病院は秘密が綻ぶところ
廊下は閑散としていて誰もいなかった。
見回してみれば、来る時には気が付かなかったが、この小部屋は手術が終わった患者を待ちながら医師の説明を受ける時用の、親族控室だったようだ。
そうプレートに書いてあるのだから間違いはない。
待機室B。
「どうして?」
「俺が火曜日に騒ぎ過ぎたからかな。今泉の母とかち合わせないように、というよりも、これ以上病院内で、通院あるいは入院中の患者達に余計な情報を与えて噂話をさせないようにって処置だな。」
アンリの返しに、俺は今泉の母が少しは困っているのかと勝手に考え、自分の母親によって胸に抱いた鬱憤の少しは解消できた。
今泉は直接殴って来ることは少ないが、林田や曽根を煽って煽って、それで俺が暴行を受けるところを手を叩いて喜ぶような奴なのだ。
そんな奴の母親が、自分の息子のいじめのせいで職場でいたたまれない状況に追いやられているとは、ざまあ以外の何物でもないじゃないか?
「人が歩いてきたら教えてくれ。お前の母親にウンザリした俺がヒステリーで爆発するタイミングが欲しい。」
俺はいつものアンリでしかないアンリにクスッと笑い、母のことは考えること自体が無駄だと自分に言い聞かせた。
さあ、いつだって俺の味方のアンリの頼みを叶えるのだ。
周囲をもう一度見回した後、手術室がある方角から、数人の看護師達が固まって歩いてくるところであるのに気が付いた。
男性二人に女性四人の六人は高校生にも見える若い顔立ちで、着ている制服はここで働いている看護師のものとは形が違う。
そして驚いた事に、彼らを先導している二人の中年女性の看護師の一人が、今泉の母親であったのだ。
「どうして?」
「患者に騒がれ過ぎて現場に出られなくなったのかな。それで研修生案内をしてんのかもな。とにかくそいつらを眺めていろ。ショーのタイミングを計る。」
「え?」
「俺達はツイてるよ。」
「え?」
俺は今泉の母がいる方角を見つめた。
今泉と彼女は似ていた。
目尻が上がっている目は綺麗な二重で、整っていると言えなくもない目鼻立ちであり、体は動き回る看護師であるからか無駄な肉が無く、俺の母より五歳は確実に若く見えた。
彼女は何も知らずにこっちに向かって歩いてくる。
彼女達があと数歩でアンリ達がいる部屋の真ん前に着くところで、今泉の母の隣を歩く看護師が俺達を誘導したスタッフの赤塚であったと気が付いた。
赤塚が今泉の母に何かを囁こうとしていると気が付き、俺は彼女達の直ぐ横ぐらいにまでふよふよと飛んで近づいた。
「ゆうな。待室Bに蒲生の親子が来てる。あとで母親だけあんたのとこに連れてくるから、あんたの息子の誤解を解いたらいいよ。いや、お前んとこの息子のせいで迷惑しているって、逆に文句を言ったらいいよ。濡れ衣と名誉棄損だって。」
「ありがとう。りさ。」
「構わないよ。ただね、注意しな。拓海先生が自分が説明したいって担当の長谷川先生に頼みこんだのはさ、大昔の患者の診察をしたいからなんだよ。」
「どういうこと?」
「蒲生晴純って子は、赤ちゃんの頃に頭部損傷で病院に運ばれた子供なの。処置したのが当時研修医だった拓海先生、だってさ。播磨看護師長の話によるとね。あの子の歩き方は変だったよ。その時の怪我で脳の機能障害も負っているのかもしれないね。」
それは俺の息を止めることができるぐらいの、看護師だけが知っている秘密の暴露であった。
俺は赤ん坊の時に大怪我をした?
だから体が上手く動かないの?
「そ、そんな子にうちの子が酷い事を!」
「私は春獅子君を知っている。誰にでもにこやかに挨拶もちゃんとできるいい子じゃないの。母親だったら信じてあげなきゃ。」
「でも。」
「嘘吐きになる、のも、悲しい事に高次脳機能障害で見られる症状よ。それに、あの母親。医者に叱られるのが嫌だって、経過観察もバックれた最低の母親なの。自分が怪我をさせたくせに。スーパーのショッピングカートの籠に子供を入れるなんて馬鹿なことをして大怪我させた人なのよ。」
「まあ!」
今泉の母は、落ち込んでいた表情を合点がいったというような明るいものに変え、俺の知らなかった秘密を暴露した看護師を見返した。
「あ、ああ!近所のスーパーで繰り返しそのアナウンスが流れるようになったのは、その事故からだって聞いた事があるわ。そうね。林田君のお母さんは、蒲生君が嘘吐きな子供だって言っていた。嘘をついて人の気をひく子だって。それは、母親が弟ばっかりだからって言っていた。」
「そうよ、そっちのがきっと真実よ。」
「そ、そうね!」
挨拶するから今泉はいい子かよ?
急には言葉が出なくて、いつも言葉が詰まるだけの俺は悪い子?
俺は俺の不幸を何も知らないで、勝手に俺の秘密をべらべら喋る看護師にこそ苛立たせられて、黙れと叫びそうだった。
違う、叫んで罵倒したいのは、自分の母にこそだ。
俺が人の言葉の意味が分からなかったり、言葉を出したくとも口から言葉が出てこないと苦しんでいたのは、俺の脳が傷ついていたから?
あなたが俺をこんな状態にしたのに、あなたは俺をいらないもののようにしか見ないのは、俺が死んでしまえばいいと思っているからなのか!
「おかあさん!」
アンリこそ叫んだ。
看護師の一群は一斉に足を止めた。
「俺は、俺は!生まれ変わってしまいたいんだよ!傷がある限り、あいつらに脅される毎日なんだ!これを聞いてよ!もう嫌なんだよ!」
アンリの悲鳴に近い大声にぎょっとしたように足を止めた看護師達であったが、今度は声がした方、彼らが噂をしていた少年が入っている小部屋の扉を一斉に、まるで暗示にかかったかのように同時のタイミングで見返した。
俺も、俺こそ見返していた。
アンリが叫んだ言葉は俺の気持ちそのままだったのだ。




