかわからなくなっている。
頭は動いていないのに、俺の口は勝手に動いていた。
「あなたは左手をケガしているじゃないですか。」
拓海は俺の左手を彼の包帯の撒かれた指で握った。
「君の左手は無傷じゃないか。」
「一緒に、弾くんですか?」
「僕はピアノを弾くと僕だけの世界に入ってしまう。それで全てを遠ざけて来たんだよ。親も兄妹も友人も恋人も。でもね、晴純の顔が見たいと思うからか、僕は自分でピアノから離れる事が出来るようになった。」
「拓海先生?」
「フランケンシュタイン博士は神に挑もうなんて考えていなかったんだ。家族がきっと欲しかったんだ。だから人造人間を作ったんだと思うよ?」
「あなたはフランケンシュタインなんかじゃありません。ごめんなさい。俺はあなたを傷つけたかった。あなたを侮辱したかった。だって、あなたが生をくれた俺なのに、俺の言葉でお父さんもお母さんも傷ついたりなんか絶対しない。だから俺はあなたを罵りたかったんです。」
「ふふ、言い得て妙だなって意外と嬉しかったんだけどね。でも、君の謝罪は受け入れました。」
拓海は微笑んでいた。
俺の左手は拓海の左手に握られ、拓海の右手は俺の背中に回されているが、さらに彼は俺を自分に引き寄せたのだ。
「君が生きていて良かった。」
「先生。」
「君とピアノの連弾ができるし、僕のロッカーに入れっぱなしの熊ゴロー二号も君に手渡してあげられる。」
「熊ゴローに二号がいたんですか?」
「うん。君が凄く喜んでいたからね、ぬいぐるみに何かあった時の為にと、もう一体買っておいたんだよ。」
「――あなたは、」
俺は何も言えなくなった。
舌が絡まり喉が詰まったわけではない。
頭の中に言葉が描けなくなったわけではない。
嬉しくて、ただ嬉しくて、その感情に溺れてしまったのだ。
「晴純?」
俺は拓海の手を振りほどけない代わりに、拓海の首元に顔を埋めていた。
いつもよりもよれよれのシャツの感触はごわごわしてるし、シャツからは洗っていない匂いもしたが、でも、彼は温かで、とっても温かで、俺の両目は緩むばかりで涙が零れて止まらなくなった。
「……せんせい。ほんとうにありがとうございます。あなたは本当に俺にとっては神様ぐらいに特別な人です。」
拓海は俺をさらに泣かせる台詞をかけてくれるどころか、少し拗ねた口調でぼやいた。
「熊ゴローに負けた気がする。」




