愛は純粋であるほどに凶器となる
空っぽになってしまった病室の中で、男の悲痛ともいえる声が響いた。
「君はずっと鹿角しか愛していなかったのか!」
「まあ、何をおっしゃるの?私は英敏さんを愛していたわ。でも、彼は死んじゃったもの。そうしたら私はフリーじゃないの。鹿角さんもまだフリー。問題なんか無いわ。彼は人の子供を育てるのが好きな人。私には父親を失ったばかりの子供がいるわ。」
「君は!」
井筒は自分こそ悪人だった事を忘れて、目の前の可愛らしい女性が、意思の疎通が不可能な宇宙人のようになってしまった事に、ただただ声を失ってしまっていた。
俺こそそうだが、俺の頭の中には有栖川の言葉が思い出されていた。
優花の言葉に惑わされた、という彼の懺悔だ。
「優花さん。あなたは鹿角さんに恋をしていたから、鹿角さんの悪い噂を有栖川さんに伝えたのですか?」
彼女は、あら?、という顔付をして、それから全くの罪悪感も無い顔と口調で彼女の信じている事実らしき事を口走った。
「悪い噂だなんて!彼と私は高校時代に愛し合ったの。それで悠が生まれた。でも、私達は互いの人生の為に別れるしか無かったの。だから彼は志穂里に執着したのよ。自分が父親と言う事も出来ず育てる事も出来なかった悠の代りに、彼は志穂里の子供に執着したの。悠よりも一つだけ年上の、悠に似ていた男の子。でも、そんなのは、愛じゃない、そうでしょう?志穂里なんか、鹿角さんの七つも年上の人なんだから!」
優花は俺に向かって一歩を踏み出し、そして、俺をまじまじと見つめた。
優花の黒い瞳はプラスチックみたいな輝きで、まるで虫みたいだと思ったら、俺の背中にぞっとしたものが走った。
「そうでしょう?あなたへの執着も違うわ。間違っている。彼が愛すべきは本当の子供である悠になの。私のいとし子。私と鹿角さんの愛の結晶よ。悠の身代わりの颯来君も本当のお父さんがいたんだから、お父さんの元に戻ればいいの。そうでしょう?本当のお父さんは必死で颯来くんの居場所を探していたのよ?」
優花の言葉の後に、俺の目元で星が散った感覚を受けた。
殴られた時のあの感覚だ。
「この裏切り者が!浮気者があああ!」
「おかあさんを殴らないで!」
男の大きな拳によって、小さな男の子は殴られて壁に叩きつけられた。
壁を真っ赤に染めた子供は動かない。
男の身体はそこで動きを止めた。
「あああああ!」
俺は叫んで起き上がり、自分を守って壁に叩きつけられた子供を抱き上げた。
どうしよう、ああ、病院に連れて行かないと!
俺は部屋を飛び出すと、駐車場に置いてある自分の車へと急いだ。
病院に連れて行かなければ!
外は大雨の真っ暗な真夜中だ。
急に眩しくなった!
俺はハンドルを切り間違え、俺の運転する車は中央分離帯に乗り上げた。
「まあ、どうしたの?頭が痛いの?」
優花が俺に掛けた言葉に、俺はつめていた息を吐いた。
俺の息は一瞬だけ白い湯気となったが、次の息は普通のものだった。
今見えたものが、鹿角の愛した人の最期だったのだと、俺は悲しい気持ちで認めるしかなかった。
そして、鹿角は俺の様に追体験していなくとも彼女達に何が起きたかは絶対に理解しているのだろうと俺は思い、鹿角の喪失感を思うと涙が出た。
「どうしてあなたが泣いているの?」
「ひ、ひどいよ。あ、あなたが、志穂里さんの別れた夫に連絡もした?」
「本当の家族が一緒になることが正しい形だわ。」
「それで志穂里さんが亡くなったんですよ?あなたは彼女と彼女の息子の死を何とも思わないのですか?あなたが殺したと同じなんですよ!」
「ええ、悲しいわね。本当の家族じゃないのに、鹿角さんにしがみ付いてしがみ付いて、邪魔でしか無かったのが事実でも、死は悲しいものよ。でも、いいえ、あれも彼女の執着ね。志穂里はわざと死んで、鹿角さんを縛り付ける呪いを掛けたのかもしれない。だって、鹿角さんは私とのことを忘れているのだもの!」
俺は茫然と優花を見つめるしか無かった。
彼女の頭の中では、鹿角と愛し合った過去がしっかりと記憶されていて、それを元に彼女が今まで生きてきたと言う事なのか、と。
優花に可愛がられてきた武雄に、彼が彼女の子だと思い込ませるぐらいの、まるで異次元から転移してきたような優花の思い込みは、俺がアンリという存在を頑なに手放せないそれとそっくりではないか、と。
いいや、違う。
俺のアンリは他の人達にも認識されている!
思い込みの存在なんかじゃない!
「あなただって言ったじゃない。毎日帰って来ても子供に向き合わないパパよりも、なかなか会えなくても子供一番のパパの方が良いって。」
「俺が言ったのは立神さんのことです!鹿角さんのことじゃない!」
「鹿角さんはひたすらに悠のことを思っているはずなの!颯来くんを口にしながら、私と悠の事を思い返しているはずなのよ!こんなに愛されている私と、こんなに彼を愛している私が一緒になれない方がおかしいの!そう思うでしょう?」
「で、では、美優ちゃんは!鹿角さんの血なんて引いていないでしょう?あ、あの子はどうなるんですか?あなたは美優ちゃんを愛してはいないのですか?」
俺が母に愛されないように、あなたも実の子供に愛を与えない人なのか?
優花はうふっと微笑んだ。
「愛しているに決まっているじゃない!だって、美優は英敏さんの赤ちゃんじゃない!英敏さんは鹿角さんの親友よ。それに英敏さんが亡くなった今、美優には本当のお父さんがいなくなってしまった。ほら、本当のお父さんがまだいた颯来くんとは違うでしょう?ねえ、違うでしょう?」
彼女はさらに一歩前に踏み出し、俺はとうとう一歩後ろへと下がった。
しかし、俺の背中には硬いものが当たった。
俺は病室に足を踏み入れていたが、扉は明け放したままだった。
それは俺の安全の為である。
だが、その判断が俺を危険に陥らせたようでもある。
「まだ見つからないのか?立神を撃った銃を先に見つけられたら……、うわっと。」
俺の背中がぶつかったのは、戸口から入って来たばかりの大柄な男。
そう言えばエントランスを制圧したのは二人組だったなあ、と俺は黄昏るしか無かった。
井筒の相棒らしき樋口は頭を短めの短髪しているが、しかし鹿角の部下には無い軽薄そうな流行が見えるカットであると一目でわかるものである。
スーツ姿の今でも、絶対に樋口は真面目な公務員には見えない。
つまり、警察官にしては、通常以上に金をかけている洒落物という雰囲気なのだ。
雑誌から抜け出て来たような私服姿となる鹿角は、持ち物が確実に金の匂いが見える物ばかりだったから、一般人が彼のようになりたいと望むと金を得るために違法なものに手を染めねばならなくなると言う事なのだろうか。
常軌を逸した優花といい汚職に染まった立神といい、あいつこそ人を堕落させる悪魔なんじゃないのか?
「このガキがどうかしたのか。」
俺は樋口に首根っこを持たれて持ち上げられ、樋口の外見に想い馳せるよりも逃亡を考えるべきだったと臍を噛んだ。
だが、俺は梟としてここにいる。
俺は普通の子供じゃない。
拓海教授の大事な子供であり、法務大臣の有栖川に目を掛けられていると、重要人物となっているはずなのである。
彼らの認識においては。
だったら、俺への乱暴は控える、はず。
俺は大きく杖の先を床に叩きつけた。
「おろせ!俺に大事なもののありかを教えて欲しいんだろう?お前らの犯罪の証拠となる大事な大事な正義の残り香だ。知りたいんだったら俺をもっと丁寧に扱えよ!」




