遠い記憶
僕は自宅を飛び出すと、僕でさえ受け入れてくれそうな所へと歩いていた。
親のいない子供が身を寄せている場所だと僕は聞いており、家には居場所のない僕にも扉を開いて受け入れてくれそうな気がしたのだ。
けれども、僕はそこの敷地内に一歩も入れなかった。
家に帰りなさいと言われた。
お母さんが心配して待っていますよ?
お母さんもお父さんも僕が嫌いなのに?
お父さんとお母さんを殺さないと僕はここに入れないの?
だって、みんなは楽しそうだし幸せそうだよ?
だけど僕は僕を追い返そうとする大人に、何も言い返すことができなかった。
これを言わなきゃと頭の中で言葉を作ったはずなのに、声に出そうとすると頭の中で文字が全部崩れてしまうのだ。
それだけでなく、僕の体は時々声の出し方だって忘れてしまうのだ。
「北沢先生?休憩では?」
「いいよ。この子も困っている子でしょう。さあ、僕と一緒に帰ろうか?」
僕の前に大きな手が差し出された。
僕は手の持ち主を見上げた。
彼はお父さんぐらいの年齢の人で、背も普通というお父さんくらいだった。
丸顔にメガネをしている人で、僕に向けている顔は笑顔のせいか彼の丸顔がさらに丸っこく見えた。
僕はその笑顔が凄く嬉しかった。
彼はお父さんがくれないお父さんの笑顔を僕にくれたのだ。
「君の名前は?」
名前まで聞いてくれた!
僕は嬉しくて、頭の中は真っ白になっても絶対に忘れない、自分の名前を優しい目の前の男性に伝えようと口を動かした。
「だもうはれつみ。」
結果として、いつものように僕の言葉は意味を為さなくなっていた。
自分の名前なのに。
か行とさ行とた行が一緒くたになってしまう僕の舌先。
「がもうはれすみ君だね。君は舌をタップする事が出来るかな?」
「カップ?」
「こうするんだよ。」
メガネの人はポンかコンと聞こえる音を口の中で立てた。
僕はもうびっくりだ。
「つごおい。」
「うん。凄いでしょう。君も出来るよ。練習すればね。できるようになったら、か行とさ行とた行が混ざらないようになるかもしれないな。」
僕は魔法使いのような人の手に自分の手を重ねた。
彼は笑顔のまま僕の手を握り返し、僕も彼の手を握った。
お父さんと手を繋ぐってこんな感じなんだな、そう思って幸せになった。
胸がホカホカ温かくなるのは、幸せな気持ちだからでしょう?
僕はメガネの人と歩き出した。
心配はいらない。
先生と呼ばれてた人だし、こんなにも優しいのだもの。
「通り道に教会があるでしょう。そこで言葉の練習もしているよ。」
「わ、わあ。僕もれんちゅうでし、でで、できる、の?」
「うん。いつでもいらっしゃい。僕の息子もそこでことばの勉強をしている。ほらそろそろだよ。あの茶色の煉瓦の建物だ。」
メガネの先生は彼が教会と呼んだ建物を指さしたまま、かちんと凍ってしまったように動かなくなった。
僕が間違えないようにと、しっかりと指をさしてくれているのだろうか。
僕は言葉の練習ができる場所に行ける、それだけで嬉しくてメガネの人が指さした方角を見返した。
教会の窓は真っ赤に輝いていた。
僕は急に手を振り払われた。
メガネの人は教会へと走っていき、彼は必死に、うぇいる、と叫んでいた。
教会の前には救急車と消防車が何台も止まっている。
「畜生、そう言う事かよ。」
俺は晴純の記憶が見せてきた彼の過去の夢に対して、どうして北沢の父に見覚えがあったのかという理由を知った。
また、火事のあった教会に北沢がいたらしき過去より、北沢が自分の頬に火傷を作ったり、晴純の下腹部をカッターで切り刻んだ理由を何となく推測していた。
もしかして、北沢の男性器は機能していないのでは無いのか?と。




