俺は自分を取り戻し自分を失った
手術室で口元に透明なカップのマスクを当てられたそこで、俺達の世界は真っ暗になった。
すとんと意識が落ちていく感触は快感でもある。
手術前に拓海が俺を揶揄った通りだ。
「癖になっちゃだめだよ。麻酔昏倒は体はきついはずなのに、意識はとっても気持ちがいいんだよねえ。」
「教授、研修医の前ですよ。」
看護師の厳しい声が拓海を諫めた。
手術日当日、それも手術直前に、自分の執刀医が大学の教授だったと知るとは何事だ。
日々拓海から信頼が消えていくなあ、と消えそうな意識の中思い返した。
すると、口元からマスクが外され、外したのは看護師の手だろうが、俺のぼやけた視界には拓海が俺をにやけ顔で見下ろしている姿でいっぱいとなった。
「さあ、意識は残っているかな。残っていると痛いよ。麻酔を増やすから言ってちょうだい。」
「あな、あなた……は、むむり、なん、なんだい、ばかり……だ。」
「ありがとう。晴純君。」
再び俺の口元は再びマスクで塞がれ、今度こそ俺は完全な暗黒に落ちた。
何も感じない、俺自身の存在など無い世界だ。
いや、俺達は手を繋ぎ合っている。
アンリと俺は死ぬときは一緒、生きる時は一緒と約束したのだ。
そのつもりだったのだ、俺は。
両親のいない子は両親代わりの人達に大事にされるのに、俺は両親がいても家の中では孤児同然だったのである。
俺だけを見て、俺だけを考えて、俺を第一に愛してくれたのは、アンリだ。
俺は父に甘えるように彼に甘え、彼に頼ってきたのだ。
「いら、いらない。アンリを失うなら、俺はずっと幽体のままでいい。」
「バカ言うなよ。俺は小説の主人公だろ?お前が書き加えて不幸にした俺だろ?お前しか俺を幸せに書き換えることは出来ないだろ?」
アンリは俺に罪悪感を与える言葉を与え、俺はその罪悪感を抱えて生きていける事を嬉しく考えた。
アンリに操られて生きて行けるのだ。
… … … … …
… … …
… …
…!!
真っ暗なだけの意識世界は、どんどんと薄明りを暗闇に差し込んできて、そこで暗闇に一人横たわっていると気が付いた俺は、希望を抱きながら両目を開けた。
「はあ!」
目の中に光が入り、眩しすぎて目を開けた事を悔んでしまった程だ。
ぎゅっと俺は目を閉じた。
「照明消して。」
拓海の厳しい声が響き、俺の瞑った瞼には光を感じなくなり、俺は今度は恐る恐るゆっくりと目を開けた。
部屋は真っ暗ではないが薄暗く、人がいるという影を認識できるのは、俺の方には向けていないベッドサイドライト程度の間接照明によるものだろう。
「大丈夫かな。」
「はい。すごく眩しすぎてびっくりしましたが、今は大丈夫です。」
「君は誰かな?」
何の質問だと顔を動かそうとしたが頭はびくりとも動かず、それはコルセットのようなもので首から上が固定されているからであった。
だから俺は目玉だけほんの少し動かして拓海を見つめ返そうとしたが、拓海こそ俺を覗き込んでいた。
暗闇でもわかるほどに両目を煌かせて。
「君は誰かな?さあ、名前を言ってごらん?」
「がもう、はれすみ、です。」
頭の中で考えた言葉が消えないどころか、声を出そうと気負うことなく、そう、頭で言葉を描く前に口から言葉が出ていた。
俺の頭の中から全てが消えても、俺が言葉に出せる唯一のものである名前だったからだとしても、俺は生まれて初めてぐらい自然に言葉に出せていたのだ。
「蒲生、晴純、です。ああ、俺は蒲生晴純です。」
「君に会えて嬉しいよ。晴純君。」
「ようやく会えたって言い方ですね。俺は危険な状況でしたか?」
言い返しながら、拓海は気が付いていたのだとわかっていた。
そして、俺からアンリが消えてしまっているのも、彼は気が付いているのかもしれない。
そう、俺が肉体に戻っているんじゃないか。
心の中で問いかけても、アンリの返事など戻って来なかった。
俺が生還した代わりとして、彼は消えてしまった、のだ。
彼は俺の父として、俺が死ぬ代りに逝ってしまったのか?
俺は、俺こそ……。
「君のヘルパーの名前は何て言うのかな。」
拓海の静かな声に、俺はアンリを求めて呼ぶのを止めた。
ヘルパー?
「なん、何のことですか?」
「ヘルパーだよ。多重人格を統合する時には必ず現れる、導きとなり主人格を助ける人格の事だよ。いたでしょう、君には。君は三人いた。痛みを受け持つ泣くだけの子供。奥に隠れていた君自身、そして、君達を守っていたヘルパーである暴力も厭わない人格。」
俺は拓海に微笑み返した。
いませんよ、と断言して答えた。
「泣くだけの子供は俺自身です。声が出ず喋られなかったから、俺は泣くだけしか出来なかった。」
「そうか。じゃあ、人格は君という主人格とヘルパーの二人だけか。君を守るために君の脳が作り上げた人格は一つだけなのか。」
「ですからいませんって。」
俺の脳が作った人格なんかであるわけ無いじゃないか。
アンリは存在していたんだ。
存在して俺を守ってくれたんだ!




