相談その三 美しき拓海の秘書
病院に辿り着けば、そこにはもちろん手術中で拓海はおらず、待ち受けていた兵頭に家に帰れと追い立てられただけだった。
兵頭の明るい茶色の長い髪の毛が、病院の明るい照明によってルビー色に輝いてキラキラして、兵頭の美しい顔をさらに際立たせていたが、彼女が俺と藤に向ける瞳はギラギラした鬼のような厳しいものだった。
「拓海先生のマンションが一番安全よ?帰りなさい。」
しかし、俺は病院に留まりたいと兵頭に言った。
ゴルゴダさん達に自分が病院に行って主幹事を守ると言ったからであり、その行為をする事で、郷田が他の信者に何を言っても俺の方を信者が信じてくれると思ったからである。
「でも、あなたは後継者になろうなんて考えていないのでしょう?」
「俺は傷害や器物損壊で訴えられたくないんですよ。後継者だと思わせといた方が安全じゃないですか。」
藤がポンと俺の肩に手を乗せた。
「晴君。人の目があるところでは取りあえずその本質は隠そうな。」
「大丈夫ですよ。ここには俺と藤さんと兵頭さんの内緒話を聞ける位置にいる人は誰もいません。」
俺は自分のスマートフォンを翳して、病院の見取り図に俺と兵頭と藤の青いポッチ以外は近くに無いという証拠を兵頭に見せつけた。
しかしそれに感銘を受けたのは藤だけだったようだ。
兵頭は眉間にかなりの皺を寄せたのだ。
そして藤は、そういえば、と言う風に俺に尋ねて来た。
「君はさ、そんなワールドワイドな監視体制を勝手に構築している癖に、どうして拓海先生の監視装置を弄ったりしないんだい?」
「俺を見て安心されるだけだったら、そのままでいいかなって。だってほら、俺が何かした時の責任は拓海先生が取るつもりでしょう?」
「うわあ。君は拓海先生を泥沼にいくらでも引き込むと言っているんだね。」
「俺は自分が一番かわいいです。」
俺と藤の掛け合いを見て、兵頭は何かを察したのだろうか。
俺を教授室にて預かると藤に言い、藤には蹴り出すようにして、壊した車を今すぐに修理工に持って行けと追い払った。
さて、拓海の教授室に俺が訪れるのは初めだ。
大きな書棚や大きな天板を持つ書斎机に座り易そうな椅子がある部屋は、医者の部屋と言うには殺風景で狭苦しいものだった。
医者にはありそうな人体モデルの置物も無く、そういったファイルが乱雑に置かれていもしないのである。
その代わりとして、部屋に残されたスペースは全部占領するという風にして、グランドピアノが居座っていた。
「うわあ、藤さんの言った通り。でも、教授に会いに来たお客さんは何処に座るのですか?床ですか?」
「隣に秘書室があります。」
兵頭は狭い部屋の横壁にあるドアを開けた。
広々とした秘書室が広がり、兵頭が選びそうな華やかな色合いソファの応接セットがあり、大きなホワイトボードは部屋の真ん中にあるが、その周囲には折り畳みのスツールが幾つかあった。
今までそこで話し合いが行われ、手術だと一斉にそこにいたスタッフが駆け出して行ったような、そんな状況に見えた。
廊下に続く両開き扉もあり、あの教授室の寂しい一枚ドアとはえらい違いだ。
「適当にソファに座っちゃって。」
「はい。あの、教授はこっちの部屋で主に活動されて、あっちの部屋はピアノ専用なのですか?」
兵頭はふっと鼻で嗤った。
その通りらしい。
彼女は来客にお茶を淹れているその習慣のようにして奥の給湯室へと歩いて行き、そこで何かを作り始めた。
「大変だったわね。カステラとココアでいいかしら。」
「最高です。」
数分しないで彼女は彼女が言った通りのものを運んできてくれて、俺は温かなココアの香りと甘いカステラの匂いにほっと溜息を吐いた。
「怖かったわよね?」
「藤さんがいましたので怖くは無かったです。」
「そう。それでこれからどうしたらいいのかしらね。あなたの親権があるご両親があの宗教団体にあなたを預けたのでしょう。病院は私立病院でも公共の場よ?ここであの宗教団体が両親から与えられた監護権を持って暴れたら、あなたは彼らと彼らのホームに戻るしかなくなるのよ?」
俺は兵頭が不機嫌だった理由を知り、それが俺への心配でしか無かったと知って嬉しさしか無かった。
だから、俺は口が軽くなっていたのだろう。
「アンリは腕を引っ張られたら体ごと相手に向かって飛んで行けって言いました。相手は俺が引かれまいと抵抗する事を想定しているから、逆に俺が勢いをつけて飛んで行ってしまうと、伸ばしたゴムが戻って来るような衝撃になるんですって。そうやって逃げろ、と教えてくれました。」
「逃げろ、なの?アンリは戦え、じゃないのね。」
「戦うのは正々堂々とした一騎打ちの場合ですって。卑怯な複数の敵には逃げてしまうのが得策だって。」
俺は少々子供っぽく言うと、ココアを口に運んだ。
甘いがほろ苦くて、スティックタイプで作るものと違うと兵頭を見返した。
「ものすごく美味しいです。」
「ココアは練るものよ。鍋に砂糖と同量の純ココアを入れたら、少しずつ牛乳を追加して練りながら温めていくのよ。拓海先生は砂糖を入れないココアがお好きね。私はこの甘いタイプにバターをさらに追加するの。」
俺がバターと言う単語に目を光らせたからか、兵頭は俺のココアの脇に置いてあった蓋つきの小皿の蓋を取り、そこにあったバター一切れを砂糖用の小さなトングで掴んで俺のココアに落とした。
「かき混ぜて。」
「はい。」
俺は言う通りにしてからもう一度それを口にした。
先ほどよりも重厚となるのはわかるが、さらに甘く感じるのは何故だろう。
「不思議でしょう。」
「不思議です。でも美味しい!」
兵頭はにっこり微笑むと、あなたのお母様を脅していいかしら?と言った。
「あなたの監護権も親権代理の委任状も、ちゃんとした書類で手に入れておくべきだと思うのよ。」
俺も兵頭ににっこりと微笑むと、願う所です、と彼女に言った。




