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君の言葉が聞きたかった

 曽根は、通常の健康な人間においては害のないはずの、ブドウ球菌と真菌に全身の皮膚を侵されていた。

 指先が真っ黒かったのは、指先に黒カビが侵食していたからであり、両頬に穴が開いていたのは、怪我部分が膿んで痒みが強く出た為に、無意識あるいは意図的に掻きむしってしまったからであろうか。


 さて、そんな菌が大繁殖することになったのは、怪我を治すための軟膏にステロイドが入っていた事と、怪我によって皮膚のバリアも殆どなくなっていたからであろう。


 あるいは、日常的な偏食によって、彼が糖尿病一歩手前ぐらいの健康状態だったからかもしれない。

 そういえば曽根は幼いころから、常に「太りぎみ」の人であったな。


 また、俺が盗み聞いた話では、彼は両腕の骨折によって手もあまり洗わず、その汚い手で退院後の傷のガーゼの取り換えを自分でしていたのも要因の一つだという。


「もう少しで死ぬところだった。壊死性筋膜炎にまで進行しているって、どんな衛生状況なんだ?彼の家は?それで、あんなに酷くなる前に、どうして来院させなかった!」


 楢沢医師は曽根への同情よりも、自分の患者がそんな状況に陥っていた事に憤慨していたが、彼の親友である科学者はふざけた台詞を返していた。


「劇的に進行した壊死性筋膜炎ね。それこそ猫の祟りじゃないのか?」


 楢沢医師は親友のふざけた返しに大きく溜息を吐いた。

 窘める言葉を返すどころか、ため息を吐くだけにしたいだろう。


 俺も盗み聞いて、曽根のプライベートを知って、やっていそう、とは思ったが、一度や二度どころか、日常的に繰り返していた行為だった事にはぞっとしたのだ。


 曽根の状況を深刻に見た病院は保健センターに通報し、保健センターの職員が曽根の家を訪問することとなった。

 彼らが曽根の部屋の状況の確認をしている最中に、曽根家の家屋内に漂う悪臭に気が付いた。

 曽根家の人間に職員が尋ねても、曽根家の人間は悪臭があることさえ気が付いていなかった。

 そこで職員が悪臭の元を探った所、家屋の裏を流れる用水路、そこに積み重なった猫らしき死骸があるのを発見することとなったのだ。


 追及された曽根が答えた事によると、彼は外歩きの猫を見つけると、それに飼い主がいようがいまいが関係なしに、蹴り飛ばしながら用水路に落していたのだという。


 曽根がMRSAや真菌などに感染したのは、猫殺しをしているうちにその猫たちの最期のあがきでひっかかれたからに違いない。


 俺は心の中で曽根に殺されていた猫達へ追悼をしていた。

 誰にも知られずに消え去る命を、俺こそ尊ばなくてどうするのだ。

 俺はこれから消え去るのかもしれないのに。


 もう一つ楢沢と拓海の内緒話を盗み聞いた事によると、MRIの結果として、俺の脳にはいくつかの血栓が確認され、拓海医師はそれを今すぐに取り除きたい病にかかってしまったらしいのである。

 俺はこの話には有頂天となってアンリに伝えたが、アンリは喜ぶどころか俺に二度と二人の内緒話を聞きに行くなと言い放った。


「どうして!メスを入れられるのは俺とアンリじゃない。」


「医術の心得の無い俺達が、医師の話を横から聞いて理解できると思うか?逆に失敗した時の怯えばかりが増えるのでは無いのか?」


 俺はアンリの言葉で、そうだな、と納得した。

 反論できる時間も無かった。

 アンリとそんなことを話し合った翌日、両親が病院に呼び出され、拓海から直々に俺の脳みそ手術についての説明を受ける事になったのである。


 拓海は、血栓があることによって俺に命の危険があり、今の時点で俺にある障害のいくつかが血栓を取り除いた場合には軽減される可能性があると、両親に巧みに説明した。


 むろん両親は、喜んで手術の了解を示した。


 術後の死亡の可能性も聞いていたの?

 高すぎはしないけど、低すぎもしないものじゃなかった?

 血栓を取る手術中には死なないけれど、血栓を取った後の脳内出血と、今まで血栓で血流が阻害されていた脳の副反応が未知数って、このマッドサイエンティストが言ったんだよ?


 だが、親は俺の障害が減る可能性にばかり喜んでいた。

 俺の障害を自分からの遺伝だと思いこんでいた父、俺の障害を自分が引き起こした事故だと黙っていた母には、障害の理由とそれを取り除く治療があることを知った事だけで全てから解放されたような気持ちなのだろう。


「いいのかな。晴純君?」


 拓海はアンリを真っ直ぐに見た。

 するとアンリは俺を自分に引き寄せて、俺を自分の体にめり込ませた。


 拓海は意識を司る者が変更された事に気が付いたのか。

 ほんの一瞬だけ瞳孔を揺るがせたが、その瞳はやはり俺を射抜くように見つめ返して来た。


「いいのかな?」


 俺は唾を飲み込み、それから口を開いた。

 アンリと違ってすぐには声も言葉も出ない、本当の俺自身だ。

 いつものように言葉に詰まったどころか、数秒前の思考さえ掴めなくもなっている俺は、それでも必死に言葉を絞り出した。


 拓海が差し出し俺が了解するべき未来がある選択肢は、自分の名前を忘れないように間違えようもない一つだけだ。


「……かま、かま、いま……せん。」


 両親は久々の俺の失語症状態に驚き、これも血栓のせいだと勝手に喚いて脅え、俺に質問した拓海は、口が裂けてしまったのではと思う程の笑顔を見せた。


「決まりだね。君の意見が聞けて本当に嬉しいよ、晴純君。」


 来週には拓海医師の勤務する祥鳳大学医療センターに転院し、そこで改めての検査をいくつか行った後、俺の開頭手術をする事に決まった。

 レーザーじゃない。

 開頭手術の方だ。


 彼らが自分の病室から去った後、俺は自分の体から逃げ出して宙に浮いた。


「頭をぶち割られるんだね、俺は。」


「心配するな。変人医師は変人であるがゆえに、成功に拘るものさ。お前は絶対に大丈夫だと思うよ?」


 アンリはベッドに横たわったまま、彼の真上に浮く俺を見つめて、俺を安心させるような笑みを顔に浮かべた。

 笑顔になった彼の姿は俺の姿形であるのに、俺と同じ黒い瞳は俺には持ちえない深淵のような真っ黒く輝き、黒髪だって艶めいて太陽のような金髪というふうに、元々のアンリの姿を俺に錯覚させた。


 彼が俺として生きるのであれば、俺はこの世から消えるべき。

 何もできない俺は消えるべきだ。


「晴純。お前が消える時は、俺はお前と消えよう。お前は俺の人生を知っているだろう?最初で最後の息子を失った駄目親父だ。」


 アンリは俺に手を差し伸べた。

 俺のか細い腕のはずなのに、その腕は剣を握って生きてきた男にしか持ちえない筋肉が隆々とした逞しいもので、俺には父親が子供を抱こうと差し出した腕にしか見えなくなった。


「お前が駄目なときは俺に助けさせてくれ。お前が死んでしまう時は俺も一緒に死なせてくれ。一度ぐらい父親として俺は生きてみたいんだよ。」


 俺はその腕の中に引き込まれた。

 手術の日は、俺達はずっと手を繋ぎ合っていようと約束した。

 俺はアンリに、信じているよ、お父さん、と言った。

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[一言] アンリーッ。゜(゜´Д`゜)゜。
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