愚者は踊る
今泉は俺の姿を見咎めるや、アンリに向かって厚みのある封筒を投げつけてきた。
何度も言うが、俺の中の人はアンリだ。
俺は俺の姿の前でふよふよと浮いているだけなのだ。
「これでいいだろ!」
俺達に言い放った今泉の顔は、いつものものと違っていた。
泣いた後のように両瞼は腫れ、叩かれたようにして頬だって赤くなっていた。
「悪かったよ、ほら、これでチャラだ!」
落ちた封筒は銀行のATMにある銀行名が印字された白いもので、その封筒が語るように、封が開いている封筒から一万円札が顔を出していた。
アンリは身を屈めて拾う事もせず、一瞥だけしてさらに歩き始めた。
「ちょっと待てよ!」
自分を無視したアンリの肩を、今泉は掴もうと手を伸ばした。
けれども、アンリは軽くひょいと体を屈めた。
まるで足元の小石に気が付いて、おやっとその石を交わすようにして。
今泉の手は宙を掻き、彼はアンリに嘘吐きと叫んだ。
「お前は体が動くじゃないか!何が障害持ちだ!母さんの職場で嘘演技なんかして、母さんから職を奪う気かよ!」
アンリは体を元通りにすると、今泉を見返した。
その静かな視線によって今泉は次の言葉を失い、代わりにアンリが俺の体の実情を今泉に語った。
「うまく動かないから、普通の人と同じように動く練習をしているんだ。君が簡単に踏み出せる一歩も、俺は考えながら覚悟を決めながら足を出している。」
今泉は歯噛みすると、くっと、くぐもった声を上げた。
そこに追い打ちをかけるようにして、アンリは言い放った。
「俺が健常者でも君が俺にした事が正当化される事は無い。」
「だから金を持って来ただろ。お前から貰った金、十六万だっけ?は返すよ。それでチャラでいいだろ!さっさと拾って受け取れよ!」
アンリは今泉を見つめ、それから落ちている封筒に目線を動かし、またさらに今泉に目線を戻し、今泉が居心地が悪くなるぐらいに見つめると、いらない、と、静かな声だがはっきりと言った。
「俺が君達に奪われた金の合計は四十四万八千五百円。ぜんぜん足りないし、俺は君と、それから君のお母さんと、これで和解としたくはない。」
「だから、なんで母さんが出てくんだよ。関係ないだろ。」
「関係あるよ。俺は自分の体がおかしいと思いながら生きて来たけど、障害持ちだなんて木曜日まで知らなかったんだ。どうして君が知っているの?君のお母さんがそう言ったの?」
「母さんが言わなくっても、母さんの病院では有名な話じゃないか!」
「そうか。それじゃあ、君に教えたその人の名前を教えて。病院の職員の人なんでしょう?」
俺は昨日のアンリのあそこまで芝居がかった行動の意味について、今ようやく合点がいったのだ。
病院の職員は仕事の上で知り得たことを周囲に話してはいけない。
仕事の上で知り得た事、が問題になるのならば、近所でふらふらする俺を今泉の母が見かけた時に、俺に異常があると知って今泉に話すのは無問題となる。
けれど、木曜日にアンリは病院で大騒ぎをした。
そこで知った話であるならば、それは仕事の上で知り得た情報であり、その情報はいくら実の息子にでも話してはいけないことなのだ。
息子のいじめを親として咎める時に、障害のある子になんてことを、などと彼女は決して言ってはいけないのである。
そして、看護師の守秘義務について息子である今泉こそちゃんと知っていたようで、自分が俺に放った言葉が母親の背中を撃つ行為と同じとわかって見るからにたじろいだ。
「て、てめえ!何を勘違いしてるんだよ。い、いいんだよ、その話はよ。俺は、金の分だけチャラにするって言ってんだ。そんで、俺がお前から貰って使った金は十六万なんだよ。あとは曽根と林田だろ?残りはあいつらから貰えばいいじゃないか!」
「俺は動画も消して欲しいし、腹の傷を治したい。だからチャラなんかにできない!」
アンリは意外にも子供っぽい台詞を吐いたが、その声は懇願っぽく聞こえるものだった。
するとどうだ?
今泉は先程までの切羽詰まった顔付から一変して、曽根達を煽るいつもの余裕のある顔付をして見せたではないか。
ハハ、っと声を上げて笑いもした。
「ハハハ!そうだよ、動画があるもんな。小学生の前で裸踊りする恥ずかしいお前の動画。そうだよ。これからも俺達の言う事を聞いていればいいんだよ。俺の母さんにこれ以上面倒をかけたらな、お前の動画を動画サイトに上げてやるよ。わかったな?」
今泉は自分が放った金の入った封筒を拾い上げて鞄に仕舞い、そこから踵を返すと学校方面に歩き出した。
わざとすり抜けざまに、アンリに肩をぶつけてよろめかせた。
「歯向かうんじゃないよ、くず。」
今泉はそのまま歩き去っていき、彼の後姿を見送るアンリは、ポケットから彼愛用のガラケーを取り出して録音をストップさせた。
「馬鹿は本当に良く踊る。」




