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相談その四 噂は人の心を蝕むようです

 俺は俺と有栖川を真っ直ぐに見つめる武雄に射竦められたようになり、武雄の傷ついた心を解せる何かの言葉など一つも浮かんでこなかった。

 それは祖父である有栖川こそであろうか。


 彼はハフっと、大きく息を吸った。

 まるで武雄のぶつけてきた疑惑が真実だと吐露するかのように。


「この馬鹿息子が!何を勘違いした妄想を人前で叫んでいるの!」


 鋭い女性の声に見返せば、武雄のベッドの向こうとなる戸口に、武雄の母が立っているのである。

 彼女は応接間で見せた上品さなどかなぐり捨て、見るからに怒りに満ちているという風に顔を歪めて、その鬼と化した風貌のままずかずかと武雄の移動ベッドへと向かってきた。

 そこでなんと、物凄く大振りした右腕で武雄の頬を殴りつけたのである。


「はひゃ!」


 俺の隣の有栖川が脅え声を上げ、先ほどの彼の息を飲んだ音が、武雄が突きつけた疑惑にではなく、彼の娘である景子の出現に彼が脅えたからなのだと理解した。


 だって、右腕右足骨折中で右肩には銃創もあって、ついさっきまで意識不明だった子供を、目の前の景子さんはもう一度殴りつけようとしているんだ。

 俺こそ、うひゃあ!となった。

 気が付けば、第一打でベッドに沈められた武雄の上に俺は反射的に覆いかぶさっていた。


 ごつん!

 平手でなく拳か!


「あ、っ!」


「まあ!ごめんさい。大丈夫?大丈夫だったら、ほらどいて。あなたが受けた分もしっかり息子を殴るから。」


「いや!殴らないでお母さん!悠君は大怪我、大怪我中です!」


「私が殴って死んだらそれまでよ!腹を痛めた母親を侮辱する息子なんか、しっかりと殴りつけて躾なきゃでしょう!優花を母と思い込んでいたって!この子は私が今まで祖母だと思っていたって事じゃないの!悪かったわね高齢出産の年寄り母で!」


「ほら、景子、少し落ち着きなさい。悠は混乱しているんだよ。ほら。」


 武雄を庇う俺を庇おうと有栖川は身を起こし、しかし今度は彼こそ景子にベッドに沈められていた。

 言葉だけで。


「親子の一大事に口を挟むな!点滴中のお父様は黙って寝ていなさい!」


「はい。」


 え?


 有栖川は静かにベッドに横になり、俺は武雄家の恐るべき武雄の母にガクガクと震えるしかなかった。


「悠、見捨てていいか?」


「いいよ。僕は今日こそ真実を確かめなきゃいけない。」


 俺が武雄を見返せば、武雄の顔は死刑囚の様に覚悟を決めているものであった。

 武雄のその表情から、彼がこの疑惑に悩んでいたのは、俺と有栖川の会話を聞く前からなのだと俺は気が付いた。


「悠。」


「景子!悠とお義父さんは大丈夫だったか!」


 集中治療室は千客万来だ。

 武装集団はどうしたと言いたいが、俺は武雄の父親が戸口に現われた事で、現在の事態の収拾がついた、と感謝ばかりだった。


 いや、ムカついた、の方が大きい。


 武雄の父は中背でしかないが、ひと目で警察官だと納得できる体躯をした男性であり、そこは息子である武雄と全く違っていた。

 だが、印象を決める顔の造形、つまり、丸みを帯びた大きな瞳や、綺麗な三角形の隆線を描く鼻筋などは、俺が武雄の顔に見出して来たものばかりなのである。


 ごつん!


いた!何するの!晴純は!」


「いやだって、お前何考えてんだよ。親父さんとそっくりじゃねえか。お前と姉さんは父親似じゃねえか!ちくしょう。優花さんの目元がお母さんそっくりだから、悠と優花さんを母親似だと思い込んじゃってたよ。」


「ええ?僕はお祖父ちゃんに似ているって……。」


 俺は武雄の怯えた表情に、武雄が思いつめていた考えに俺の言葉によって更なる追い打ちをかけたのだと気が付いた。


 母の子供じゃない。

 姉の子供だと確信していた。

 祖父似だと思っていたから、父親は別にいる?


 そこで突きつけられた事実。

 母の子供でない自分が、目の前の父親にそっくりだったら?


「悠。その思考は危険だ。やめておけ。」


「だけど、はっきりさせなきゃ。姉さんだって僕を私のいとし子だって。」


 それは単に優花が年の離れた弟が可愛いと思っていたからじゃ無いのかと俺は言いかけたが、その優花の振る舞いであの立神が武雄と同じ妄想に囚われたのだとしたら、と気が付いた。


「えっと、あの。」


「母さん!もう誤魔化さないで!近所の人は知っていたよ!みんながみんな、僕が姉さんが高校生の時の子供だって言っていた!姉さんが長い休みから学校に帰って来たら僕が生まれていたって!だから僕が五歳になった時に、こっちに引越して来たんでしょう!」


 景子は武雄の言葉でさらに怒りの形相になったが、今度の怒りは息子へではなく、息子に毒を注ぎ込んだかっての隣人たちに向けたものだった。

 だって彼女は怒りの表情を一瞬で武雄に対する憐れみに変え、辛かったわね、と一瞬前には俺まで殴りつけた人とは思えない優しさで武雄に縋りついたのである。


「ああ、ずっと悩んでいたのね。そんな、そんな小さな頃から!ええ、そう。引越しはその噂のせいよ。近所の連中にウンザリしたの。でもね、優花については普通に留学させただけよ!私は切迫流産で、あなたを生む日までの三か月は入院しなければだったの。だから、留学したいと言った優花の申し出は渡りに船だったのよ。お父さんは単身赴任には慣れているから一人でも大丈夫でしょう?」


 武雄の父唯一が景子をそっと武雄から剥がし、大事そうに彼女を抱き締めた。


「うん、ごめんね。僕と優花が当時は仲が悪かったばっかりに。」


「いいえ。私も悪いのよ。あの子の反抗期を上手く和らげてあげられなかったから。」


 俺という家族じゃない人間の目の前で、武雄夫妻は互いを慰め合うという仲睦まじさを見せつけはじめ、俺は親友をベッドに押し付けて寝かせた。


「悠、嫌でも受け入れろ。お前の両親は中二病な俺達には痛いくらいの仲良し夫婦だ。」


「はは、そうだね。それで僕は、単なる噂をずっと悩んでいたわけか。母さんを母さんじゃ無いと思いながら生きて来たっていうのか?十年近くも、ずっと?」


 俺は武雄の額をそっと撫でた。

 武雄の額は俺と違ってでこぼこのないつるっとした丸いもので、小さな子供みたいな額だと俺は感じた。

 彼は俺と違い、きっとこれから父親ぐらいに確実に背が伸びて、父親のような秀でた額なんて恰好良いものになるのだろう。


「晴純?」


「お前さ、俺もだけどさ、まだガキじゃない?まだ親に抱きついて甘えても良いんじゃないか?失った十年分、これから取り返すように甘えちゃえよ。そんでさ、この十年分、無駄にいい子だった分我儘しちゃえ。ろくでなしになっても大丈夫だよ。俺達はこれからが反抗期なんだから。」


 武雄はぷすっと吹き出して、それから声を押し殺しながら泣き出した。

 彼はずっと苦しんできた。

 彼が襲撃者達に殺されても家族を守ろうと決意したのは、きっと、自分の存在で不幸にしてきたと思った家族への贖罪な気持ちだったのかもしれない。


「晴純君、素敵なアドバイスをありがとう。」


 俺のトレーナーが引っ張られ、有栖川はテレビでは絶対に見せない涙目で俺を見返してくれるじゃないか。

 俺はそんな彼に微笑み返していたが、やはり口が勝手に動いてしまっていた。


「あなたでも惑わされるんです。噂は怖いですね。」


「そうだな。だが、当の優花が自分のことだと思っていなかったのだけは救いだな。」


「鹿角さんの噂は優花さんが?」


「学年は違うが同じ高校だ。立神君の部下の井筒君も鹿角君と同窓って聞いたな。」


「そうですか。では、ここからは水入らずで。」


「君は!」


 俺は有栖川の笑い声を背に受けつつ武雄の両親に目礼をすると、左足を引き摺りながら歩き出した。

 兵頭は俺の動きに気が付いたが、俺が彼女に向けて右手で示した手話を読んだことで彼女は俺を引き止めなかった。


 中指と薬指と小指の三本を立ててWを意味させて、親指と人差し指でCを作る。

 つまり、トイレに行ってくる、だ。


 武雄県警本部長がここにいると言う事は、院内に平穏が戻った証拠でもあり、だから俺は好きにトイレに行けるはずなのだ。

 行き先はトイレでは無いのだが。

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