巣立ちの時は来たるが親鳥は梟でなし
俺は母の性格の悪さに、いや、やり方に、今回ばかりは興味を引かれた。
俺に言っていた自分の台詞を、言ってない、ことにした事ではない。
彼女は、父が俺と住むことを望んでいない、という言い方をしたのだ。
父は事前に聞かされていた、俺に高校進学を取りやめさせて父の世話をするために大阪に送る、を否定したに過ぎないが、母の言葉尻を受けての否定になるので、聞いた人間は「晴純と住む事など望んでいない」とだけ印象付けられる。
アンリに出会わなかった俺のままだったら、きっとこのやり取りで完全に心が死んでしまっていただろう。
俺と一緒に住みたい人間などいない、と。
「父さん。晴す、いや、兄さんは嘘ついて無いよ。母さんの方が嘘だって。だって、有咲さんは聞いている。母さんの言った事に凄く憤慨してた」
「江藤有咲さん?あの子は変な子で有名な子でしょう」
「ふふ」
「晴純!!そこで笑うって有咲さんに酷いよ」
「笑うしか無いだろ、おかしな奴におかしいって言われりゃ、正常ってことだ」
「晴純!!あなたはお母さんを何だと思っているの!!」
「人殺し、かな。子殺し?教唆犯?聞いた?新田医師のこと。俺はあいつに殺されかけてさ、その理由が俺が医療過誤をネタに拓海を脅迫しているからってことだった。教えてくれた君のお母さんは真っ当だ。そう言ってたなって、ハハハ、まさに真理。おかしな奴がおかしいという奴は正常。ならば、おかしな奴が真っ当と言えば?」
パシャ。
俺は母に紙コップの中身を掛けられた。
ぽたぽたと茶色い雫が俺に滴る。
俺のボディバックとジャケットに染みが残らないと良いな。
これらは兵頭さんが選んで俺に買ってくれたものなのだ。
ブランド物で、バッグは蒼星に譲れと言われた事もあったなあ、と雫が作っていく茶色のシミをぼんやりと見つめる。
「麻美!!」
「この子はどんどん悪くなるわ。あの拓海先生に治療されてから、どんどんどんどん、私達の子供じゃ無くなっている。やっぱりあの男から切り離さないといけないのよ。あいつは私に嫌がらせをしているのよ。私は出来損ないの母だって、周りに思わせたいの。だって、晴純の最初の頭の手術をしたのも彼よ!!彼のせいで晴純はあんなだったのよ!!」
「あんな、か。母さんは父さんのことも、あんなって思ってたんだ?」
「急に何を?」
「父さん、よく考えて。母さんは話が出来なかった俺のことを何て言っていた?あなたに似てって毎回毎回言ってたよね?俺は喋れなかったけど、知恵遅れだって思われていたけれど、その時だって頭はしっかり動いていたんだよ」
「いや、でも、それとこれとは」
「そうよ。私は今のことを言っているの。あの先生は医療過誤を隠したい。それで晴純を利用しているの。この子の左足が駄目になったのがその証拠よ」
「そ、そうだ。晴純。お前は自分の体が駄目にされた事をもっと考えるんだ。お前は駄目にされたんだぞ」
左足は自分で駄目にしたんだけどね。
「それで、あなた方は俺にどうしろって言うの?何を望むの?」
「家族は一緒に住むべきよ」
「そうだ。君はあの先生の所から出て、お母さんと蒼星と住みなさい」
「――父さんは一緒に住まないんだ」
「父さんは――仕事が」
「じゃあ、母さんも蒼星も、俺も、全員で大阪に住むか?」
「蒼星には学校があるじゃないの!!」
「俺は?母さん達が今住んでいる家に住んだら、足の悪い俺は祥鳳大学付属中学に通えないんだけど?」
「通えないならやめなさい。分不相応だってことよ。今の家の近くにも公立の中学はあるわ。大体、あなたのせいで引っ越すことになったのよ」
「結局、全部俺のせいで、俺は今ある全部を諦めなきゃいけないわけだ。あなたと一緒に住むならば。――決裂だ」
俺は大きく息を吐くと、鞄のチャックを再び開けた。
そして中から濡れた自分を拭くためのハンカチと、親と縁を切るための札束を取り出した。
「晴純?」
俺は父へと中身の入った封筒を投げ渡す。
父は封筒を受け取り、中を見て、俺を見た。
「これは?」
「出世したから、返す」
「これは拓海教授の金か?」
「――息子に買ってやったものだ。こんな金なんかいらない。そうは言わないんだね。突っ返せば、その金が俺の小遣いか拓海の金か、そんなことなど一つも関係ないじゃないか」
「いや、そう言う事じゃなくて、これは」
「返すよ、パソコン代。あなた方は俺の親だと言うが、俺の苦しみは一度だって聞いてはくれなかった。どうしてできないと呆れ、溜息を吐き、汚物のようにして見ない振りをするだけだった。蒼星、お前のパソコンは出世払いで借りた金で買ったものか?」
「え?晴純のは、借りた?買って貰ってない?」
「そうだよ。父さんは俺には買ってくれなかった。出世払いで返すと懇願して、それでようやく出してくれたんだ。二十八万円。当初は俺の動画を消すために要求された金でもあった」
「そんな、あの時は、殴ってごめん」
「いいよ。親がこうだ。子供の俺達に何かできるもんじゃない」
「お前のために出せるものは出したじゃないか。虐めだって何も言わなきゃわからないだろ!!」
「聞いてくれた事など一度だって無いだろう!!」
「――そんなことは」
「もういいんだよ。期待は止めた。だから返す。それから、俺がまだ未成年だってことは覚えている?」
「親を殺すって脅す気?本当にあなたは浅はか――」
「いやだなあ。あなたを殺すなら成人してからだよ」
母は初めて俺と言う子供を見た、気がする。
これまでは、俺は彼女の持ち物でしか無かったはずだ。
称賛されるために、注目されるために、全てが自分のサンドバッグだった女。
今日からお前こそサンドバッグになり得るとわかるように伝えてやるよ。
「成人してから殺人者にならなきゃさ、実名報道されないじゃないか。裁判だって非公開だ。俺はね、ちゃんと公開される裁判で、あなたが俺に何をして来たのか、永遠に誰でも裁判記録を閲覧できるように俺の供述を取ってもらわなきゃ意味無いと考えているんだよ。良かったね、あなたは永遠に噂の人だ」
「晴純」
「嬉しくないの?俺は、永遠に、あなたが人の記憶に残るようにしてあげようって言ってるんだよ。まあ、例えばの話だけど。例えば、俺を拓海から引き離すならばねって話。その場合、俺はなにも為さず、二十歳になるまであなたを殺すためだけに生きるってなるかもしれない。あなたにそこまでしてやる価値も無い気もするけど」
俺の母を名乗る女は俺を物凄い形相で睨む。
俺は母に対して笑顔を向けるだけだ。
それから、見限った父にも。
「そう、俺にはもうあなた方は何の価値も無いんだよ。俺に使った金が無駄になったと言うならば、計算して俺に請求すればいい。俺への賠償金を使いこんだそれを引いた上で返すよ」
「いや、それとこれとは」
「そうよ。あなたのせいで私達は前の家に住めなくなったんだから、元はあなたのせいでしょう」
「本当に、くそ、だな。もういいよ。あなた方は本当にもうどうでもいい。――俺はお祖父ちゃんの顔を見に行ってくる」
俺は立ち上がり、俺の家族だった者達を見下ろす。
森の梟が狩るほどのものじゃないと、虫けらを見る目で。
「母さん。拓海先生への名誉棄損は、損害賠償で破産できるぐらいだよ。その場合、今住んでいる場所を離れなきゃだよ。ママ友に笑われるの嫌でしょう?あなたにママ友がいるとは思わないけど」
俺は彼等に背を向けて歩き出したが、父にもう一言言ってやるべきことを思い出して振り返った。
「あ、そうだ。父さん。あなたは自閉症スペクトラム診断なんかしなくても、きっと俺よりも自閉症だよ。母さんの話を信じるばかりで、全く周囲の出来事を見ていないじゃないか」
今度こそ俺は歩き出す。
現実で断罪などするべきでは無いな、と思いながら。
小説や漫画通りに母達は俺にぐうの音も出ない状況になっているが、これは現実の出来事なのだ。
やってやったぜ、そんな気持ちになれるわけ無いじゃないか!!
俺は血を分けた誰にも呼び止められることなく、エレベーターホールに辿り着いていた。俺はスマートフォンを取り出し、通話ボタンを押す。
今日は学会に参加中の拓海だが、俺は彼に掛けていた。
「ピーと鳴りましたら、メッセージをお願いします」
「今日は胸で泣かせてください。俺が頼れるのはあなただけです」




