池に小石を投げて波紋を作るように
アンリが俺に急遽パソコンを買わせる事にしたのは、俺のスマートフォンに送ったばかりのデータを印刷したりと、色々と小道具を作るためであった。
「写真屋に林田のパパの写真を現像させられないだろ。セルフにしても、現像写真は店員が確認するんだ。そうだろ?」
「俺よりも世情に詳しいですね。あなたは本気で本の中の英雄さんでした?」
「このやろ。」
アンリを揶揄えるほどに、俺はワクワクしていた。
アンリに引っ張られて体の中に入れられて、荷物持ちの意識と体の負荷の感覚をアンリに押し付けられたが、これこそアンリの優しさのようにしか俺には感じられなかった。
ノートパソコンと小型のプリンタは重かったが、俺は蒼星みたいに親に買ってもらった俺だけのパソコンを手に入れたのだ。
俺にはそれだけで有頂天だったのだ。
ただし、家に帰ってから、そのわくわくが全部台無しになった。
林田の父の陰部や、林田の父には恋人でも俺には御免こうむりたい歳が行き過ぎている女性の全裸など、それも二人が蛙の死骸みたいに絡み合っている図など、俺は一生見たくなかったし、新品のパソコンに取り込みたくなど無かった。
「その憎しみを糧にしろ。」
「あなたのその機嫌の良さは、あなたはこういった下品なものこそ好きだったという事なんですか?」
「ハハハ、単なる大人と子供の感性の違いだな。」
翌日の早朝、アンリは写真入りの白い封筒をポストに投函した。
宛名は林田の父であり、封筒の裏面には林田の父が卒業した高校の同窓会名を印字してあるので、洋型二号の封筒は同窓会の招待状にしか見えないだろう。
今日は火曜日。
林田の父にアンリからの地獄への呼び出し封筒が届くのは二日後ということで、林田の父を襲撃するのは金曜日となる。
アンリは学校に休みを告げると病院に行き、腹の傷を診てくれている担当医に、この傷を綺麗に消すにはどうしたら良いのかと初めて尋ねた。
東病院の楢沢医師は、坊主頭で固太りのために地蔵に見える人だが、その外見と違って無駄なことは喋らずに事務的で、しかし手はてきぱきと動かすので信頼できる医師と言うイメージであった。
そんな今までは不愛想だった楢沢医師が、なぜか嬉しそうに顔をほころばせ、俺の考えもしなかった台詞を、彼は俺に、俺の中の人はアンリだが、掛けてきたのである。
「君が前向きになった証拠だね。君は強い子だよ。自分をもっと誇りなさい。」
医師は俺達に紹介状を書いてくれた。
ここらで中学生の俺が親の付添い無しでも通える距離の大学病院と言えば、一駅隣りにある祥鳳大学医療センターしかない。
今泉春獅子の母の勤務先だ。
アンリは担当医に感謝を告げると、善は急げと言う風に祥鳳大学医療センターに向かった。
担当医の紹介状のお陰か、あるいはいじめで刻まれた傷跡の再生処置が論文になりそうなのか、形成外科の教授その人が診察室で俺達を待っていた。
初老の医師は小柄で、白くなりかけた無造作な髪の毛はふわふわで、まるで羊をイメージしてしまうような優しそうな外見をしていた。
アンリは教授に促されるまま服を脱ぎ、しかし、とても恥ずかしいという風に体を丸めて震えて見せた。
「大丈夫だから。ここにいる誰も君の傷の事は口外しないよ?」
「でも、この病院には僕にこんなことをした人の母親がいます。この部屋にいますか?この傷が消えるならって、楢沢先生の紹介でここに来ました。でも、ここにはあの今泉のお母さんがいるんでしょう?」
教授の近くで患者の為に控えている看護婦は勿論のこと、診察室にいた研修医らしき若き男女と、カーテンで仕切られた処置室で立ち動いていた看護師達やそこにいる患者さえも動きを止めた。
ちょっと甲高い少年の声が、意外にも響くのだと俺は初めて知った。
知っていてこんな声を出したアンリを凄いなと俺が見つめていると、脅える演技を続けるアンリの肩に教授の手が優しく乗った。
「ここには彼女を近づけない。君が彼女に会わないようにもしよう。それなら大丈夫かな?」
「は、はい。僕がいる時に近くにいなければいいだけなので。」
「では、見せてくれるかな。」
アンリはおずおずと、しかし、出来る限り劇的に見えるように自分を抱き締める腕を外して腹を見せた。
傷が塞がった事で傷を受けた日よりも文字らしくは無いが、ミミズが這っているかのような醜い傷跡は、楢沢医師のところの看護師が時々歯を食いしばって見せるぐらいに痛々しいものである。
塞がった傷はミミズが中に潜んでいるかのように浮き上がっているだけではなく、汚いカッターナイフの刃によって化膿した場所が、薄墨色に色素沈着した上にケロイド状となっているのだ。
これを見せれば誰も俺への暴行を否定できない印籠になるぐらい、俺の腹の傷は汚らしく醜くグロテスクなものなのである。
だから、教授も看護師も研修医達も、表に出さなくとも俺の腹に存在する傷に怒りを抱いてくれたのは感じる事が出来た。
「いじめにしては酷いな。子供のする事かよ。」
一人の研修医が呟いた。
アンリは頭を下げて、自分のせいだ、と呟いた。
当り前だがアンリを慰めようと誰かが声をあげかけ、手を差し伸べかけ、しかしアンリはこの愁嘆のタイミングにこそと、脅えた様にして言葉を続けた。
「お、お金を用意できなかったから、そ、その罰だって言われました。り、りょ、両親に相談すれば良かった。でも、俺は、親から金を盗んで来いって、言われて、俺は盗んだこともあるし、それ、それで、親にばらしたら殺すって言われていたから、俺は相談も出来なくて。でも、もう盗めなくて!今泉君には恥ずかしい動画もばらすからって、今もお金を要求されていて!でも、傷が無くなったら、恥ずかしい動画は俺だって誰もわからなく、わからなくなるから。」
その後はアンリはただ泣くだけで良かった。
俺はアンリからふよふよと離れて、カーテンの仕切りの向こう、処置が終わった患者や処置を待つ患者が聞き耳立てている様子を眺めた。
彼らは入院中の憂さ晴らしに、あるいは帰宅した後の家族への土産にと、新しい噂話を仕入れて喜んでいるようだ。
看護師も医者も俺の話はどこにも広めないだろうが、患者達は見聞きした話を嬉々として語り合い、きっと今泉と言う看護師はどの人だろうと探すだろう。
そして俺の噂話が彼女の耳に届けば、彼女こそ俺達に会いに来るだろう。
教授が会わせないと約束してくれたのに、会いに来るの、かな?
会いに来た理由が謝罪だとしても、教授の面子を潰すことになるよね?
スマートフォンを買ってもらった日は金曜日となり、その翌週から晴純とアンリは登校を再開した、というタイムテーブルです。




