参考資料その二 狩りの味を覚えたばかりのチョウゲンボウは
晴純が席を外す時に使った理由は、嘘でしかなかった。
母に会う?ここには来ていないぞ。
なにせ、俺の方が晴純の母親の動向を知っている、のだ。
情報の出どころは晴純の弟の蒼星だ。
昨日のバリアブルスタジオパークで俺達と行動をしたことが楽しかったのか、彼は今日の水族館にも来たがっていた。
祖父の見舞いがあるからご一緒できなくてと残念だ、と、彼は俺にメッセージを送って来たほどである。
俺はとりあえず、え?そもそも誘っていないよね?と韜晦した。
しかし相手が晴純の弟であり、晴純が弟については家族愛を感じている所が見受けられるからか、俺は彼にメッセージを返していた。
おじいさまによろしく。
地元ので良ければ一緒に行こうね。
絶対ですよ!!
悠さんのそのお言葉で
嫁姑戦争がこれからだろうが、俺は今日頑張れます。
つまり、晴純の母は晴純祖父の見舞いに蒼星と行っている。
あの大嘘つきめ、という事になるのだ。
けれど俺は晴純の言葉に何の否定もしなかった。
その代わりとして、俺は晴純の後を付けたのである。
あいつが何をしようとしているのか俺は確かめ、そして、あいつが困った事になっていたら俺が助ける。そう決めたんだ。
俺は拳を握る、今の自分にはできるはず、と。
父親が警察官だけあって俺は幼少時から剣道道場に通っている。
だが、同じ様に通って段を取っている夏南と違い、俺は級どまりだ。
初段など九割がた合格するというのに、その一割となるとは。
俺が試合で勝てないから合格しなかったのではない。
剣道はどう戦うかが大事にされるため、声が小さいとか、打って出る覇気がない、などと俺は実技試験で評されてしまったというだけだ。
やあ!なんて甲高い声を出した方が力が出ないからと息をつめ、相手がここぞという隙を見せた時に胴に竹刀を当ててしまう俺は、評価に値しないらしい。
「それがどうした。俺はあいつをやってやった」
昨日のバリアブルパークで俺の頭に銃口を突きつけたのは、晴純を狙っているジェレミア・ドゥーニではなく、武雄家にできた汚点だった。
どうしてこの男が晴純までも狙っているのかと疑問が湧いたが、俺に銃を突きつけた男の甘ったるい口臭を嗅いだ時に頭の中から余計な事が消えた。
こいつをぶちのめす、それしか考えられなくなった。
どうしようもない姉だが、それでも愛していた。
なのにこの男は、姉を貶めて薬漬けにしただけでなく、顔の形が変わるほど殴りつけて壊した。そればかりか姉の痴態の動画で我が家を強請り始めたのだ。
あの男の顎を杖で突きあげて壊してやった時は、人に暴力を振るってしまった後悔など無く、ただ胸がすっとした。
「余計な味を覚えさせてしまったな」
三角があの男を拘束する時に呟いた言葉も思い出し、俺はハッとした。
三角のあのセリフは俺に対してのものか?
俺はあの時に覚えたあの感覚が欲しいだけで晴純を追っているのか?
俺の足は止まる。
それは自分の行動原理に疑問を感じたからだけでなく、視界の中の晴純が不可解な行動を取ったからである。
ジンベイザメの展示室を出た晴純は、いつもよりもよろよろとした歩きなのも変だが、関係者専用通路の扉の奥に消えたのだ。
「あいつは、何を」
俺は一歩踏み出したが、再び足を止めることになる。
晴純の後を追うようにしてフードジャンパーを着た男性が、晴純が開けたその扉を続けて開けて中に入って行ったのだ。
昨日の俺のように顔がわからないように目深にフードを被っているなんて、危険な奴だ疑ってくれと言っているも同じじゃないか。
「はれ!!」
俺もそこに向かおうとしたが、やはり足を止めねばならなくなった。
扉の前に一人の青年が立ったのだ。
紺の襟の襦袢に薄鼠色の紗の着物を合わせた姿は、昭和初期のノスタルジックな世界を呼ぶが、夏休みの水族館というロケーションの為か違和感は感じない。
それどころか彼の前を通り過ぎる女性は、何かの撮影をしていると思い込んで彼の方をちらちらと盗み見てはクスクス笑いをしている。
藤さんはアングラ劇団の座長兼演出家兼役者なので、外見はそれなりだ。
俺が彼をイケメンと言わないのは、彼が常に疲れ切った顔付をしていることと、鹿角警視というなんか存在からして異世界な人を知っているからである。
鹿角警視の機嫌を絶対に損ねるんじゃないよ。
鹿角よりも階級が上のはずの父の言葉だ。
父が脅える相手には俺も恐れ多く晴純のようにできないが、目の前の藤は俺と晴純を弟分のようにして連れ回してくれる気安い人である。
俺は藤に駆け寄った。
「藤さん。何をしているのですか?」
「君は俺に背中合わせで話す事を望んだ」
「え?」
「しかし俺は君の姿が見たい。黄泉比良坂から生まれ出た悪鬼だとしても、俺は君の姿が見たいと望んだんだ。幾千幾百の生贄を捧げようと」
ぶわあ。
藤の芝居が掛かった台詞が終わるや突風を感じた。
俺は藤の仕業なのかと彼を見返すが、俺の目線には有咲と夏南がいた。
いや、二人だと思うけれど、彼女達の顔が良く見えないのはなぜだろう。
「おかえり」
「それじゃあ行こうか?」
え?
周囲を見回すと、俺はいつの間にかジンベイザメの展示室の前に戻っていた。
「あれ、え?どうして」
「次の場所に行こう?」
「いや、待って、俺達は待って無きゃ」
「誰を待ってるの?あいつはお前なんか待っていないよ」
「え?」
俺の右腕は夏南に掴まれた。
俺の腕は夏南の両腕に抱え込まれ、前のめりになる勢いで前にひっぱられ。
「悠、どこに行くの?」
晴純の声にハッとすれば、有咲も夏南もおらず、俺は下り階段に一歩踏み出すところであった。晴純の声掛けが無ければ落ちていた?
ぞっと背筋に冷たいものが走る。
「――ごめん。なんかボケてた」
「そんなの、俺もよくあること」
「ないよ。やっぱり勘違いだ。僕はぜんぜんダメだね」
君はきっと誰の手も借りず、あの不審者にもうまく立ち回っていたのだろう。
俺が君の力になれるなんて考えることこそおこがましいのだ。
「悠、君は傲慢で頼むよ」
「一人称は僕でと頼んでおいて?」
「君は誰かを傷つけようなんてしない人だ。だから誰よりも傲慢でいるべきだ」
意味が解らない。
だけど、彼にはいじめに遭って苦しんでいた過去があったから、同級生達に揶揄われていた俺のことを誰も傷つけない人間だと思い違いしているのだろうか。
あいつに暴力を振るって得た快感で、あの体験をもう一度したいって思っているような奴だぞ。
「小虫の羽音にいちいち反応するなってこと。君は鷹、いや、一撃必殺の隼だな。ここぞという時に動けばいいってこと。些末なことは俺にやらせればいい。夏南を見習え。あいつは自分の仕事まで俺にさせるぞ!!」
「私の悠との時間を晴純が取るからよ!!今だって、二人で勝手にどこかに行こうとしてたし」
「え、二人でトイレ探してただけなんだけど。君こそ有咲置いて来るなよ。あいつは意外と寂しがり屋だぞ」
「えへへへ、いやあ、晴君はあたしのことわかってるなあ。なのにさ、あたしらのこと置いてくって、どういうこと?」
「――実はその説教を晴にするために追いかけてたんだ、僕はね。すぐにスタンドプレイしようとするこいつを叱ってやってよ、君達」
有咲と夏南へと俺に追いやられた晴純は俺を睨んだが、君が言ったんじゃないか、ここぞという時に動けって。




