報告その一 転入生が来たとクラスは騒めく
久我山秋友は自分の斜め前に視線を動かした。
意図した事では無いが、まるで習慣のようにして瞳が勝手に動くのだ。
しかしそんな自分の体の勝手にうんざりもするが、それは仕方が無いことなのだと思うので彼は特に苛立ちは無い。
彼の視線が向かう先が、一か月前から行方不明の同級生の机であるからだ。
逆にその机に誰も座っていないことについて、何の違和感も抱かなくなった時、それこそおかしいのでは無いのか。
彼はそう考える。
そしていつものようにしてクラス全体に視線を走らす。
朝のHRが始まる前のひと時。
眠いと机に突っ伏す者に、そんな彼をわざと揺すって起こそうとする友人達。
各々がスマホの情報から見つけた何かを互いに見せ合って笑い合う女子、それから、それからと、秋友の視線は再び誰も座っていない机へと動く。
そして不思議だな、と彼は考えた。
いや、腐った大人の象徴だと心の中で罵りを上げたのである。
皆原翼が普通にクラスにいた時は、彼の机にどんなに落書きや彫り物をされていても学校側は見過ごしていた。それなのに、行方不明だと騒ぎが起きた途端に新品の綺麗な机に取り替えてしまうだなんて、と。
まさかきれいな机を捧げれば皆原が戻ってくると大人は考えているのか?
それとも、皆原がただ消えただけ、としか感じない薄情さを取り繕っているのか?
因果応報も弱き者への義憤など、絵空事でしか無いんだな、と。
「おい、久我。今日から転入生が来るみたいだよ」
秋友に囁いたのは、彼と良く行動を同じにする青葉瞬である。
青葉は瞬という軽やかで活動的なイメージを想起させる名前であるが、実際は優等生をそのまま形にしたような外見と立ち居振る舞いだ。
文科系の人間が好みそうな清潔感のある短髪に、少々細めの楕円形の眼鏡をしている。もちろん、青葉が制服を着崩す事は無い。
ちなみに秋友こそ制服を着崩しはしない。
髪型は青葉よりも砕けたものにしているがそれだけで、青葉と秋友が並べば誰もが彼らを品行方正で真面目な中学生にしか見ないであろう。
そして秋友も青葉も、自分達こそ不良になど見られたくも無ければなりたいとも思っていない。ヤンキー漫画や映画を流行りものとして読んだり見たりはするが、そのような世界に生きたいと思った事など無い。彼らが好きなのはストレス解消になるような、軽いファンタジーものの方である。
そんな風に青葉と秋友は好みも話も合うのだが、秋友は青葉とは友人では無いと考えているし、青葉こそ秋友を友人と考えていないと秋友は感じている。
ではなぜ彼らが友人同士のようにして、よく「つるむ」のかは、この世は一人きりになっては危険極まりないからである。
皆原が消えたのが良い見本では無いか。
「アクションないなってことは、久我、知ってた?」
「いや、驚きすぎでリアクション困った。うちの祥鳳への転入って滅多に無いだろ? その上三年の夏休み明けでしょ。ねじ込めるって、どんだけ」
「帰国子女かな。親の仕事に合わせての帰国」
「そっか。だったら公立中の方が良くないか? うちの高校は帰国子女枠使えるだろ? テストだって簡単じゃない」
「うちはそもそもエスカレーターじゃないの。高入よりも持ち上がりの方が楽だと思ったんじゃ無いの。一番簡単なのが帰国子女枠使った高入だっていうのに」
「ハハハ。入試情報の学校偏差値でビビったのかな。それでせっかくねじ込んだのに、結局学力不足で上に上がれなかったら笑えるね」
秋友と青葉は顔を見合わせて意地悪く笑った。
彼らが通う学校は、祥鳳学園中等部麻布校である。
中高一貫の祥鳳学園は、知らない人がいない祥鳳大学の付属校として存在する。
大学が東大の滑り止め柄どころか第一志望としても人気があるため、付属校の中学も高校も、どちらも志願者殺到の難関校となっている。
そして秋友と青葉が囁き合ったとおり、祥鳳大学関係の入試について、一番の難関が中学受験でその次が大学受験、そして一番難度が低いのが高校受験であるというのは受験情報では常識だ。
ならば中受などしないで大学受験を目指せば良いと思うだろうが、受験情報誌が語っている難易度は単に倍率の話である。
中受で一番の成績を得たとしても、結局は小学生が学ぶ知識でしかないのだ。
だからこそ一定レベルの学力を保つために、中学では毎年上の学年に上がるための判定テストを生徒達に受けさせている。
その学年を上がるごとにある実力テストで一定のラインを越えねば、簡単に自主退学を勧められるというおまけ付きだ。
高校と違って中学は義務教育であるため、居住区の学区にある公立校が簡単に受け入れてくれる。よって学校側は、生徒を斬り捨てることに頓着しないのだ。
したがって、せっかく難関中に合格して勝ち馬となったはずの子供達であるのに、今度は祥鳳中学に在籍し続けるという目的で小学生の頃と変わらぬ勉強漬けの日々となっている。
「うざい奴が来て邪魔になったら困るね」
「うざくする前に余裕なんて無くなるでしょ」
「うざくする前に消えるかもしれないしね」
青葉は苛立った視線をクラスの一人に向ける。
狩谷陸。
短く刈った髪はぼさついてあちこちに跳ねている。そこが活動的な彼に似合っていると、体格が良くそれなりに整った顔立ちの狩谷に秋友は少々苛立った。
あいつを認めてどうする、と。
狩谷は皆原へのいじめの首謀者と目されている。
首謀者と断定されていないのは、学校側がいじめなど認定したくないからだろう。世界の皮肉に反吐が出そうだと、秋友は思った。
「おはよう。ほら、席に着く」
担任が教室に入って来た。担任のあげた妙に明るい空々しい声に、青葉も秋友も白けながら教卓へと顔を向ける。すると、いつもと違う風景がそこにあった。
濃い灰色のスラックスに白いシャツ、そこに紺色のぶかぶかの夏用カーディガンを羽織っているという制服どころか私服を着た少年が、教室に入って来たところである。
カツン。
教室に床を打つ硬質な音が響いた。
秋友はなぜか唾を飲みこんでいた。
でないと自分こそ飲みこまれそうな感覚に陥ったからだ。
転校生は大きいどころか小柄の少年だった。
身長が百六十くらいなのですごく小さいわけでは無いが、男子としては体つきが華奢で細い。そしてその少年はその脆弱さの演出かのようにして、持ち手がT字の杖に体重を預けながら左足を引き摺って歩いているのだ。
ショートカットの黒髪は少し長めのせいで、彼を幼く見せている。
顔立ちは頬骨が少々目立つ気がするが、繊細で綺麗な顔立ちだなという印象だ。
そしてその繊細さと目立つ頬骨が、彼を秋友達とは一線を画す存在に見せていた。
だがしかし、そんな儚そうにしか見えない少年であるのに、なぜかその少年からは存在感の圧ばかりを秋友は感じるのだ。
こつ、こつ、こつ。
松葉杖ではなく昔の老貴族が使うような杖を突いて歩く少年は、教卓の真ん前でぴたりと止まる。それからゆっくりと体の向きを秋友達がいる生徒側へとむけてから、周囲の目が全て集まっただろうその時に、少年はしっかりと顔を上げた。
秋友は思わず息を飲んだ。
少年の視線が自分自身だけに向けられた気がしたからだ。
そう感じてしまったのは仕方が無い。
少年の真っ黒な両眼は、顔の作りに対して大きすぎる。
「蒲生晴純です。訳あってこちらにご厄介になることになりました」
蒲生と名乗った少年は、軽く頭を下げた後、ニヤリと笑った。
総毛立ったのは秋友だけでなくクラス全員のはずだと秋友は思った。
蒲生が頭を下げた瞬間に、彼の額に両端に角が生えて見えたのも、自分だけではないはずだ、と。
「えっと、」
クラスの雰囲気に気が付いたか、教師が少々間の抜けた声を上げた。
彼は皆原が消えたあとに担任交代した人物のため、前の担任よりも子供達の機微を読む。
「蒲生君はお家の都合でしばらくこちらに滞在することになってね、それで、って、君!!蒲生君、君の席は前の」
ざわっと周囲で秋友のクラスメイト達が騒ぎ出す。
そのざわめきは転入生が来た事ではない。
転入生が当たり前のようにして、消えたクラスメイトの席に座ったからである。
蒲生が座ったのは、教師が座らせたかった前列の廊下側の端の席では無かった。
「三角先生。この机の上の邪魔な花瓶をどけてくれませんか? 俺は足が悪いんで自分で出来ないんですよ」
「いや、あの、蒲生君?」
「俺は端より真ん中が良いんです。先生。黒板が良く見える。ほら」
蒲生が大きく右手を掲げ、周囲もその手に誘われるように黒板へと振り返る。
きゃああああああ。
悲鳴を上げたあのは女子達だった。
男子も上げていたかもしれない。
蒲生のセリフで蒲生から黒板に誰もが視線を動かし、黒板の中央がぐにゃっと揺らいで見えたからだ。一瞬だけ。幽霊がそこに立っていたようにして。
秋友は思った。
転入生はぼっち確定だ、と。




