病院に行こうよ、ママ?
水曜日は学校に行き、何事も無く終わった。
市村はなんだか思いの他ダメージがあったらしく、これからしばらくは入院生活になるらしいし、北沢は俺達が考えていた通りに顔面損傷が大ごとだったらしく、数日は自宅療養となるそうだ。
ムカつく事に、谷繁は何事も無い顔で出勤していた。
そこで俺は登校してその事実を知るや、俺はもう安全だからと教室に戻さるかとひやひやしたが、俺は保健室登校どころか校長室登校となったのである。
校長室で何か起きたらそれこそ問題だろう。
そういえば、教師達は北沢よりも林田と今泉と曽根の方が俺への危険度が高いという判断をしていたな。
さて、今日は木曜日。
蒼星の皿は熱々のパンケーキなのに、自分の朝食が冷たい牛乳をかけただけのコーンフレークだけな事にアンリは不貞腐れた顔をしながらも、素直に黙ってコーンフレークを口に入れた。
がた。
隣の席に座る蒼星が俺を避けるようにして立ち上がり、手を付けてもいないパンケーキの皿を、俺=アンリの方へと押しやった。
「朝から甘いのなんていらないよ。」
彼は椅子の足元に転がしていた自分のバッグを肩に担ぐと、自分には甘い母に行ってきますも言わずにダイニングを出て行った。
「ちょっと!蒼星!」
母は愛息子の後姿に声を上げ、しかし、息子が一顧だにもしないで家を出て言った事で俺達に憎しみの籠った目を向けた。
そして、食べてしまいなさい、と蒼星の皿を俺達に押しやった。
「残飯なんぞいるか。ばか。」
「な、なんて言葉遣いを!」
「煩いな。ああ、だけど、今日はお前が必要だな。今日はこれから病院に行って俺の治療計画を立てるんだ。火曜日には言っただろ?忘れたか?」
「わ、私は忙しいのよ。そ、そんな怪我ぐらい別にいいでしょう。今は酷くても十年先には治っているんだから!」
アンリはスマートフォンを取り出すと、ガラケーから転送しておいた音声を再生して見せた。
「一画像一万でどうだ?クラス全員共有しているからさ、二十八万円?支払ったら責任をもって俺達が消してやるよ。」
林田の声がダイニング中に響き、母は息を飲み、アンリはそこで再生を止めた。
「動画?」
「俺はさ、この怪我をさせられた時、裸踊りもさせられたんだよ。この傷がある限り、俺はあいつらに脅され続ける。もしかしたら、蒼星のここぞのパーティで俺の動画が流されるかもね。林田は蒼星の学校を落ちた奴だし。」
母は、ごくりと生唾を呑み込み、わかった、と答えた。
蒼星の為ならば何だってするんだね。
俺が虚しい気持ちでふよふよと漂っている間に、アンリは朝食を片付け、母も出掛けられる準備をし終えた。
祥鳳大学医療センターにタクシーで向かった俺達は、病院に着くや待ち構えていたスタッフによって小部屋へと案内された。
母と同じぐらいの年齢の女性看護師は、ピンク色のズボン上下の制服に対して赤すぎる赤茶色のショートヘアという活動的な外見の人であるが、眼つきが何となく陰湿そうに見える人だった。
いや、俺がそんな目で見られるのはよくあることだったと、俺は今さらに思い返して自分にがっかりするんじゃ無いと言い聞かせた。
東病院の楢沢医師や看護師はいつだって優しい振る舞いをしてくれるし、火曜日にこの病院に来た時は、教授を含めたスタッフ全員がフレンドリーだったから、俺は自分が受け入れられていると思い違いをしてしまったのだ。
これが平常運転の俺の身の上じゃないか。
「このババア、敵愾心も隠さねえとは、今泉の母と懇意にでもしてんのか?」
「そっか、そういう風に考えるべきなんだね。」
「当り前だろ、ばか。お前は誰が見ても可愛い子供なんだよ?そこは忘れるな。」
俺は幽霊だけど、幽霊だからこそ、アンリの言葉に嬉しくて照れた気持ちのまま、きっと全身を真っ赤に染めていたかもしれない。
「地下へ?どうして?」
アンリの心の声にハッとして見回せば俺達はエレベーターに乗り込まされており、今泉の母の知り合いらしい看護師、名札によると赤塚は地下一階へのボタンを押したところだったのである。
「地下で始末されんのかな。」
「やめて、アンリ。」
彼女に案内された地階は、患者の姿どころか職員の姿もない静かでクリーンルームと呼んでもいいぐらいに清潔感のある場所だった。
病院内が不衛生に見えるというわけではなく、階上のフロアは来院患者もいるせいか古ぼけて使い込まれたような壁や廊下に見えるのに、ここの廊下も壁も汚れ一つなく白くてきれいなのが不思議だった。
そのまま清潔で静かな廊下を歩かされてついていくと、三つのドアが等間隔で並んでいる場所についた。
「こちらです。」
数人用の会議室のような小部屋には教授はいなかったが、楢沢医師と同じぐらいの四十代ぐらいの医師が俺達を出迎えた。
少し長めのボサついた髪の毛は殆ど坊主頭の楢沢医師のような清潔感は無いが、頼りなさそうな風貌のせいでかえって気安く感じる雰囲気を醸し出していた。
「初めまして。担当医の代りに説明を担当させていただく拓海と申します。僕の専門は脳外科となります。本日はお忙しいところありがとうございます。僕達は一日でも早く晴純君の体を元通りにしてあげたいと考えていますので、このような急な日程で申し訳ありません。」
拓海医師の自己紹介の言葉で、母はびくりと体を震わせた。
いや、俺も専門違い過ぎにびくりとした。
何で?
脳外科の先生が説明の場にわざわざ?
思いっ切りの専門違いじゃないの?
「元通りってとこでお前の母さんが動揺したな。どうしてだ?」
「え?」
母がびくりとした個所は、そこ?
それは、俺の体が受けた暴力の傷跡を、母親として思いやる気持ちが少しでもあったからだろうか。
しかし俺の傷を消していく治療が健康保険の適用外であるという拓海医師の説明から、母は医師が治療を撤回したくなる魔法の言葉を探し始めた。
経済的に我が家はキツイ、とか、成長して傷が癒えてからの方が傷隠しの治療範囲は狭くなるのでは無くて?とか、思ってもいないくせに俺がこれ以上痛みに苦しむのは嫌だとか、愚痴愚痴と言い返し始めたのだ。
もしも蒼星がこんな傷を受けたのならば。
母は一も二も無く治療を願い出るのでは無いだろうか。
俺は悲しくいたたまれなくなり、そのまま一人だけ小部屋の外に出た。
どうして母は俺がこんなに嫌なんだろう。




